テキストとしてのちきゅう座読本は如何にして可能か?(マルクス復興プロジェクトを開始しましょう!)(1)価値形態と関係形態(2)理論から実践へ
- 2015年 5月 8日
- 交流の広場
- 武田明
(これはあくまで一愛読者としての提案です。)
(出来るだけ散漫となるリンクを挟まずに書き上げたいのですが、具体的に、何について語っているのか、そして、後日の資料性の担保として時間を節約して時事的に書き上げるには仕方がないものがあります。その為の読みづらさ、ご容赦のほどを。)
中国経済が米国を抜いて世界一になる時、中国封じ込めに失敗した安倍ドンキホーテ政権に未来はあるか――AIIB問題で世界の孤児となった日本
http://chikyuza.net/archives/52164
本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(86)
http://chikyuza.net/archives/52808
中国の動きをどの様に捉えるか?
これが、現代の焦点のように思います。
日本左翼は中国の「新常態」をどうとらえているか
http://chikyuza.net/archives/52805
HOWS講座(5月16日)にご参加を!
http://chikyuza.net/archives/52780
社会主義理論学会2015年度(第26回)研究集会(『さあ「資本論」を読んでみよう』著者余斌氏講演)
http://chikyuza.net/archives/52499
会場から「毛沢東選集ほか大部分の毛沢東文献に目を通したが「資本論」に目を通した痕跡が見当たらない。」この様な質問が出ていました。
資本論を読んでいるのか否かで、認識がどの位変わるのか?
中国や北朝鮮のタブーとは、「政府批判」のタブーであり、危険思想や左翼文献学としてのタブーではないのだとしたら、名目上の社会主義とは何であるのか?
それは、ただの全体主義でしかなくなっているのか?
それであって、今日の経済発展は、資本主義でしかないとするあり方に対して、政治的修正(改革)としての転換の可能性は、何処にあるのか?
簡単に言うなら中国における格差は、如何に是正される=真の社会主義へと提案できるのかの問題であると考えます。
(1)価値形態論と関係形態論(仮称)
ミヒャエル・ハインリッヒ(1957年―
『資本論』の新しい読み方 21世紀のマルクス入門
http://revolutio.exblog.jp/21764965/
ようやく図書館の順番が回ってきましたので、読み始めています。
ネグリ批判、ハーヴィー批判から開始されています。
「(ネグリは、マルクス「資本論」の)それらのカテゴリーは、今日の資本主義の発展の分析に用いられる一方、時代遅れのものとして批判されてもいる。」(p10)
「デヴィット・ハーヴェイのように価値形態論は「退屈」だと理不尽に難題したり、価値形態論と物神性論の区別がついていない議論さえみられる。」(p296)
訳者である佐々木隆治氏は、物象化論の著作が多数あるようです。
(区の図書館にて見いだせないのが残念です)
http://iss.ndl.go.jp/books?locale=ja&any=%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%9A%86%E6%B2%BB
この場合、ハインリッヒ氏が正論を述べている様に思えます。
しかしながら、知りたいのは、「新しい」ではなく、「普通の」資本論としての広報流布です。
新、新、新。新左翼からアソシエへ、そして、ナムへ。作っては壊れる現在の日本の新党ブームとしての政党政治の崩壊の様に、どんどんダメになっていった先細りを付け加える方法論では何も変わらず、自壊してきた経緯があります。
残っているのは、古くから名を持っている自民党と日本共産党だけと言う有様。
同じように連動していることを猛省しなくてはならないのです。
問題は、毛沢東の「資本論」理解、更には、ネグリ、デヴィット・ハーヴェイ氏に至るまで、基本的誤読性を持っている事を今更のように指摘して追加されている事ではないでしょうか?
20世紀では、誰も「資本論」を理解していなかった事が問題であると問題の核心を感じずにはいられません。
誤読しか出来ずに来たのだとしたなら「教える側」に問題があったと言う事です。
しっかり、読める「資本論」としては、デヴィット・ハーヴェイ氏のように「資本論講義」をユーチューブに上げていく事が必要です。
退屈ななぞるだけのものでない「生きた資本主義分析」としての内容としていかねばなりません。
それが出来るなら苦労しないと言われそうですが、テキストとしての「資本論」は既に、既在するものです。
人類が、この書物を誤読したままに、先に進めていないのだとしたらこれこそ時間の損失、「喪われた200年」でしょう。
まずは、「価値形態」論争の滑稽を指摘していかねばなりません。
木を見て森を見ないと言うのはこの事です。
しかし、ハインリッヒ氏は、
「資本論は、労働者へ世界観を与える書物ではなく経済学批判そのものなのです」と述べています。
これには、同意するのですが、何故、こんな簡単な理屈について蹉跌を起こし読解そのものが妨害されて来たのかが不思議でなりません。
意図的に読解を妨害しているとしか思えない節があります。
この蹉跌こそが、途上的知性の限界であり、労働者の奴隷化が進んでいる要因ではないかと感じているのです。
「新しい」よりも「普通に」読めて、流布できる「資本論」の作成が必要である。
まずは、「積んどく本」とさせない手立てから開始しなくてはなりません。
価値形態論については、主題的に、後日、明らかにしていく予定です。
一応、「関係形態」として、考察を先行させながら価値形態へと戻る予定です。
資本主義の終焉と歴史の危機
http://revolutio.exblog.jp/21769749/
国家と経済
http://revolutio.exblog.jp/21765065/
ルソー「不平等起源論」と文化人類学
http://revolutio.exblog.jp/21765100/
ピケティ格差の源泉としての「自然法」問題
ホッブス、自然法、孔子――水田洋教授の見落としと経産省前テント
http://chikyuza.net/archives/52716
既に、「自然法」問題としては、こちらがあります。経済学が、細分化される前に、「国民経済学」としての場があり、【全体集合】としての「国家」があったわけです。
政治を担当するのは、貴族であっても武士であっても良いのですが、法や憲法意識がまだ未発達であったとしても「国民を飢えさせない」「育成する」目的を持って、社会組織化されて来た事は、キリスト教、儒教、仏教そして、イスラム教の精神に至るまで一貫しており、人類史は、それを求めてきている事がわかります。
何が、その倫理を破壊して来て分裂させてきたのか?
それを「資本主義」的要素とみる事が出来る事を実証していく事が可能です。
キリスト教も十字軍や中世スコラ哲学期を持っていたではないかと言うのは、「結果論」に属します。
善意が、結果として悪い結果をもたらすことがありますが、それによって、キリスト教もヘーゲル哲学も崩れていない、基本理念があるのは明らかです。
時間がないので、これ以上語りませんが、ここで問題としたいのは、資本主義の人類悪が、何故、生じていて人倫にどの様にそむいているのかの展開です。
「自然法」問題からかたずけて、「格差」起源論を考えつつ、ピケティにつなげる事も可能ですが、ルソー「不平等起源論」では、単純に社会と自然を比較していますが、実は、文化人類学の発展もあり、更に、「猿学」としての眼に見える段階に来ています。
白土三平氏の「カムイ伝」狼=ロビンフットの生態から猿学へ、「順位制」社会、蟻の秩序も同様にあります。
「格差」は、如何なる起源として、「自然」=「科学」から、「社会」として分析されるのか?
これを、考えながら、更に、人類史としての抵抗の歴史を問う必要があるわけです。
「歴史」としては、より自然なる状態としてのホッブスの争いとしての状態があり、古代史の力の支配と奴隷状態があり、それを是正していく「フランス革命」自由、平等、友愛があり、資本主義からの解放としての意義が今、問題となっているのか?
人類の解放としての世界が、何故、未来のたゆまぬ努力としてしか実現できないのかの問題もあるのですが、資本主義分析こそが、人類の最大の宿願であるのは確かであると僕は、これ以上の正論を見出せません。
人は、五木寛之氏が、述べるように、「大河の一滴」ではあるものの、「存在と時間」「人間臨終図巻」にある死の哲学と良心としての一瞬一瞬を真実に生きねば意味をなさない健喜さはここにしかないそれを、ソクラテスからもアマデウスからも学んだと言うところまで語ったので、その続きを語りたいがための
「関係形態」から「価値形態」論の序説がこれとなるわけです。
また、長くなると混乱するので、いったん切りながら先に進もうと思います。
(2)理論から実践へ2016
マルクスのお誕生日会とこどもの日の新しい過ごし方は、如何に合体されるのかを考察していた今年のゴールデンウィークでしたが、最初から飛ばし過ぎて、5日6日は、疲れました。Uターンラッシュで精一杯ですね。
第一に、お誕生日会の発想は、「ブルジョワ的でマルクス爺さんは、喜ばないんじゃね」と言われそうです。
しかし、人類には、祭りが必要なんです。死者を弔うのも祭りです。「七人の侍」のラストも農民の祭りです。
(余談ですが、ちきゅう座常連リベラル21にこの様な2008年投稿もありました。)
2008.04.28 黒澤明全作品30作の放映(3) 『用心棒』(1961年)
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-322.html#comment2651
2016年のゴールデンウィーク計画
28日屈辱の日
29日昭和の日
30日図書館記念日
1日メーデー
2日
3日憲法記念日
4日
5日こどもの日マルクス生誕祭
6日(振り替え休日?)
やりたいことは、既に、テキストとしての「資本論」はあるのです。
「新しい」ではなく、「普通の」資本論読みの広報であり、初版発行としての「ちきゅう座読本」としてのテキスト化と広報出版本の作成です。
本当に、繰り返し読みたくなりテキスト化される本を来年の2016年5月5日初版発行本として、具体的に唯物論的に形にすることが可能かどうかそれを議題に上げてほしいのです。
これは、3か年計画であり、版を重ね、改良を重ね、2018年マルクス生誕200年祭まで継続する3か年計画としての着手する事をちきゅう座的左派覚醒有志にてまず、結実させていくこと、更に、「ちきゅう座」広報としての展開を多重化させることの素朴な目的を持ちます。
不可能な話ではない実現可能な提案のように思われるのですが…。
さて、実際の内容と構成については、ちきゅう座総会と今後の投稿にて煮詰めながら更に、全ての覚醒したる有志、労働者、大衆、民衆、人民へと広がる参加、作業の広がり、最初の事業経済の展開を明確にしながら広げる場とする事です。
2014年9月13日世界資本主義フォーラムにて報告 モンドラゴン協同組合企業グループをどう見るか
http://chikyuza.net/archives/47336
ちきゅう座出版とここを大学としてゆく事も可能です。
何を労働者は、知識とし、連帯してゆくかを学ぶ場所とする最初の場所として、実践しながら学べる場所とする事です。
インターネットの問題点。
それは、かつて、電導紙芝居から始まり、現在、動画も可能となっていますが、大部分は、アートとも芸術映画作品とも言えない量産であり、混乱だけです。
2チャンネルから始まり、便所の落書きと言われながら、良質な使い道の模索からちきゅう座投稿は、ちきゅう座運営委員会が、吟味して、次の日にアップする方式である手間暇、更に、スピードの時代に鈍行列車運営とならざるをえない問題点も明らかにあるでしょう。
価値形態論争的に言うならこれこそ、時間と労働力作業の搾取状態、ボランティア自転車操業状態としての原始性と言われるかもしれません。
非合理性が合理性に優っている状況は、やはり、資本主義以下の状況と言われるのですが、
実際は、ちきゅう座も宣伝の一部でもあり、「宣伝費」節約としての場としてもあるわけです。
その全体を逆転して、巨大独占メディア支配、資本主義独占支配に挑まねばならないのですが、その糸口たる「ちきゅう座読本」と言う「命懸けの飛躍」とは何か?
その分析に入るときであると考えているわけです。
社会主義:「能力におうじて働き、労働に応じて受け取る」
共産主義:「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」
価値形態論の現在
http://www.mgu.ac.jp/~stanaka/articles/kachikeitai.pdf#search=’%E4%BE%A1%E5%80%A4%E5%BD%A2%E6%85%8B‘
更に、植草先生もブログを更新されています。
維新から大戦、敗戦から現代に連なる不断の水脈
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-f742.html
責任者、経営者責任論です。
二度の敗戦、311を二度目の敗戦としてに処理が不完全である事の価値形態論としての構図を既に語っています。
つまりこういう事なのです。
ここに、米を生産する農業資本があって、米の栽培に従事する農業労働者が10名、1人当たりの年間賃金がコメ50Kg、年初に100Kgの籾が撒かれて秋には1100Kgのコメが収穫されるとしよう**。
この時1,100Kgの収穫からまず最初の籾の100Kgが翌年の生産のための原資として控除して、残りの1000Kgが分配のファンドとなる。
で農業労働者に一人当たり50Kgが賃金として支払われ都合500Kgが農業労働者階級に賃金が引き渡され、これを消費して翌年一年間生活を営むことになる。
残った500Kgが資本家の収得するところとなるが、これがマルクス経済学では搾取であるというのである。
これを労働時間で表現すると、年初にあった100Kgの籾を控除した1000Kgが1年間の生きた労働の生産物であるから、これの価値実体は1年間の労働時間になるので、年初の100Kgは遡及的に10分の1年間分の労働時間が対象化されている。
またそれぞれ500Kgずつの賃金と資本家の収入は2分の1年間の労働時間が対象化されていることになり、剰余価値率=搾取率は資本化の収入÷賃金だからちょうど100%ということになるのだろう。
技術革新幻想としての資本主義の詭弁である一端は、「電導紙芝居」「便所の落書き」電脳の正体として語っているので、本質論としての赤字国債論、東電責任論、第二A級戦犯論としての自民党論を明らかにしなくてはならない負債論としての構図が、必要となると言う事です。
これを、法的に整備、政治的に整備するためには、革命的民衆政党の組織化が急がれています。
それは、何かの問題です。
商品と貨幣の関係である価値形態論では、余りあるので、スミスにまで、戻り、「国民経済学」更に、格差論としての「自然法」「不平等起源論」からのピケティ論までまでの俯瞰を、「関係形態論」(仮称)としたわけです。
既に、水野和夫氏は、「資本主義の終焉と歴史の危機」にて、「ただ同然で手に入れられる周辺がなくなり利子率革命が起こっていると指摘しています」
金融緩和政策、株価のみの変動は、富裕層のみのパイの取り合いである事は明らかでしょう。
更に、関係形態論と価値形態論は、ひな形的関連で出来ていて、わかり易い説明の縮図となっていると言う事です。
儲かっている米であるなら100%であるが、経営者責任と利子率革命にまで、言及が出来ていないと言う事になります。
技術者労働者、労働者立国としての社会主義的段階であるなら全く問題ありません。
社会主義:「能力におうじて働き、労働に応じて受け取る」
共産主義:「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」であるからです。
原発行政としての破たんは、誰が、負うのか?
経営者責任が明確ではない負債が、問題となっているだけの話であり、糾弾されるべきは、富裕層=資本家=無責任支配としての独裁ファシズム=帝国主義であると言う図式だけです。
そして、それの理論的「普通の」広報流布としての「資本論」とピケティ「格差」「自然法」考察が、重要で結びついているであろうと言う主張となります。
長くなったので、ここで、一端、きり、後日とします。
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。