「封城」(ロックダウン)下の武漢の暮らし - 方方女史の『武漢日記』(2)
- 2020年 4月 23日
- 時代をみる
- 中国新型コロナウィルス武漢田畑光永
『武漢日記』3月8日
(訳者注:前回は2月6日に書かれた日記だったから、それから1か月が過ぎている。残念ながら、その間の日記は入手できていない。また、文中のカッコ内は訳者の注だが、必要と思われる部分については、末尾に説明を加えた。***は一部省略の表示)
また雨。それもかなりの降り。寒気が音を立てる。昼間でも夕暮れのようだ。
遠い成都(四川省の省都)に住む劉先生が武漢の友人に託して魚を何匹か届けてくれた。ずいぶん固辞したが、結局、押し切られた。魚はきれいにさばいてあり、ネギ、しょうが、大根まで添えられていて、これでスープを作りなさい、簡単だから、との伝言。また、私の日記で私の糖尿病を知り、ドライフルーツと手紙が居住区の事務所に届いていた。申し訳ないと同時に胸が熱くなった。友人の皆さん、心配してくれてありがとう。
今日は「三八婦女節」(女性の日)。ネットでさかんに女性に花が贈られている。子供のころは毎年、この日には必ず集まっては声を張り上げて歌ったものだー「女性の日、男子は働き、女子は遊ぶ、男子は家で宿題・・」。この歌は武漢の言葉で歌うに限る。すると節回しやリズムがさまざまに変化して独特の味わいがある。思えばずいぶんと昔のことだ。
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武漢の女性の顔つきは概してきつい。しかし、家の大事となると多くの場合、男が主役だ。面白いのは、もめ事となると通常、女が出てくることだ。男がだめというわけではなく、女のほうに我が家の男を守るという気概が備わっているのだ。まあ言って見れば、男には社会的に仕事があり、時には体面が大事で顔をさらしたくないという事情があっても、女なら別にかまわない、ということもあろう。大多数の女性は社会における地位が男より低いから、何かあった時はまず女が出て行ったほうが具合がいい。
武漢の女は言葉のテンポが速く、声も高い。言葉の衝突ではまず負けない。もし相手も女性で、女2人が対決するとなったら、これは見ものだ。思い出すのは、あの文化大革命の時代、娘の祖父は華中師範大の教授だったが、紅衛兵が彼をつるし上げようと家にやってきた。この時、祖母は祖父を家において、自分が出て行って、紅衛兵とやりあった。紅衛兵たちも相手がおばあさんでは手の施しようがなく、帰って行った。
この話を私は以前、ある文章に書いたことがある。そのせいか、今度の疫病戦中でも、日常のやれ集団購入でのいさかいとか、やれ居住区事務所との交渉とかを、自分の領分と考えて、多くの女性が出てきた。武漢の女性は気が強く、声も大きい。ビデオを撮ろうとする連中をいくつも追い払い、大勢を震え上がらせた。ここで、武漢のすべての女性にエールを送る。楽しもう!三八節。
今日は「封城」46日目。疫病戦もこのところ、喜ばしいニュースが増えてきた。ある区域は試験的に封鎖が解除されて、仕事が始まるとひそかに伝えられている。1人の友人が言うには、空港が運行再開の準備をしている、とか。この知らせは驚喜の上にもう1つ驚喜だ。そうなれば封鎖解除も近い。武漢人、頭を外にもたげられるか?
医師の友人からの知らせもいいものだ。新しく確認された感染者が2日続けて少ない。明らかに減っている。感染が疑われる人はとっくに少なくなっている。仮設病院も順次、休院に入っている。最大の武漢ホールの病院も今日、休院を宣言した。感染疑いの新しい患者は直接、入院して治療が受けられることになった。一部の病院の日常的な外来診療も復活した。ウイルスの蔓延を抑える戦いは現在、戦場整理の段階に入っている。すっかり終わるまで指を折りながら待つことにしよう。
現在、重症の患者はなお5000人、入院患者は1万7000人あまり。全国のトップクラスの医療団体が協力して、すべての患者が最良の治療を受けられるように、今、治療方法の選別が進められている。医師の友人が楽観的なせいか、この2万人余りの人たちの退院も近いのでは、と私には感じられる。
実際、疫病戦も終戦が近づくにつれ、市民生活の秩序が戻ってきたことが明白に感じられる。多くの居住区のサービス部の仕事も丁寧になり、態度もすこぶるよくなった。
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作家協会の仲間たちもぽつぽつと出てくるようになった。雑誌『長江文芸』の担当者は期日どおりに出版しようとしている。彼らは家に持ち帰って仕事をしていたのだ。もともと私は春節(旧正月)の後、中編小説を1篇、彼らに渡すと約束していたのだが、結局、ウソをついてしまった。
記者が取材にくると、おおむね同じことを聞く。つまり、「開城」(封鎖解除)した後、一番したいことは何か、というのだ。私はゆっくり休むこと、そして、この小説を完成させること、と答える。借りた借金は返さなければ、以後、誰も一緒に食事もしてくれなくなってしまう。
このあたりはすでに病気は落ち着いてきている。しかし不幸はまだ終わってはいない。泉州(福建省南部の都市)の欣佳ホテルに隔離されていた人たちがホテルの倒壊事件に遭遇してしまった。同窓生の剛剛が人混みの中から知らせてきてくれた。今晩六時過ぎの情報で、倒壊の内部に閉じ込められた71人中48人が午後4時までに消防の手で救出されたが、うち10人は死亡、38人は病院に送られて治療を受けている由。まだ23人が閉じ込められていることになる。気が気でない。その中の多くは湖北人だ。気の毒に彼らはウイルスからは逃れたが、危ない建物からは逃れられなかった。これは2次災害といえるのではないのだろうか。とにかく、記録しておこう。
今日はまた『財新』(雑誌名)記者が香港の袁国勇院士(アカデミー会員・末尾に紹介)を取材した文章を読んだ。袁院士は武漢に来た第3団の専門家の1人で、今回の疫病戦でWHO(世界保健機構)が組織した合同視察団のメンバーであり、さらに香港特区政府の専門家顧問団の団員でもある。彼が記者に語った情報は真実、驚くべきものであった。
袁国勇氏:ひとつ本当の話をする。われわれが武漢で訪れた場所は多分、モデル地区であったろう。なにか質問をすると、直ちに答えが返ってくる。事前に準備ができていた。しかし、鐘南山(中国の著名な医師・末尾に紹介)さんは非常にきびしくて、何度も「ほかにはいないのか?」「結局、これ以上、病人いないのだな?」「ほんとにここにはこんなにたくさんいるのか?」などと追及した。
しかし、答えはこんな具合だ。「私たちは今、検査を進めているところです。なぜなら湖北省疾病対策センターが国から検査キットを受け取ったのは1月16日だったのですから」
彼らはわれわれに問い詰められて、最後にこう言った。「多分、神経外科の1人の患者から14人の医療人員が感染したようです」、「しかし、その医療人員たちも感染が確認されたわけではありません」
『財新』記者もきびしく質問を続けたー「彼らとは誰ですか?あなた方が武漢病院を視察した時、主だった人ではどんな人がいましたか?」
袁国勇氏の回答―「武漢市衛生健康委員会、武漢市疾病センター、武漢市内の病院や湖北省の健康委員会などの人たちだった」
記者はさらに質問を続けたー「彼らはあなた方になにか隠しているようには感じませんでしたか」
袁国勇氏の回答―「食事の時、鍾南山氏と同じテーブルに1人の副市長が座った。顔色はよかったが、気は重そうだった。あの時、彼らはすでに大変なことが起こったと知っていたのだろう。なぜなら3つも専門家の代表団がやってきたのだから。少し前には仮に何か隠していたとしても、あの段階ではもはや隠すこともなくなっていたのではないか。ただ彼らがしきりに強調したのは、検査キットは武漢に来たばかりだということだ。それがなければ診断を確定することはできないと」
なるほど、端緒はつかめた。調べるべきは調べてもらいたい。1つ1つ問いただせば、きっとなるほどという答えが出てくる。私、われわれ、みな知りたがっている。こんな重大事をなぜ隠そうとしたのか。
鍾南山院士の鋭くきびしい追及で、ようやくウイルスの人から人への伝染の情報が庶民にも伝わった。それによって武漢人は茫然と無知な状態から目覚めたのだ。あれがなければ、あと何日、騙され続けて、すさまじい、残酷な結果が出現することを知らずにいたことか。1000万人以上の武漢人のどのくらいが生き残れただろうか。
現在の問題は、1、袁国勇氏が言及したような人たちは必要なのか不要なのか、調査、再調査を。2、はじめの2つの専門家視察団はとてつもなく大変なことと知っていたのか。なぜ鍾南山院士のようにきびしく追及しなかったのか。袁国勇院士は記者の質問に「われわれ科学者は永遠に『軟情報』(末尾に紹介)を軽視してはならない」と語っていた。
訳者注:
1、 ホテルが倒壊した泉州という地名について、一応、福建省南部の泉州市と解釈したが、「湖北人が多い」という点でいささか疑問が残る。しかし、中国の地図帳でこの地名を検索しても、ほかには見当たらなかった。
2、 袁国勇氏は中国工程院院士、香港大学微生物系教授。なお文中では分かりやすく「アカデミー会員」と注を入れたが、中国語の「工程」は日本語では「工事」の意味で使われることが多いので、なぜ医師がと不審に思われるかもしれない。しかし、中国の工程院には理工系だけでなく、化学、エネルギー、環境、農業、医薬衛生など、広範囲の学者およそ900名が網羅されていて、実質は科学院と呼ぶのがふさわしい。
3、 鍾南山氏は1936年生まれで、広州医学院長、北京大学教授などを務めた呼吸器医学界の長老的存在。2003年にはサーズ流行の際の業績で「中国十大人物」の1人に選ばれた。今回のコロナウイルス肺炎に対しても、国家衛生健康委員会に高級専門家として参加し、新型ウイルス防疫研究グループのトップを務めている。
この「日記」によっても、鍾氏は流行初期の現場の実情把握に先頭に立って、聞き取りなどにあたっていたこと、そしてその際、「現場」の官僚主義的応対に対して専門家がいらだっていた様子がうかがわれる。
4、「軟情報」という言葉が最後に登場するが、中国語の検索サイトの英訳は soft intelligence である。一般的に通用している言葉とは言えないが、その意味は明確な科学的根拠はなくても(soft)、例えば地震の前にある動物が特異な行動を見せるといった兆候や自然現象を指す言葉として、ここでは使われている。(200419)
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〔eye4709:200423〕
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