「天皇制は廃止されねばならない」p92花崎 皋平『戦後の天蓋なき民主主義』(『世界』2015年7月号)から考察する《異論な日本資本主義=マルクス文化論》はしがき
- 2015年 7月 9日
- 交流の広場
- 武田明
「敗戦から70年を振り返って、私が、もっともよかった時代だと思うのはいつか、このところ何回も問い直してみる。それは敗戦の1945年から1950年春までである、といいたい。」p90(『世界』7月号)
天皇制と共和制の問題を問うている一文を見つける。
「我々にはできる!」=真性「YES WE CAN!」=国際市場原理主義に苦しむスペインに現れた左翼の星「ポデモス」党と,党首パブロ・イグレシアス(われら日本の世直し改革派が学ぶことはないのか)
http://chikyuza.net/archives/54083
【集団的自衛権問題研究会 News&Review :特別版 第14号】 (2015年7月7日)
http://chikyuza.net/archives/54487
(『世界』6月号、7月号掲載記事有)
ちきゅう座にても、上記の様に紹介され、安保法制、戦争法制特集が、毎月の様に組まれている中での一文となっている。
花崎 皋平氏は、『ドイツイデオロギー』の翻訳にて、廣松渉氏と双璧を持って知られているが、マルクス主義を遠く離れた?感もあり、その思想的中心は、どこにあるのかに興味を持って目を通してみた。
まさに、思想的には、影に?隠れている存在となっているかも知れないが、僕的なこだわりとして、連作的に言及している大江健三郎氏同様、昭和の喧騒を抜け出し、「恥ずかしながら平成まで生き続けてしまった」『同時代地平の証言者』であるかも知れない。
余生として、報道番組「ニュース23」「サンデーモーニング」の岸井氏の様に、「安保法制は、我々の問題と言うより若者の問題」と見守る立場にあるのか、「運動家」の「本懐」を貫き通しているのか?
それを見極めていくべき「資本主義の終末論」が囁かれる今だからこそ、それぞれの論理の整合性を見極めたいと思われている方は「ちきゅう座」読者としては多いのではないだろうかと思うので、書き添えて置く意味もあろうと時間を割いてみた次第。
天皇夫妻のペリリュー慰霊訪問(1)~(4)
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日本は第2次世界大戦への参加を回避できなかったのか
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花崎 皋平氏と同じ、戦中派的心情を吐露する日本的歴史存立問題の本質に向かうものもあり、そもそも国民は、天皇制について立場を決めているのかそれともわからない雲のものとして傍観を決めているのか?
いずれにしても、それは、同じ、憲法問題の中核にあったとしても「日本的タブー」として、閉じられたままであるのは、確かであり、現行の2015年度時事史観的問題意識としても必然性から外れており、安保法制、第9条問題こそが、先決問題となっているオブラートが、あり続けているのも確かであるのだ。
日本と「戦争法制」問題の陰の主役でもあり、「資本主義の終焉論」と「共和制としての移行」「世襲と王朝政治の弊害から民主主義未満」問題として、僕も既に、言及を続けてきている。
圧倒的なるマルクス異論 序説 目次と構想(昭和革命の失敗に学ぶ平成革命の為のインターネットと集会についての真摯なる考察)
http://chikyuza.net/archives/54433
(簡単に語るなら
「なぜならあの戦争は日本が経済的に追いつめられて必然的に起こったものであり戦争しなければ日本人の大多数は死んだであろうと思うなら、戦争せざるをえなかったともいえるかもしれぬからである。」
この論理が、いつも詭弁なのです。飢餓、貧困以上の悲劇が、戦争であり、それが、沖縄「屈辱の日」「本土決戦沖縄20万人の戦死者」更に、天皇化する「無責任企業」原発事故へとつながる時の支配者の論理であった、そして、本当の意味での抵抗しない「迎合」的連帯、組織化として、心の飢え、やりがいとしてのやんちゃな武勇としての
「欣喜雀躍した日本人は相当数を占めていたと思われる。」
真の抵抗の論理、民主主義=共和制についての地平と資本主義、帝国主義の終焉のシナリオを明確にしなくてはならない。
その意味では、人間主義としての感情主義を乗り越えていく論理と知性(物象化論)を鍛えつつ、広報するのが、「ちきゅう座」の役割であり、「本懐」ではないかとこれが、正論である事は重々誰もがわかっちゃいるんだが…。
白土三平大先生の愛読書、立花隆『東大と天皇』でも同じ問いが提出してあり、この問いは、何故、現在の「戦争法制」を回避できず、歴史を繰り返す一度目は、悲劇、二度目は、喜劇を地でいく運びとなっているのかになっているのかであるのだ。
飢えているのは、「貧困の哲学」ではなく、「哲学の貧困」であるのは、歴史の常であり、ヘイトやギリシア=スペイン=日本債務国問題も同じ位相である事を明確にしていかねばならない。(「人間本懐論」)」
広瀬隆氏の「私物国家」、「天皇財閥」、そして、「ラストエンペラー」の作品の本質に迫ることなく通り過ぎてきた「日本人の無責任政治」の歴史を今こそ問わねばならないのだが、まだまだ、日本人大衆は、「知的財産」「真の文化」から遠ざけられたままになっており、「プライベートなる牢獄」として、「無知」な「階級支配」にもある根底を持っていると言うわけであり、この打破、をあらゆる段階で開始しなくてはならないまさに、「喪われた30年」としての「遅れ」しか感じられている危機がここにあるわけなのだ。
「革命前夜」関連画像集「夢」「遅れてきた青年」~「オールドテロリスト」まで
http://revolutio.exblog.jp/21934527/
では、画像集を交えつつ、続編的に、この問題を更に、追及しながら、「資本主義の終焉」「階級・貴賤支配からの解放としてのカムイ伝第3部」問題として、具体的実践の指針を今後も研究の中心としたる論陣を強めていきたいと感じている。
続く。
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