キリスト者内村鑑三の「天譴論」 ―先人は「大事件」をどう考えたのか(4)―
- 2011年 5月 29日
- 評論・紹介・意見
- 内村鑑三半澤健市天譴論
《天の使者が八月三十一日の夕暮に》
少し長いが次の文章を一字一句静かに読んで頂きたい。(▼から▲)
▼日本国の華を鍾(あつ)めたる東京市は滅びた。しかし何が滅びたのである乎。帝国劇場が滅びた。三越呉服店が滅びた。白木屋、松屋、伊東呉服店が滅びた。御木本の真珠店が滅びた。天賞堂、大勝堂の装飾店が滅びた。実に惜しい事である。然し乍ら若し試(ためし)に天の使者が、大震災の前日、即ち八月三十一日の夕暮、新橋より上野まで、審判の剣を提げて、通過したと仮定するならば、彼は此家こそ実に天国建設の為に必要欠くべからざる者であると認めた者を発見したであらう乎。私は一軒も無かつたであらうと思ふ。
三越も白木屋も天国建設の為に害を為す者であつても、益を為す者ではなかつたと思ふ。或人は問ふであらう「日本全国に聖書を供給する京橋尾張町の米国聖書会社は如何、内村先生の著書を出版し又販売する同町の警覚社書店は如何」と。私は之に答へて曰ふ「主は知り給ふ」と。多分天使は之をも火を以て潔むる必要を認めたであらうと思ふ。如斯(かくのごと)くにして、人生が遊戯でない限り、正義の実現が万物存在の理由である限り私共は神が此虚栄の街を滅し給ひたればとて、残忍無慈悲を以て彼を責むる事は出来ない。/聖書に記すが如く、天使は此状を見て曰うたであらう「然り主たる全能の神よ、爾の審判(さばき)は正しく且つ義なり」と(黙示録十六書七節)。
之に付随して無辜(つみなきもの)の死の問題が起る。
此たびの災禍に於ても、他の災禍の場合に於けるが如くに、災禍を呼びし罪に直接何の関係なき多くの者が死し又苦しんだ。私共は無辜の苦患(くるしみ)に関する人生の深き奥義を探ることは出来ない。/私共は罪を審判(さばき)給ひし正義の聖手(みて)を義とするが、それと同時に、その犠牲となりし多くの人の為に泣く。そして此事に関し最も甚しく痛み給ふ者は天に在ます父御自身であると信ずる。彼は我等の知らざる或る方法を以て充分に此苦痛を償ひ給ふと信ずる。/
《最後に見舞ふべき大カタストロフイーの模型》
/キリスト再臨の反対論者は常に言ふ、天然にも歴史にもカタストロフイー即ち激変なる者はない、万事万物尽く徐々に進化するのであると。然るに事実は然らずして、私共は茲に大激変を目撃したのである。一夜にして大都市が滅亡したのである。
三百年かかゝつて作り上げられし所謂江戸文明が数分間にして毀れたのである。是は確かにカタストロフイー(激変)ではない乎。大正十二年九月一日午前十一時五十五分に、江戸文明は滅びて、茲に善か悪かは未だ判明しないが、何れにしろ日本国の歴史に新紀元が開かれたのである。/
私共を此たび見舞ひしカタストロフイーは全世界を最後に見舞ふべき大カタストロフイーの模型である。今回の災害に於て私共は一日の中に大東京が燃え毀(くず)れて焦土と化した惨劇を目撃した。然るに彼(か)の日には全世界が燃え毀れて、体質尽く焚鎔(やけと)けんとの事である。此事があつて彼の事は無いとは言ひ得ない。神も天然も学者の学説や、文士の思想には何の遠慮会釈もなく其意(おも)ふがまゝを断行する。悲惨の極、酸鼻の極と嘆いた所が其れまでゞある。私共は神の言(ことば)に此事あるを示されて、常に之に応ずるの準備をすべきである。即ち潔き行を為し、神を敬ひて神の日の来るのを待つべきである。「人々平和無事なりと言わん時滅亡(ほろび)忽に来らん、人絶えて避くることを得じ」とテサロニケ前書五章三節にあるが如しである。
滅亡は度々人類に臨む。然し滅亡の為の滅亡ではない。救ひの為の滅亡である。世の終末と聞けば恐ろしくあるが終末ではない。新天地の開始である。之に由て東京と日本とが亡びるのではない。より善き、より義(ただ)しきより潔(きよ)き東京と日本が現れんとしているのである。/▲
《「芸術と恋愛と」の東京が潰れたのである》
以上は関東大震災に関して当時の代表的キリスト者内村鑑三が書いた文章である。(「末日の模型―新日本建設の絶好の機会」、『聖書之研究』279号、1923年10月10日)
内村は23年9月5日の日記にこうも書いている。
▼呆然として居る。恐ろしき話を沢山に聞かされる。東京は一日にして、日本国の首府たるの栄誉を奪はれたのである。天使が剣を提げて裁判(さばき)を全市の上に行うたやうに感ずる。然し是は恩恵の裁判であると信ずる。東京は今より宗教道徳の中心となって全国を支配するであらう。東京が潰れたのではない。「芸術と恋愛と」の東京が潰れたのである。我等の説教を以てしては到底行ふこと能はざる大改造を、神は地震と火を以つて行ひ給うたのである。「神の日には天燃え毀れ体質焚溶(たいしつやけと)けん」、然れど我等は約束に因りて新しき天と地を望み待てり、義其中にあり」とある某日が来たのである(ペテロ後書三章十二、十三節)。玄関の入口に左の如く張出した。
〈今は悲惨を語るべき時ではありません。希望を語るべき時であります。夜はすでに過ぎて光が臨んだのであります。皆様光に向つてお進みなさい。殺さん為の打撃ではあません。救はん為の名医の施した手術であります。感謝して之を受けて、健康にお進みなさい。〉
我民の罪悪を責むるの時は既に過ぎた。今より後はイザヤ書第四十章以下の予言者となり、彼等を慰め、彼等の蒙りし傷を癒さねばならない。「慰めよ、汝等 我民を慰めよ」と▲
《内村鑑三の大震災論を要約すれば》
内村は関東大震災に関して何本かの説教と論説を残した。
私が理解した限りその構成はおよそ次の通りである。
①大震災は自然現象であると同時に遇う人によって「恩恵」にも「刑罰」にもなる。
渋沢栄一の天譴論を「実に然り」であるとみる。
②なぜなら、震災前の東京は「罪を犯せる国人(くにびと)、邪曲(よこしま)を負ふ民、悪を為す者の裔(すえ)」の住む「義を慕ふ者の居るに堪へない所」であったからである。
③このカタストロフイー(破局)は世界を最後に見舞う大カタストロフイーの模型である。
④しかし多数の無辜の民も死んだ。しかし彼等も国民全体の罪を贖なうために死んだのである。この不条理を「痛み給ふ者は天に在ます父御自身」である。
⑤今度のことは「救いのための滅亡」であるが終末ではない。良き日本が出現しようとしているのである。キリスト者は神の許しを乞い祈ることによって新日本を作り出すである。
日記や説教や原稿を読むと、彼の強い信仰心と懊悩する気持ちがともに伝わってくる。
私の図式に収まらない心情が強く感じられる。とりわけ無辜の民を巻き込むことの「不条理」は簡単に納得できなかったようである。
最初に引用した文章には次のようなくだりもある。
▼実に悲惨の極、之を言語に尽すことは出来ない。之が為に神の存在を疑ふ人もあらう。人生の無意味を唱ふる人もあらう。然し在つた事は在つたのである。
曽てドクトル・ジョンソンが一七五五年に起りし葡萄牙(ポルトガル)国の首府リスボンの地震の事を聴きし時に、常には強固なる信仰を以て称へられし彼の信仰も、此時ばかりは動いたとの事である。其如くに私共も亦此惨劇を目前に見て、「神若し在りとすれば此事あるは如何」との問を発したくなる。然るに天に声なし地に口なしである。
《無辜の民への眼差し・新しい日本の理想像》
無辜への問題意識は、聖書にみえる「天譴」である「ソドムとゴモラの覆滅」への関心、そして説教へと向かった。一方、惨劇から復活する「良き日本」というとき、内村鑑三はどんな「理想国家」のイメージをもっていたのであろうか。次回はこの二点を書く
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〔opinion0483 :110529〕
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