コロナウィルス感染と発症―素人の疑問
- 2020年 2月 28日
- 評論・紹介・意見
- コロナウィルス藤澤豊
さまざまなイベントが中止になって、Jリーグもプロ野球もオリンピックさえもが開催を危ぶまれるところまで来ている。武漢のように全市を封鎖するような大胆な総合策もないまま、後追いの都度事の対応に終始しているようにみえる。
このままいけばパンデミックに陥る可能性がでてきそうだが、その可能性すでに直前にまできていて、状況の隠蔽に近いことが起きているのではないか、そしてオリンピックをひかえて隠蔽が進むのではないかと心配になる。
医療に関しては全くの素人。何を知っているわけでもない巷の一私人だが、常識からは、次のようにしか考えられない。それ、あんたの常識でしかないだろう。何も知らない素人が口をだすなと非難されるのを承知で、こう考えたほうが起きていることを説明できると思えてならない。無知からくる勘違いを訂正していただけないかという思いから書いている。
1)感染と発症
「感染が確認された」「感染者が一人でた、二人でた」という報道をみるが、それはコロナウィルスに起因する症状が発症したということではないのか。
コロナウィルスは感染したら百パーセント発症するとも思えない。
常識(あるは誤解かもしれないが)から考えてのことだが、感染しても抵抗力が勝てば発症しないのではないか。発症している人に高齢者が多いのも、こう考えれば説明がつく。
2)「発症者」<<「感染者」
ということは、発症している人たちより感染しても発症していない人たちのほうが多いということにならないか?
マスコミを通して伝えられている感染者の数は発症した人の数で、感染者の数を把握しようとしていないか、しえなと割り切っているのではないのか。発症した人は検査するにしても、感染しているかもしれない人たちを検査する体制もとりきれないだろう。オリンピックの開催まで危ぶまれる状態になれば、発症者ですら少なく発表したいという関係者の思いやビジネスの利害の絡んでいる人たちの気持ちも分かる。ただ故意に発症を感染と呼んでいるとなると、報道関係者の良識さえも疑わしいし、報道されていることがどこまで本当なのかと気にならない方がおかしい。
感染したまでで発症していない、あるいは発症しないで感染したウィルスが消滅してしまう可能性もあることを考えると、発症していない人まで隔離するという訳にはいかない。感染しているかどうかの確認のために、二週間隔離してはいいが、最後の一日に感染して、発症は下船してから一週間も経ってというのを考えると、船上での隔離にどれほどの意味があったのかとも思いだす。
いずれにしても、感染はしたが発症はしていない人――感染の確認のしようがない――が通常の日常生活をおくることを制限するわけにはいかない。となると手洗いなど感染を防ぐ努力はするにしても、最後は抵抗力だよりということになるのか?
p.s.
十年以上も前になるが、中国市場のデータを漁っていた時、上海出身の中国人の同僚から冗談のような口調で聞かれたことがある。
「『人民日報』(記事)は怪しいことばっかりだけど、一つだけ、これは間違いのないのがある。なんだかわかるか?」
仕事より世間話の時間の長い人で、唐突にまたなんなのって思いながら、
「えっ、なんだろう、天気予報? 中国の天気予報って、そんなに正確なんかな」
「あんなに広い中国でそんなことありっこないじゃないの、『日付』だよ」
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://chikyuza.net/
〔opinion9494:200228〕
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