ホッブス、自然法、孔子――水田洋教授の見落としと経産省前テント
- 2015年 5月 3日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
ある必要があって、ホッブズの『リヴァイアサン』(1.水田洋訳 岩波文庫)を読んでいて、思いがけない事実を発見した。一つの社会思想史的事実である。
周知のように、ホッブスは、人間の始源的状態を無制約的自由の状態、結局は、各人の各人に対する戦争状態であると見た。自然権(Jus Naturale、Right of Nature)が支配する状態である。残念ながら、かかる状態では「どんな人にとっても、自然が通常、人びとに対して生きるのをゆるしている時間を、生き抜くことについての保証はありえない。」(p.217)
ここに自然権を肯定しつつ、同時に制約する自然法(Lex Naturalis、Law of Nature)、理性によって発見された戒律、すなわち一般法則が登場する。≪基本的自然法≫、すなわち第一の自然法は、「各人は、平和を獲得する希望があるかぎり、それに向って努力すべきであり、そして、かれがそれを獲得できないときには、かれは戦争のあらゆる援助と利点を、もとめかつ利用していい。」(p.218)である。第二の自然法は、「人は、平和と自己防衛のためにかれが必要だとおもうかぎり、他の人びともまたそうである場合には、すべてのものに対するこの権利を、すすんですてるべきであり、他の人びとに対しては、かれらがかれ自身に対してもつことをかれがゆるすであろうのとおなじおおきさの、自由をもつことで満足すべきである。」(p.219)
多くの啓蒙書では、ホッブスの自然法について、上記の第一と第二の自然法について紹介解説する所で終っている。例えば国分功一郎著『近代政治哲学』(ちくま新書)。ホッブス自身は、更に続けて、第19の自然法まで論じている。第3の自然法、正義(p.236)。第4の自然法、報恩(p.245)。第5、相互の順応、あるいは従順(p.246)。・・・・・・、第11、公正(p.250)、第12、共有物の平等な使用(p.251)。第16、仲裁への服従(p.252)。・・・、第19、証人について(p.253)。
以上のように、諸自然法の「市民社会についての学説だけに関係する」(p.253)全19条を論じた後に、ホッブスは、次のようにまことに意味深い忠告と助言を書き記している。「これは諸自然法のあまりに精細な演繹であってすべての人によって注意されえないように見えるかも知れない。理解するには、人びとの大部分は食物をえるのにいそがしすぎ、残りは怠惰にすぎるのである。そうではあるが、すべての人をいいのがれができないようにするために、諸自然法は、もっともとぼしい能力にさえ理解できるような、ひとつのわかりやすい要約にまとめられた。それは『あなたが自分自身に対して、してもらいたくないことを、他人に対ししてはならない。』13と言うのである。」(pp.253-254)
上記の文章の中でホッブスは、出典を明記することなく、私達東洋文明人には馴染み深い格言を引用している。言うまでもなく、『論語』顔淵第十二、衛霊公第十五の「己所不欲勿施於人也。」である。ホッブスによれば、孔子の「己の欲せざる所人に施すことなかれ。」がヨーロッパ自然法のエッセンスであると言うのである。私達日本人にとっては、この孔子の教えは、自然と腑に落ちる無理のない社会的当為Sollenである。例えば、東京電力は、原発事故によって「己所不欲」=過剰放射能を「施於人」(人に施し)てしまったのである。実定法違反でなかったとしても、明白に自然法違反である。民衆は、かかる自然法違反にいかって、実定法に触れようとも、あえて経産省玄関近くに反原発テントを打ち立てた。まるでホッブス自然法が命ずる平和の実践を自覚したかの如くに。
残念ながら、訳者水田洋先生は、ホッブスと孔子との関係に気付いていない。訳注13(p.258)を見ると、ホッブスが引用した文章に関して、「マタイ・7・12、ルカ・6・31を逆に表現したことばであるが、このとおりの禁止的表現の出典は不明。」とある。新共同訳『聖書』によれば、夫々は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」であり、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」である。
ここに疑問は、聖書に精通しているホッブスが何故に聖書の句「己所欲施於人也」を取らず、孔子の「己所不欲勿施於人也」を諸自然法のエッセンスとみなしたか、である。私見によれば、聖書の句は、あくまで自然権の一部の表現であって、一見平和的に見えても、各人の各人に対する戦争状態を起因させる危険性がある、とホッブスは見なしたのであろう。アメリカによる善意=自由民主主義の押し売りを見よ。諸自然法のエッセンスは、孔子の言にあり。
問題は二つある。一つは、ホッブスが論語のヨーロッパ語訳を読むチャンスあったかどうか、である。『リヴァイアサン』出版が1651年であり、イエズス会士による『中国の哲学者-孔子』(『大学』、『中庸』、『論語』の翻訳書)出版が1687年である。後者をホッブスが読んでいなかったのは、たしかだ。ホッブスが死去したのは、1679年であったから。しかし、イエズス会士が16世紀中半に中国布教を開始してすでに100年。ホッブスがかれらを通して、中国哲学に関する情報を得ていても不思議ない。孔子の名言を孔子の名を記すことなく引用できる位の情報があったと推測しても無理ではなかろう。
もう一つの問題は、水田洋ほどの碩学がホッブスが引用した『論語』の有名句をそれと気付かず『聖書』とのみ関連付けたのであろうか、にある。
明治、大正、昭和前期の知識人にとって常識的であったろう西洋的発想と東洋的発想の対称性意識が、戦後知識人にとって後者への知的関心がうすれると共に消失してしまったのであろう。その結果、日本民衆の中に生きる自然法的発想による権力批判――テント広場に見られる如き批判意識――が社会思想論的に対象化されなくなったとしたら、日本社会の健康にとって大きなマイナスであろう
平成27年5月2日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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