ミスマッチ人材の活用-成熟した社会
- 2014年 9月 19日
- 交流の広場
- 藤澤豊
経済発展して先進工業国に近づくに従い高度な専門知識を必要とする仕事が増える。途上国が低コストを武器に輸出産業を振興して産業化を進めていったとき高等教育を受け専門知識をもった人材の不足が問題になる。労働集約産業に留まっている限りこの問題が先鋭化することもないが、経済成長が労働コストの上昇を招き、そのままの産業構造では引き続く経済成長を望めない。経済成長を継続するにはより多くの付加価値を生み出し得るよう産業構造を高度化しなければならない。産業構造の高度化には高度な高等教育を受けた広汎な領域の専門家が必須となる。
大雑把にまとめれば、次のようになる。継続した経済成長(A)は今までより高度な専門家集団(B)を必要とする。高度な専門家集団(B)の育成には高等教育(C)の充実が必須。
高等教育の充実とはいったい何を意味しているのか、またそれで何の問題もなく継続的な経済成長が可能なのか。
今日の経済社会や産業は、十年、二十年前あるいはもっと前の高等教育を基礎とした応用によって実現され、支えられている。将来の経済社会を支える高等教育は今日の経済や産業の成功を基礎に提供される。あたり前の話で今日の社会は昨日の社会の遺産の上に成り立っている。教育も然りで明日に向けた過去に基づいた今日の教育がある。ただし明日の先に向けた今日が過去になった明日の教育はあり得ようがない。それでも経済成長を牽引し続けるには過去から引き継いだ高等教育を超えたところの高等教育が求められる。
明日求められる専門知識は明日確立し得るもので、今日の時点ではその基礎基盤までしかない。では、将来渇望される専門知識の創造を支える基礎基盤を今日の高等教育が提供し得るのか。社会や知識が高度化すればするほど、専門知識が特定の専門領域においてしか真価を発揮し得ないという領域の細分化が問題になる。この問題は必然として今日教育し得る基礎基盤が明日のどの専門領域の創造の環境を提供し得るのかという問題を提起する。
社会経済や技術革新の変化が加速すると、それを支える広い意味での文化や技術を生み出す根幹にある教育体系が追いつかない。求める側の進化が早すぎて教える側が追いつかない。極端な場合には今日の社会においてすら大して役に立たないことしか教育する側が提供できないという冗談のような状態に陥る。十年、二十年前には必須とされた知識が今の社会では実用性がなくなって、まるで江戸末期の朱子学のように歴史的教養にすぎないような知識しか提供しえないということすら起きる。そこまでゆくと、それはもう教える側に社会が提供し続けている失業対策事業のようなものでしかなくなる。日本もまだ豊なのだろう、通勤中にこの類の失業対策事業の広告宣伝をよく眼にする。
社会も科学技術も高度化すればするほど加速的に限定された狭い領域の専門に分化する。狭い領域に分化すればするほど、特化した専門は近傍領域においては専門外になる。高度化した社会経済や産業を牽引するには特殊専門領域に特化した専門家集団を必要とするが、個々の専門家の立場から見れば、特化した専門領域から多少(専門家でない者には取るに足りない多少)でもズレれば、専門家ではないという問題に遭遇する。自身の専門領域以外では専門家ではなく、専門家としての知識や能力を発揮しえないという社会的にも個人的にも損失が生じる。高等教育を個人に対する投資として見れば採算に合わない投資になる。
時代の要請にマッチした一握りの人材を得るために、採算に合わない投資―時代の要請にマッチしない人材を排出し続けるのは避けられないだろう。マッチしない人材の割合を減らす努力をしたところで、狭い領域の専門化が進めばマッチした人材よりマッチしない人材の方が多くなる。細分化された領域における高等教育を受けているがゆえに狭い領域での専門家を必要とする社会にマッチしない人材、個人の不幸である以上に社会の損失としての問題になる。
経済発展を継続し得るかというより、それを安定的に可能する社会としての成熟はマッチした人材の活用にあるのではなく、マッチしなかった人材にどれほどの活躍の場を提供できるかにかかっているような気がする。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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