「ケアの共産主義と、何もしないことによる貢献 :何かが起きている(起きる)のだろうか?」 パトリス・マニグリエ(哲学者)Communisme de soin et inactivité contributive : se passe(ra)-t-il quelque chose ? Patrice Maniglier (philosophe)
- 2020年 5月 1日
- スタディルーム
- パトリス・マニグリエ(哲学者):翻訳・村上良太
これは、マクロン大統領が語った言葉のタイトルに過ぎません。つまり、この新型コロナウイルスの出現で私たちに不可能と思われていた事態が起こりつつあるのです。そして、逆にまた、昔は常識だったことが、今後は常軌を逸したことに思われるだろう、ということです。
もちろん、これらの新しく生まれた数々の知覚を、再編成された古い思想(=再編された新自由主義)で、すべて塗りつぶすことが(フランス政府の)今後の最優先課題となるでしょう。私たちが経験したことを、違った生き方や考え方をする1つの機会だったという風にはさせず、むしろ、ただ単純に悪い思い出として葬り去り、私たちのものに再びなった(新型ウイルス登場以前の)生活様式を正当化するでしょう。
けれども、いかに不器用だとしても、それらの驚くような知覚の転換については、それらのヴィジョンが消え失せてしまう性質のものだけに、見たらすぐに語ることがとても大切です。それらの変化を見ることは、たとえわずかだとしても新たな夢を信じる、ということなのです。私はそれらの新しい知覚の変化の中から2つをここで述べてみたいと思うのですが、これらが未だ不確実なものであることは十分に意識しています。もし、これらの知覚が新しい現実の創造に貢献するとするなら、その知覚は私たちみんなによって、新型コロナウイルスが私たちに投げかけた新鮮な知覚を維持しようとする私たちみんなの努力によって初めて強固なものにできる、ということなのです。
1)公益と富の分かち合い
まず、ウイルスによって公益(英common good/仏bien commun)という概念が突然、感じられ、蝕知でき、明快なものになったように私には感じられます。これまで、この概念はとても曖昧で、保守的で、安っぽく見えたのです。理想主義的で、夢想的で、抽象的過ぎる、と。
公益という概念について私は何を理解しているのでしょうか? 公益とは豊かさの事で、集団のみんなの手の中にある、とすぐに感じられるものです。公益はみんなに属します。というのも、まったく単純ですが、みんなの努力によって初めて存在するものだからです。
公益が再分配されるのは、第二の時に限られます。当然、共同ということから生まれているので、いわば共同募金と同じ考え方です。定義から、そのような豊かさは分かち与えられる性質のものです。最初から分かち与えられる以外の形では存在しようがありません。これは道徳上の選択ではありません。それは行為の必然なのです。というのも、それはまずみんなによって生み出されたものだからです。(私がここで提案する定義に従えば、空気は公益ではありません)
では私たちにとって、公益とはいったい何なのでしょうか? 健康です。このような特殊な流行病の文脈ではそうです。(人はこれを「全面的な流行病」と呼ぶでしょう。多分、このテーマを研究した流行病の専門家や歴史学者、あるいは人類学者たちが、この言葉を作り上げたのです。この種の流行病は社会性という水脈と結びつき、他の一般の流行病とはまったく異なります。たとえばエイズの場合とは違っているのです。) このような文脈では、思うに、一人一人の健康は同時に、全員の健康でもあるわけです。
みんなの健康を維持するためには、ひとりひとりの健康を保つことが必要です。逆にまた、それによって、みんなの健康を保つこともできるのです。ですから、人は1つの財産、1つの富を持っていて、それは当然、みんなが意識し、協力してえられた結果であるのです。
最近起きたことはまさにこのことなのです。私たちには1つの公益があることを感じています。ウイルス対策の一環としてなされるすべての活動は公益への貢献という観点から再評価されるべきなのです。ある人々には、こう言います。家に籠っているように努めなさい(あるいは、経営者の場合は、従業員たちに出社することを求めないように努めなさい、と)
また他の人には、逆に、家から出て、働きに行きなさい。なぜなら公益のためにその人の労働が必要だから、と。ここに恐らく最も鋭い形での、かつ最も政治的な形での問いが発生しうるでしょう。いったい誰が他人から感染したり、感染させたりするリスクをとって実際に働きにいかないといけないのか。また逆に、誰が家にいなくてはならないのか、と。
言い方を変えれば、問われているのは「欠かせない」活動と、「欠かせる」活動(これらの語は公益という概念とある程度、重なる言葉です)の違いです。しかし、それについては脇に置いておきたいと思います。私が特に強調したいのは、私たちが経験している流行病の試練の中に、どれほどの公益が感じられ、手に触れられるものとなり、明らかなものになるかということです。
というのも私たちはものすごく早い速度で計画経済(管理された経済)に近いものを経験しているのを感じているからです。しかし、この場合の「管理された」という言葉は、何者かによって管理されているという意味では決してなく(つまり、国家によってではなく)、何よりも、何かあるもののために管理されなくてはならないという感覚なのです。
それは質の高い目的を持っています。「新自由主義」の文法にとって新しいものです。半世紀近く前から、新自由主義はすべてのエネルギーを、公益に関する宣教を中止させることに費やし、個々の利益のゲームこそが結果的に全体の利益の創造につながるのだとしたのです(マンデヴィルの有名な「蜂の寓話」に書かれている通りです)。ウイルスが巻き起こしたものは、こうした新自由主義の文法を一時中止にしたということでした。今、私たちはこう言うことができます。公益は存在するのだ、と。私たちは実際にそれに出会った、少なくとも1つは、と。そこで私たちは想像力を試すことを始めることができるのです。公益の概念に基づいて、私たちの富に対する思想を想像力を働かせて再編することです。
しかし、この公益の経験に関してはすぐにみられる影響があります。もし私たちが今後、努力を分かち合うなら、つまり、もし私の行動が公益に貢献するようなやり方で決定されるのであれば、富の分かち合いとはどうあるべきか、という問いに直面することを覚悟しなくてはなりません。公益は富を形成するにあたって協力し合ったその努力を、富の再分配につなげるのです。
まず1つの例をお見せしましょう。フランス政府がサラリーマンに対して何週間もの有給休暇を消化させる意志を「戦争の努力」という言葉で正当化した場合(私たちは、ケアの努力と呼びましょう)です。もし経済的な富が共同募金の瓶に入るのであれば、つまり、公益のための努力であるなら、その努力に見合う再分配を受けなくてはならないのです。お金を勘定し、今後はどこに富が移るか、ということを、それがどのように生み出されたかということと合わせて見つめなくてはなりません。
2) 行動しないことによる貢献と、生きるための収入
もう一つの小さな転換も私にとっては衝撃的に思えます。「働かざる者、食うべからず」というイデオロギーほど現代において君臨しているものはありません。それは富を創造するのに貢献できるのはあなたの行動によるものだけだと説き、労働者は働いてその小さな配分を受けるのです。しかし、全面的な流行病の時代における見地からすれば、公益に貢献するのは逆に活動しないことなのです。
このことが次の理由になっています。もしあなたがこの先、収入が途絶えるのであれば、仮にあなたがマッサージ師かレストランの経営者であれば、国はあなた方に補償をするでしょう(できる限りの金額において)。というのも、あなたが活動を中止したことが公益に貢献したからです。何もしないことによって集団に貢献したわけです。何もしないことによって支払いを受ける一連の方法がなければなりません・・・。つまり新型ウイルスはまたもや想像できなかったことを可視化したのです。行動による公益への貢献だけでなく、何も何もしないことも公益に貢献することもできるのです。
もしあなたが、生きるための収入を受け取るのだとすれば、それは悲惨に陥らないようにするための最小限の手当としてではなく、公益に奉仕したという理由で、報酬を受けるのです。富を分かち合うことと、行動しないことによる報酬。これこそがこの流行病の特徴が与えた明白な転換なのです。そして、このことは単なるアネクドートに終わるものではなくて、1つの大切なエピソードとして記憶にとどめておくべきものなのです。
多分、悪意の人は私にこう言うでしょう。「親愛なるムッシュー、あなたはこの出来事にとても好感を抱いていますが、それはあなたがこれで自分たちを合理化できる状況が生まれたので満足しているおしゃべりの一人に過ぎないからではないですか?あなたは、つまり共産主義者であり、そこで、このウイルスが共産主義のリアリティを証明したと思ったのですよ。」
その方には異議を唱える権利はありますが、しかし、彼は自ら、その言葉が本当ではないことを知るのです。実際、その逆で、私は今起きていることに正直驚いています。計画経済について私は初めて知りました。公益というものを知ることになって自分自身驚いています。公益という考え方が多少なりとも意味を失っていたところに、突然、それがリアルな対象を見つけることになったわけですから。
それにショックを受ける人に対しては気の毒だと思います。しかし、事実は私が知ることになった通りで、人はこのウイルスから学ぶことができ、その学習の場に参加できるということです。まさにこれが集団で試してみるべきことだと私は思います。
ウイルスに耳を傾け、ウイルスから学ぶこと。ウイルスと「戦う」ということは、まさに戦闘を意味する語ですが(当初に立ち返るなら)、しかし、むしろ、ウイルスを理解し、ウイルスによって私たちにものを考えさせ、ウイルスによって今までとは別のように私たちに感じさせる、ウイルスが示す方向を見つめる、それが大切です。それがつましいものであったとしても、その行為は、言葉に意味を与えるということに近いと思います。というのも、ウイルスは様々な言葉に中身を与えるように思われるからです。そして、まず何を置いても、その1つの言葉が、公益なのです。
パトリス・マニグリエ(哲学者)
Patrice Maniglier (philosophe)
翻訳: 村上良太
パトリス・マニグリエ(哲学者)Patrice Maniglier (philosophe) ©Pauline Bernard パリの高等師範学校卒業。現在、パリ第10大学(ナンテール大学)で哲学の講座を受け持っている。市民運動の「立ち上がる夜」(NuitDebout)に参加するなど、広場に出て行動する哲学者でもある。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1118:200501〕
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