新型肺炎の蔓延について思うこと
- 2020年 2月 14日
- 評論・紹介・意見
- 中国新型コロナウィルス阿部治平
――八ヶ岳山麓から(306)――
2月7日、新型コロナウイルス患者の治療中に感染した武漢市中心病院の眼科医が亡くなったという発表があった。医師の名は李文亮という。
それ以前の1月1日、国営中央テレビは「原因不明の肺炎についてデマを流し、8人が摘発された」と報じたが、これについて李医師らは警察の事情聴取を受け、3日には「違法問題」に関する「訓戒書」に署名させられたという。咎められたのは、昨年12月30日に李医師がSNSで「重症急性呼吸器症候群(SARS、中国語で「非典=非典型性肺炎」)の患者7人が私たちの病院に隔離されている」と発信し、人から人へ感染するウイルスが広がっている可能性を警告したためである。同医師は当局に圧力をかけられた後も新型肺炎の治療にあたっていたが、1月12日に入院、2月5日に自ら感染確認を発信し、ついには死に至ったものである。ちなみに李医師はキリスト教徒であった。
新型肺炎が医師の間で認知され始めた当初、当局が医師らに対して「勝手に外部に話したり、メディアの取材を受けたりしてはいけない」と口止めしていた事実も明らかになっている。
ところが新型肺炎の感染が拡大し、一般国民に危険性が広く知られるようになり、ネット上では政府の対応の遅れが非難されるようになると、おそらく習近平政権の意向をうけてのことであろうが、最高人民法院(最高裁)は李医師らの行為を肯定する方向へと転じた。1月下旬以降のSNS上では、李医師らを英雄視する声が広がっている(朝日など、2020・02・07)。
17年前の2003年、広州に発生したSARSつまり「非典」感染が中国各地に拡大したときを思い出す。
このとき私は北京にいた。人々の疑心暗鬼をしずめるために、(江沢民主席の側近といわれた)衛生部長(大臣)張文康は、中国各地のSARS感染状況について、罹患者数はそれほどでなく、感染は抑制されているとの楽観的見通しを発表した。
ところが、そこに示された北京をはじめとする数値は実態を隠蔽しており、見通しも欺瞞であると察知した人物がいた。北京解放軍301病院の蒋彦永医師である。彼は軍のSARS対策の中心基地309病院の肺炎患者数が60人余り、また軍302病院にも同じ肺炎患者が40人いることを知っていたからである。同医師は張文康部長のような判断では肺炎の拡大を防止できないと考え、4月4日、あえてこの情報を中央テレビと香港のテレビに送った。が、反応はなかった。
しかしこれを察知した者がいた。アメリカの週刊誌TIMESの記者である。彼は蒋文彦医師を電話取材し、ネット上に「北京はSARSに襲われている」との記事を流した。つづいてWHOも、国際的拡大を懸念して中国政府の対応を批判した。国外メディアも口々に中国政府が実態を隠蔽していると指摘した。
江沢民に代わった胡錦涛政権は、衛生部長と北京市の正副市長をクビにした。このとき新任副市長として「非典」対策のために活躍したのは、習近平政権の腐敗没滅運動で辣腕を振るい、のちに国家副主席になった王岐山である。
こうして、私も含めて、北京の普通の人々は、北京のSARS感染状況が深刻であることを知った。たちまちにして地下鉄やバスで通勤する人はいなくなった。朝夕の通勤時には、サングラスにマスク、帽子といった月光仮面スタイルの自転車やバイクが東三環路にあふれた。公園で散歩をしたり体操をしたりする人もいなくなった。
私の住んでいたアパートの住人は窓をぴたりと閉め、部屋に立てこもって、食品の買い物など必要時以外は外出しなくなった。すぐにエレベーターといわず廊下といわず、酸っぱい匂いが充満した。鍋で酢を煮て蒸気を立てれば空気を浄化できるというのである。続いてクレゾールの匂いが立ち込めた。私は友人たちに「酢酸やクレゾール石鹸液がウイルス退治に役立つとは思えない」といったが、「じゃ、何をすればよいというのか」と怒る人がいた。
ある晩、近づいてきた車が「軍病院はどこか」と聞くので教えていると、同行していた中国人の友人が私の腕をもって車から引き離した。彼は「このまぬけ!!車の中に『非典』がいるのがわからないのか」と本気で怒った。
農村地帯でも村の入口に人を立ててよそ者の出入りを監視した。私の学生のチベット人地域でも、旧正月で帰郷した出稼ぎ者を村はずれに小屋を建てて収容した。今回も村落の封鎖が繰り返され、新型肺炎感染者数が増えるにしたがって監視は厳重になっているという。
テレビではウイルスの専門家が「『非典』はマスクでは必ずしも防げない。手を洗い、うがいをする普通の風邪防止の方法でよい」とか、必要以上に恐れるのを危惧して、「ウイルスは太陽光のもとでは1分と生存できないから、野外での適度な運動は差し支えない」といった発言をしたのだが、誰もそれを信じなかった。中国では、一般人民は政府より「うわさ」を信じるのである。
皮肉にも、北京では「非典」対策として指定された軍病院が拡大の震源地となった。テレビでは院内感染をした看護婦が英雄扱いされ、特殊病棟に送られる姿が流されたが、人々は病院でも打つ手がないのだと受け止めて恐ろしがった。ことし2020年にも武漢では院内感染が主流である。にもかかわらず、中国のメディアは、新型肺炎に立ち向かう医師や看護師の英雄譚を流しつづけている。
2003年の「非典」の流行時には、有効な薬がないことが恐怖心を高めた。
いろいろな「うわさ」のなかに、「冬虫夏草」とか「板藍根」が抵抗力をつけるというのがあった。「板藍根」のことは知らないが、「冬虫夏草」はチベット高原の特産品で、地下に住む蛾の幼虫にキノコが寄生したものである。
「うわさ」が広がると、冬虫夏草の買い占めが起きた。もともとは国家統制の下にあり、80年代半ばは、国営薬材会社の買入価格が1キロ20元に満たなかったし、年産も40トン程度に過ぎなかった。1990年代になっても1斤(500グラム)数百元程度のものだったらしい。ところが2003年以後、虫草の値段は暴騰した。1キロが数万、十数万元で取引されるようになった。
今回の新型コロナウイルス肺炎の蔓延でも、これに対処できる薬がないことが民衆のパニックを引き起こしている。漢方薬の「双黄蓮口服液」が新型肺炎に有効という報道があったものだから、人々は各地の薬局へ殺到、一夜で買いつくされたという。冬虫夏草は値上がりしているようだが、確認できない。
日本のマスメディアのなかには、武漢や湖北省などの地方幹部が新型肺炎の感染拡大について事実を隠蔽したとか、2003年の教訓を学んでいないなどと非難するものがあるが、これは中国の政治体制をしっかり見ない、見当違いの見かただと思う。
中国には地方自治がない。幹部には自分の責任で判断し行動する権限が与えられていない。武漢市長が「発表が遅れたのは、伝染病には『伝染病防治法』があり、法に基づき発表しなければならない。私は、地方政府として情報を得た後、(中央政府から)権限を授けられて初めて発表できる。これを理解してほしい」と発言したのは、政府批判でも何でもない。いみじくも中国国家の構造問題を語っているのである。
だから中共中央の指示がすべてであり、今回、あらゆる権限を自らに集中した習近平主席の権限発動が遅すぎたことは否定できない。
これについてはこのたび、習近平主席の集権体制に対する批判がネット上に現れた。清華大学法学院教授の許章潤氏が、2月4日、「怒れる人民はもう何も恐れない」という文章を発表したのである。氏は「一切を独占し、組織を無秩序にし、制度を無能化した」と、習近平主席に権力が集中する体制を非難した。「最初は口を閉じて真相を隠し、その後は責任を逃れ、感染拡大を防ぐ機会を逃した」と批判し、また、庶民に対する言論や行動の監視が「当然存在すべき社会の情報伝達と早期警戒のメカニズムを圧殺した」として、指導部の強権的な統治のあり方が新型肺炎拡大の原因だと指摘している(朝日2月6日、博訊2月5日)。
許章潤教授は民主人権派の人物である。習近平政権が国家主席の終身制への道を開いた2018年の憲法改定を激しく非難して、大学から停職処分を受けたこともある。彼は今後、おそらく行動の自由を奪われるだろう。
2003年の「非典」と2020年の新型肺炎の中国社会には、変わらない部分と変わった部分がある。変わらないのは、専制的集権的政治体制の弊害である。変わったのは、それが中国社会のありかたに一層適合しなくなり、弊害が一層ひどくなったことである。(2020・02・11)
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〔opinion9450:200214〕
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