GDP信仰と成長崇拝が社会を壊す - 左右のポピュリズムは同根
- 2020年 5月 15日
- スタディルーム
- 盛田常夫経済政策
蓮舫議員が「赤字国債は国民の借金」と発信したところ、ネット右翼は即座に反応して、「赤字国債は国民の借金ではなく、政府の借金だ」と蓮舫議員を批判した。政府がどれほど借金しても国民には関係ないのだから、「どんどん赤字国債を発行して、お金を配れ」という。
5月3日の「日刊ゲンダイDIGITAL」に掲載された「れいわ新選組・山本太郎の本音に迫る」を読むと、山本太郎もネット右翼と同じことを主張している。れいわ新選組のスローガンは、「金を刷れ、皆に配れ」だそうだ。アベノミクスに便乗したアベノヨイショの劣化版「ヘリコプターマネー」と瓜二つ。何とも無責任なデマゴー「愚」だ。しかし、何時の時代にも、デモゴーグに騙される人々がいる。多数が騙されれば、国家破滅の道が待っている。「地獄への道は善意で敷き詰められている」。
レベルが低いデマゴギー
山本太郎に経済政策アドヴァイザーがいることは知られているが、扇動政治家への無責任なアドヴァイスは社会的犯罪である。アベノヨイショと同様に、「インフレにならない限り、政府は日銀にお金を刷らせ、借金すれば良い」と主張する。なぜなら、「政府の赤字が増えれば民間の黒字が増えることはハッキリしています。誰かの借金は誰かの資産という関係性なのです」という。資金循環表や産業連関表の経済統計に触れ、生半可な知識で、アドヴァイザーの主張を請け売りしている。
アベノヨイショのなかには、「赤字国債は政府の債務だが、国民の債権でもあるから、国民の債務というのは財務省のデマ」と主張するものがいる。簿記記帳で債権と債務がそれぞれの勘定主体に複式記帳されることと、債務の実体(現実)を解明することはまったく別のことである。債権・債務がどのように記帳されようと、政府を成り立たせているものが国民の税金だから、政府の債務はいずれ国民の将来の税金で補填されなければならない。補填されなければ、借金が踏み倒されるだけのこと。日常の商売でも国家内でも国家間でも同じである。債務が永遠に返済されずに、何ごともなく過ぎることはない。企業倒産するか、国家破産して、債権と債務が帳消しされるだけのことである。
勘定記帳という簿記上の操作と、債務の現実を区別できないという点で、アベノヨイショも山本太郎も同じ。債務が税金で補填されなければならないことに目を瞑り、あたかも国民以外の誰かが借金を請け負ってくれるというナイーヴな考えに訴えるのはポピュリズム以外の何物でもない。森永某という三流「経済評論家」も、政府の債務と日銀の債権が相殺されて政府債務を消すことができるという主張に乗っかり、コロナ禍が終わるまで国民に毎月10万円給付せよという。山本太郎と五十歩百歩のポピュリストである。
森永某の議論は、高橋洋一の請け売りである。高橋は政府勘定と日銀勘定を統合すれば、「親会社と子会社の関係だから」、政府債務が消えると主張している。この議論も勘定簿記の複式記入と、債務の現実の理解を混同したものだ。もっとも、この主張に自信がなかった高橋は、ノーベル賞経済学者スティグリッツの同様の主張(2017年経済財政諮問委員会での講演)に意を強くしたが、スティグリッツの議論は国民経済計算のイロハを理解しない、無知による誤解に過ぎない。
政府債務が中央銀行の操作によって実際に消滅するのは、中央銀行が債権放棄して債務を帳消しにする場合のみである。その時、中央銀行は債務超過になり、国家の通貨管理責任を放棄したと見なされ、中央銀行の信認は失われ、円貨が売り込まれる結果を導く。円の暴落によって、輸入物価が高騰し、それが一般物価に波及してハイパーインフレをもたらす。これが歴史の普遍的な教訓であり法則である。日本だけがその法則の貫徹から逃れることなどできるはずがない。
歴史的に左翼は経済計算に弱い
20世紀社会主義の崩壊によって明らかになったのは、「政治(共産党政治局)が経済を主導し、管理できる」という安直な啓蒙的労働者独裁が国民経済を破壊したことだ。経済計算を無視し、政治的イニシアティヴで国民経済を管理できると考えたところに、国民経済崩壊の根本原因がある。企業の収益計算や国家の帳簿管理を蔑にした結果である。それが数十年の歴史を経て、国民経済を自壊させた。
しかも、社会主義体制が崩壊した諸国では、一部の中欧諸国を除き、皆、財政赤字を補填するために中央銀行による紙幣増発を行ったために、軒並みハイパーインフレが起きた。1990年代のことだ。ほんの30年前の出来事である。バルカン諸国や旧ソ連共和国では財政・金融規律が守られず、政治指導者の思惑で紙幣が増刷された。とくに1990年代始めに内戦に陥った旧ユーゴスラヴィアのセルビアでは、戦費を賄うために、財政赤字を埋めるために膨大な銀行券が発行され、歴史上例を見ないハイパーインフレに見舞われた。ワイマール共和国や第二次世界大戦直後のハイパーインフレを超えるインフレに国民は苦しんだ。この結果、セルビア国民は今、平均月額2万円程度の年金しか受け取っていない。月額数千円の年金しか受け取れない国民が多数いる。あれだけ持て囃された自主管理社会主義の30年後の現実である。
しかし、日本の左翼はこれらの歴史から何も学んでいない。社会主義経済崩壊の原因を知ろうともしない。
政府の累積債務の削減は不可能
今次のコロナ禍によって、日本の財政再建ははるか向こうに遠のいた。今年度の税収減や特別支出はすべて赤字国債で賄わなければならない。毎年、歳出の半分を赤字国債に頼っている日本が、さらに債務を累積させることになった。「新規に積み上がる債務は、累積債務の大きさに比べれば小さい」と主張するものもいる。しかし、このことが意味していることは重大である。
すでに歳入の20年分以上の累積赤字を抱え、さらに毎年新規の債務を累積させている日本にとって、今後どれだけ増税を繰り返しても焼け石である。30~40年かけても債務を大きく減らすことはできない。そのうち、国内人口の減少にしたがって労働人口も減り、累積債務は放置せざるを得ない。このような状況下で、首都直下地震、根室沖地震、三陸沖地震、南海トラフ地震が起きたらどうなるのか。
必要な財政出動のために、さらに巨額の赤字国債が発行されるだろう。すでに事実上、赤字国債の日銀直接引受けに近い状態になっている。それに加えて巨額の緊急財政出動が必要になれば、累積債務問題が一挙に噴出する。政府債務の帳消しなしに、社会の復興は不可能である。日銀の債務超過によって円貨が暴落し、輸入品が高騰して、国民経済は崩壊への道を辿る。
インフレを漸次的に進行させて、債務を減らす術は望めない。いつの時代にも、何かのきっかけで、積年の債務が一挙に処理されなければならない時が来る。戦争か、体制崩壊か、それとも巨大地震か。その時に騒いでももう手遅れである。何時の時代も、社会は一方向へと突き進む。「なぜ無謀な戦争に突入したのか」と考えるのは後知恵に過ぎない。政府の債務処理も同じである。後世の国民はなぜもっと賢く、早くから準備しなかったのかと思うだろう。「後悔先に立たず」である。
だが、国民の金融資産がすべて失われることで、国家の債務は消滅する。そうして復興が始まる。こうして歴史は繰り返される。目先のことしか考えることができない「サル化した社会」は、立ち直ることができないほどのしっぺ返しを受けた時に初めて目が覚める。
福島原発の処理と同様に、政権を取った野党は崩壊の危機を解決することなどできない。それどころか、歴代政権が負うべき危機発生の責任まで追及されることになろう。「ババを引く」のは常に野党である。中途半端に政権を取得しても、できることには限りがある。経済計算ができない「左派」の場合にはなおさらである。
GDP信仰から脱却せよ
最悪の事態から逃れるために、今から社会経済改革を始めなければならない。まずGDP信仰と経済成長崇拝から脱却することだ。
今次のコロナ禍の自粛を経験する中で、個人の消費生活についていろいろ考えることがあった人は多いと思う。家の中を見回してみると、不要不急の商品・サーヴィスが身の回りに溢れていることに、今さらながら気づいた人は多いはず。個人の消費生活はかなり切り詰めることが可能であり、もっと質素に暮らすことで、所得の使い方を再考する時間が与えられた。個人消費を煽る経済政策は間違っていないだろうか。
他方、給付される10万円の一部はパチンコ屋の収入になり、バーや競輪・競馬につぎ込まれる。もっとも、10万円では焼け石に水だが。他方、パチンコ屋やバーも、所得申告を行っている限り、GDP計算に入ってくる。GDPはサーヴィスや商品の質を問わない。生活に不要不急のサーヴィスや商品の製造(提供)でも、所得を生み出している限り、GDPに計算される。借家賃料もGDP計算に組み込まれる。要するに、所得が発生する活動のほとんどが、有用無用にかかわらずGDP計算に入ってくる。
かくように、GDPは国民福祉の指標ではない。1970年代初頭に、国民所得(総生産)に代えて、国民福祉指標を提唱する動きがあった。著名な経済学者たちが加わり、経済企画庁が音頭を取って、国民所得に代わる指標の作成が試みられた。高度経済成長の歪みを修正しなければならないという良心的な経済学者の思いがあった。しかし、福祉指標を確定し、測定することの難しさから、国民福祉指標の作成は中断された。
安倍政権が「高度成長よ、もう一度」という根拠のない政策を打ち出してから、再びGDP至上主義という成長崇拝が蔓延しだした。「GDPの7割を占めるのが個人消費だから、これを増やせば経済成長が達成できる。だから、消費税によって消費制限することはけしからん」というのが、GDP信仰に取りつかれた単細胞「学者」や政治家の主張になった。
個人消費が経済成長を主導するのは、持続的に新規の労働力が労働市場に入ってくる時代である。日本経済はとっくにその時代を終えている。労働力の純増がなく、逆に減少に転じている時代には、個人消費は成長を牽引する力にはならない。日本のように消費生活が飽和状態に達している国で、消費支出の純増を図ろうとすれば、不要不急の商品・サーヴィスを購入する以外にない。しかし、いくら安くても、毎年毎年、新たに商品を買い求め続けることは意味がない。だから、国内需要が減るのは当然である。その減った分を外国の旅行客のインバウンド消費が国内消費水準を維持している。中国人観光客がいなくなれば、銀座のユニクロ店はガラガラである。
今の日本社会に必要なのは、不要不急の商品・サーヴィスの購入を煽ってGDPを伸ばすことではない。安定した持続社会を実現するために、不急不要のサーヴィス分野から労働力を移動させ、高齢化社会に備えた医療サーヴィスや介護サーヴィス分野を拡充することだ。他方で、未来の世代を育てる保育園・幼稚園・学校教育にもっと人材と財源を投入すべきである。これを実現するために、個人消費に向かう所得部分を、これらの社会サーヴィス維持に向けなければならない。そのために、適切な社会保険負担と税負担が不可欠である。これからは、個人消費だけを考えるのではなく、個人消費と社会サーヴィス消費の組合せを考えなければならない。
国民が公正に社会的消費に必要な費用を負担する代わりに、政府や自治体の歳出を厳しく監視しなければならない。国家予算をあたかも自分のポケットマネーのように使っている官邸や政治家を厳しく監視しなければならない。桜を見る会もそうだが、リオ五輪の「安倍マリオ」のために使われた10億円を超える巨額の無駄遣いなど、絶対に許してはならない。どこからどういうお金が支出されているのか、きわめて不透明である。官邸はこうやって巨額の税の無駄遣いを行っているが、それにたいして国民は批判することがない。政治家も国民も、政府のお金は天から降ってくるかのように考えている。その鈍感さが税の無駄遣いを見逃すことになっている。
思考や発想の転換なしに、成長信仰に陥り、政府債務を積み上げていけば、社会そのものの土台が切り崩される。デマゴーグ政治家の無責任な甘言に騙されてはならない。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1120:200515〕
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