「封城」(ロックダウン)下の武漢の暮らし - 方方女史の『武漢日記』(7)
- 2020年 5月 13日
- 時代をみる
- 中国新型コロナウィルス武漢田畑光永
3月13日
太陽は正午になってもまだ眩しい。午後になって光は薄くなり、風も吹き始める。お日様の顔は変わるときに変わる。このままでもう少し、と思ってもそれは無理。武漢大学の桜はもうみんな咲いたろう。老斎舎のベランダから下を見れば、白い雲のような一筋の花の帯だ。昔、学生の頃も桜は咲いたから、写真を撮りに行った。でもあの頃は見に来る人はいなくて、われわれ学生だけだった。観光スポットになったのはその後で、この季節にはキャンパス内は人で歩くのもままならなくなる。人の顔かたちは花弁と同じくらい多種多様で、人の群れの方が桜の花より見ものだ。
病気の蔓延具合は引き続きいい方向だ。退院する人が増え、新しく感染する人は数人だ。ところが今日は変だった。情況発表の時間がいつもよりおそかった。私は正午に行って、2,3のグループと言葉を交わしたが、みなその話をしていた。なぜ発表時間が遅れるのか。友人の医師たちは発表がちょっと遅れるとすぐさま人々に想像の空間を与えることになると言う。その空間には何が入るのだろう、私も考える。
封城されて50日が過ぎた。最初から封鎖50日と言われたら、その時はどんな気分になっただろうか。ともあれ私はこんなに長引くとはゆめ思わなかった。先月、病院へ薬をもらいに行った時、1ヶ月分で十分と思った。そんなに続くはずはないと。今となってみると、私がこの病気を甘く見ていたことは明らかだ。こいつの強さと持久力を過少評価していた。新しい病人は減り続けていても、へんな噂が絶え間なく聞こえてくる。すべてで手を緩めてはだめだ。いつ何時、反動が来るかわからない。だから、われわれは陣立てを崩さずに構えていなければならない、というのだ。しかし、われわれがここまで経験を積んだのはプラスで、感染しても恐れることなしに医師に診てもらえば、重症とならず回復も難しくないとも。
3月も半分が過ぎようとしている。すぐに迫っているのが清明節(注:二十四節気の一つ。春分の後の15日目、4月の第1週。墓参の日)だ。肉親の霊を祭って香を焚き、墓を掃除する。これは長い伝統で、多くの家庭では毎年必ずおこなう決まり事だ。伝統的考え方をしっかり守る武漢人からすれば、今年は通らなければならない大きな難所が控えている。この2ヵ月余りの間、いっぺんに何千人もが死んだ。その死につながる人は何万人にも達する。肉親が旅立ったというのに、遺骨を抱くこともできない。とりわけ多くが死んだのは2月の上、中旬だった。初七日は混乱と悲しみの中に過ぎ、四十九日は清明節前後という人が非常に多い。非常時であることは理解していても、その時期が来たら、墓に行かずに故人を思い出し、悲しんですますなどということが出来るだろうか。そんなことは不可能だ。我に返って、これほどに長い抑圧に耐え切れず、精神の崩壊状況が出現するのではないか。じつは私自身、そのことを思うと、涙が抑えきれなくなる。
親しい人間を失った悲しみは、訴える相手がいて泣くことが出来て和らぐのだ。これは心を導く最善の方式だ。数日前、一つの文章を読んだ。多くのネット友達が李文亮(注:2月に亡くなった武漢市中心病院の医師。1回目に登場)のブログに書き込みをして、思いのたけを伝えていた。そこは嘆きの壁となっていた。たんに李文亮を記念するだけでなく、思いのすべてを吐き出したい友人たち自身の心が求めるものなのだ。病気の蔓延は今や最後の段階にあるとはいえ、清明節にはまだ日数がある。われわれはその間に「嘆きの壁」に匹敵する「嘆きのウエブサイト」を立ち上げることができる。
親しい人間を失ったら、その人の写真を掲げ、蝋燭を灯し、泣く場所を設ける。そこで泣く人は家族、友人に限らない。今は武漢の人間全部が思い切り泣く場所が必要だ。人々は「嘆きのウエブサイト」を通じて、親しい人を泣き、友を泣き、そして自分自身を泣く。内心の悲しみを吐き出し、個人の思いを託す。勿論、心を慰める音楽を添えることが出来ればなおいい。泣いた後、叫んだ後、心は落ち着くだろう。病気がいつ終わるかはまだ分からない。すべてが未知数、未確定の今、無数の個人の悲しみ、気鬱を一つにまとめることは難しい。だから一つの空間を開いて、みんなで泣くことが必要だ。
このほか、まだ忘れてはいけない人たちがいる。初期の段階では大勢が感染したが、病院にはベッドがなく、治療どころか核酸検査の機会もなく、確定した診断など得られないままに、ある人たちは病院で、もっと多くは家で死んでいった。高校の同級生が言うには、彼の奥さんの同僚の家では2人が死んだ。お婆さんが家で息を引き取ってから、まる1日、葬儀社から迎えの車が来ず、夜になって箱型の貨物自動車が来て遺体を乗せて行った、という。似たような境遇の死者は少なくない。新型ウイルス肺炎という診断書がないから、この人たちは今度の病気による死者の名簿には載らない。それがどのくらいの数か、私には分からない。
今日、心理の専門家との電話でもこのことを話したのだが、もし居住区でこのような死者の数をきちんと調べて、新型肺炎の死者の名簿に加え、将来、国が遺族を慰問するような場合には、彼らのことも考慮すべきだと思う。同時に居住区がもう少し細かい仕事ができるようであれば、病状のために治療を受ける機会がなく、新型肺炎患者とはされずに死亡した人の数を割り出し、将来の慰問、全体的な配慮の中に加えるべきである。
ここ数日、病気の蔓延は落ち着いてきたが、街の悲鳴は相かわらず響きわたっている。最大の悲鳴はごみ収集車が住民への食糧配送にあたっていたからだ。私も昨日、現物を目にして茫然とした。いったい誰が思いついたことなのだ!恐れを知らない無知もここまでやるか。常識の基本もないのか、それとも庶民などは人間と思っていないのか?どれほど切迫した事情があったのかは知らない。しかし、どれほど切迫していようと、これほど目をそむけたくなることをしなければならないほどのことはないはずだ。
ある時期の政府が民生を第一に考えないで、もしもう一度、新しいX型ウイルスに見舞われたら、今年の災難がまた続くのだろう。役人たちが庶民を見ず、上司だけを見ていれば、ごみ収集車の食料運搬が再現される。「以人為本」(人を本とする)の観念がなく、庶民の角度から考えて、仕事をしないのが、現今の役人の大きな問題だ。官僚主義という言葉で形容するだけでは足りない。これはすべてが人品の問題というわけではなく、彼らの身体が1つの機械の中にいるからだ。この機械は快速で運転されるため彼らの目は上級にくぎ付けとなって、民草には向かないのだ。まさに言うところの「人在江湖、見不由己」(世の荒波で身動きならず)である。
閑話休題。今日見た「南方人物週刊」の一文について。衛生健康委員会の高級専門家メンバー、杜斌医師のインタビューで、タイトルは「このすべて、英雄主義とは無関係」。その中の一節に笑ってしまった。杜斌先生はこう言う、「病室の中にウイルスがいて、わんわんと目元にやってくる、などということは全く信じない」と。以前、別の専門家、王広発医師が「新型ウイルスが目にやってきて感染した」と話したのを覚えている。その時はこの一言で市場の防護眼鏡は瞬く間に売り切れた。友人の1人が私に防護眼鏡を送るというので、私は自分で買うからと、その宝物を売る店の住所を聞いて、ネットで1個買った。その眼鏡は今日まで封も切らずにそのままだ。
そう、もう1件あった。今日、「方方封城日記」編集部、という名称で、ほかの人の文章が載っているのを見た。説明させてもらうが、この名称は私とはまったく関係ない。この名称の持ち主が別の名前に変えてくれるよう希望する、お互いが不愉快な思いをしないために。(続)
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