18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(2)
- 2020年 4月 30日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
2002年11月21日~ナシオンから歩けば迷子になって
夫が参加している会議の会場は、国連ヨーロッパ本部の近くでもあるので、朝は車に同乗し、報告をする夫には「がんばってね」とITUビルの前で別れる。国連の周囲は、何重もの移動用の鉄柵で囲まれているのが目立つ。正門からのぞくと、びっしりと加盟国国旗のポールが並ぶ。夫は昨日の昼休みに、中まで案内してもらったそうだ。観光客用の一時間ツアーもあるらしいが、先を急ぐことにする。振り返ると前の広場の巨大な椅子が目を引く。よく見ると、四本足の一本が途中で折られたというか、壊れたというか、そんな異様な姿で立っている椅子である。これは後からの話だが、あの椅子は戦争によって負傷した者を象徴しているといい、平和へのメッセージが込められているそうだ。が、それだけの説得力があるかどうかは、現在の国連のあり方にもかかっていよう。国連の建物はパレ・デ・ナシオンと呼ばれ、広いアリアナ公園に接している。
正面が国際連合ヨーロッパ本部(パレ・デ・ナシオン)、加盟国の旗が林立する
あまりうまく撮れていないが、中央の車の上に見えるのが、一本足を失った巨大な「壊れたイス」
ここまで来ると、人影はほとんどなく、黄葉を樹下一面に敷き詰めている大木がまず目に入る。珍しく赤く紅葉している巨樹にも出会う。その木の間に現れたのが、ドームを持ち、外壁に朱鷺色のレリーフをめぐらしている瀟洒な建物、アリアナ美術館である。開館一〇時までには時間がある。ここにはベンチもないが、スケッチをはじめる。時折、目前の柳の枝は揺れ、昨夜の雨滴を振り落とし、今朝の冷え込みが一段と身に沁みる。がまんも限界かと思われた頃、開館と同時に入館する。見上げた吹き抜けの天井の豪華さと回廊に目を見張る。ドイツのマイセン、フランスのセーブルくらいは分かるのだが、中国、朝鮮をはじめ日本の伊万里、柿右衛門、スイスのニヨンなど世界各地の陶磁器が時代順に展示されている。知識のない者でも、その量と種類の多さに圧倒されるのだった。
せっかくジュネーブを訪ねたのだから、赤十字社にも敬意を表しておきたい。アリアナ公園の向かいとなる赤十字博物館では、日本語のオーディオ・ガイドを借りる。新しい展示技術を駆使し、音と光、映像による演出は、若者向けなのかもしれない。1863年、アンリ・デュナンにはじまる赤十字の活動が曲線をなす壁に、長い年表として現れる。そして、私がもっとも貴重なものに思えたのは、展示場の中央、天井にまで届く棚が続き、ぎっしり収納されている、第一次世界大戦時、三八の交戦国の捕虜収容所に拘束されていた200万人の700万枚に及ぶ調査カードのファイルである。どこの国の高校生たちか、ここで何を学んで帰って行くのだろう。クロークに山盛りになったダウンジャケットやコートは彼らのものにちがいない。
コルナバン駅までだったら歩いて一五分はかからないはずだ。国連を背に、大通りを歩き始めたが、歩いても、歩いても、駅らしきものが見えない。30分も経つと不安になった。ビルばかりで人の気配がない街、地図を頼りに方向を変えて歩き出してみるが、今度は大きなマンションが続く住宅街に入ってしまう。歩いている人に、中学生程度の英語でコルナバン駅を聞くのだが、なかなか通じない。英語は話せないと断わるひと、ただ首をふるひと、肩をすぼめて腕を広げるひと・・・。そして出遭った、買い物帰りの年配の女性、歩いて行くなら途中まで一緒に、と言ってくれる。中国から来たのか、いつ来たのか、色々尋ねられ、話しかけられるのだが、残念なことに私にはほとんどが聞き取れない。にぎやかな商店街に出て、この道をどこまでも下っていくと、線路に突き当たるから、左に曲がれ、と。何度もお礼を言って別れた後は、びっしょりかいた汗が急に冷たくなる。10分以上歩いて、高架の線路が見えたときのうれしさといったらなかった。15分で着くところを1時間半は歩いていたことになる。
ビルのてっぺんに、「OMPI」「WIP O」の文字が見えるが、上がフランス語、下が英語で、「世界知的所有権機構」を示す。このあたりで、駅に向かう道を間違えたらしい
午後からは、ジュネーブ市内の南、カルージュに行きたいと思っていたのだが、コルナバン駅前から出る市バス13番の自動販売機の前で切符の買い方が分からず、まごまごしていて、バスを逃してしまう情けなさ。カルージュは時計職人をはじめ、工芸品、民芸品を作って売る店も多い町ということだったが、残念。午前中の迷子ですっかり自信を失った私は、計画を変えて、より確かな鉄道で、レマン湖沿いの隣町二ヨンへ行くことにする。二ヨンは特急IR(インターレギオ)で16分、アリアナ美術館にも収蔵されていた二ヨン焼きで有名らしい。ジュネーブで働く人々のベットタウンにもなっているという。案内書によれば二ヨン城は2005年まで工事中とのことだった。二ヨン駅も工事中で、間違って山側へ少し歩いてしまったが、静かな住宅街のあちこちでマンション建設が進んでいた。ガードをくぐってレマン湖へくだる街は、古いながら季節はずれの避暑地といったたたずまいである。昼下がりのこともあって、駅周辺は下校の高校生がたむろしている。小さなデパートも、スーパーもある。土産ものやも並ぶが、ドアを開けてみるには勇気が要りそうな雰囲気である。ひっそりと陶器を扱う店もあったが、右手に工事中の二ヨン城を見れば、すぐにアルプス湖岸通りに行き着く近さだ。湖を背に城を見上げると左手の高台には、ローマ時代の遺跡、神殿の柱塔が見える。石段を振り返り、振り返り登って行くと、また市庁舎前の広場に出る。回るといっても、駅を降りてからわずか一時間余りの滞在時間だった。帰りの列車の車窓には、すでに収穫を終えた葡萄畑が湖岸へと斜面いっぱいに広がっている光景が続いていた。
ニヨンの街からニヨン城をのぞむ、四景
夜にはとうとう冷たい雨が降りだしたが、会議を終えた夫とTさんたち二人との食事が予定されていた。スイス料理を食べさせてくれる店ということで、着いた先は、おととい私が一人で歩いた旧市街、その中心ともいえる市役所近くのレストラン「レ・ザミュール」である。二人の話だとジュネーブでもっとも古く、クリントン大統領も寄った店とのことだ。注文は、ほとんど二人にお任せで、ボトルの白ワイン、ムール貝の蒸しもの、ハーブ入りチーズ・フォンデユー。ビールはフォンデユーには合わず、おなかをこわす人がいるとのこと、つめたい水も飲まない方がいいですよ、とのことで、ワインをいつになく杯を重ねる。フォンデューは、パンをちぎって、チーズをつけるという単純なものだった。レマン湖でとれたわかさぎのような小魚の皿もあった。デザートは、今夜のお勧めというアイスクリームの上にカラメルソースをかけて焦がしたという、熱くてやがて冷たいという珍しいものだった。昼の会議の話も続いていたが、お子さんの話にも熱が入る。少し先輩の方のTさんは、娘さんは地元小学校の二年生だが、土曜日には日本の補習学校に通っているという。国際的な学校社会のなかで日本を代表しているという自負を身につけさせたいと語る。若い方のTさんの娘さんは一歳半、夫人が画家で託児所に預けているが、言葉が少し遅れていると心配していた。日本語とフランス語の混乱もあるけれど、不安は無用と医師にいわれているそうだ。バイリンガルな子供が育っていくのだろう。羨ましい話だ。私がニヨンまで出かけた話から、いまジュネーブ駐在員の奥さんたちの間で、ニヨン焼き教室が人気だという話になった。それというのも、継承する者が少ないニヨン焼き復活を目指す地元から日本人の器用さが期待されているのだそうだ。そろそろワインがまわってきた。夫とTさんとだいぶ押し問答をしていたが、当然のことながらお礼ということで夫が支払うことになった。雨はまだやまない。ライトアップされたサン・ピエール寺院の尖塔を見上げながら、旧市街を駐車場まで歩く。ジュネーブの雨は土砂降りが少なく、傘をさして歩くことは稀だともいう。車での移動が多いのだろう。それにしても、飲酒運転には寛大な国なのかな、と小さな疑問が頭をかすめるが、ホテルまで送っていただいたのはありがたい限りであった。
初出:「内野光子のブログ」2020.4.29より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9703:200430〕
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