福竜丸保存に尽力した人びとを活写 山村茂雄著『晴れた日に 雨の日に―広島・長崎・第五福竜丸とともに』
- 2020年 6月 3日
- 評論・紹介・意見
- 岩垂 弘核第五福竜丸
第五福竜丸という船をご存じですか。
東京駅からJR京葉線に乗る。数分で4つ目の駅、新木場に着く。駅舎を出ると、北に向かって自動車道が延びる。明治通りだ。その歩道を数分歩くと、右手の木立の中に三角屋根の建物が見えてくる。都立第五福竜丸展示館だ。
ここに展示されている第五福竜丸はかつて静岡県焼津港に所属していたマグロ漁船である。140・86トン、全長28・56メートル、幅5・9メートルの木造船。敗戦直後の1947年に和歌山県古座町(現串本町)で建造された。木造船の寿命は15年から20年だが、この船は建造から今年で73年。敗戦直後に造られた木造船としては現存する唯一の船とされる。
数奇な運命をたどる
一見、何の変哲もない古びた船だが、都立展示館という安住の地を得るまでは、まことに数奇な運命に翻弄され続けた。
1954年1月22日に焼津を出港、漁場に向かったが、3月1日未明、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁から北東の海上で操業中、米国の水爆実験に遭遇。実験によって生じた放射性降下物の「死の灰」を浴びた乗組員23人全員が放射能症にかかり、無線長の久保山愛吉さんが死亡した。水爆による初めての犠牲者だった。実験場周辺の島々の住民たちも「死の灰」を浴び、乗組員と同様の被害を受けた。これが、世界を震撼させたビキニ被災事件である。
これを機に、東京都杉並区の女性たちが水爆禁止署名運動を始める。それは燎原の火のように全国に波及、ついに各界各層の諸団体と海外代表が結集する原水爆禁止世界大会が1955年夏に広島で開かれた。大会後、運動をさらに推進するため原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足する。もっとも、1963年、運動の進め方をめぐる意見の対立から、社会党・総評系が原水協を脱退し、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成する。原水協は共産党系が主導権をにぎる。
一方、被災した福竜丸はその後、政府に買い上げられ、東京水産大学の練習船となるが、船体老朽化のため廃船処分となり、東京のゴミ捨て場だった東京湾・夢の島に放置され、朽ちつつあった。そのみじめな姿に心動かされた都内在住の会社員が船体保存を新聞の投書欄で訴えたことから、同船の保存を目指す動きが芽生える。さまざまな曲折を経て、1969年、学者・文化人、宗教家、原水協・原水禁の両代表らを代表委員とする保存委員会が発足。そして、1976年、夢の島に都立第五福竜丸展示館が完成する。都が船体を買い上げ、永久保存を図るという形で決着をみたのだった。展示館ができたことで保存委は第五福竜丸平和協会と改称し、都からの委託で展示館の運営にあたることになった。
多彩な群像が登場する保存運動
こうした福竜丸がたどった稀有な航跡を、保存運動に参加した人びとの働きを軸にまとめたのが本書である。世間では、企業や団体、社会運動の歴史を書いた刊行物をよく目にするが、その大半は企業や団体、社会運動を運営した組織の動きを中心に編纂したものだ。が、本書は福竜丸がたどった歴史を、その保存運動に加わった人たちを主役にして描いたものだ。いうなれば、多彩な群像が登場して織りなす福竜丸保存運動史である。
こうしたユニークな歴史関係本作りを可能にしたのは、本書の著者である山村茂雄さんが、数十年にわたって福竜丸と関わってきたからだ。
1958年に原水協の事務局員になった山村さんは、主に情報・宣伝関係の仕事に携わったが、そこで、福竜丸保存運動に関わった。原水禁運動分裂後も原水協に留まり、事務局次長を務める。1988年にそこを退職すると、第五福竜丸平和協会の評議員、理事を務め、今は同協会顧問。
要するに、山村さんは原水禁運動、それと連動した福竜丸保存運動の両方の一隅に身を置き、これらの運動を担ってきた人なのだ。その間、福竜丸保存運動で多くの人に出会った。いつか、その人たちのことを書きたいと思ってきたという。そこで、同協会が機関誌「福竜丸だより」の紙面を山村さんに提供、山村さんはそこに『晴れた日に 雨の日に』と題するエッセーを2010年から40回にわたって連載した。単行本化にあたり、それに加筆した。
人間中心の福竜丸保存運動史が生まれた背景には、山村さんの世界観も投影しているのではないか、というのが私の見方だ。なぜなら、原水禁運動や福竜丸保存運動における山村さんの姿勢は、いうなれば、イデロギーや党派的立場を優先するといった行き方でなく、一貫して何事も人間中心でみてゆこう、というものだったからである。そこには、歴史をつくるのは結局、人間一人ひとりの営為だとの信念があったように思う。
ともかく、本書を一読して最も印象に残るのは、福竜丸保存には各分野の実におびただしい人たちが参加してきたという事実である。そして、それぞれの人が、さまざまな場面で重要な役割を果たしていたことが活写されていて、感動を覚える。
逆に言うと、おびただしい人たちによるボランタリーで献身的な努力があったからこそ、福竜丸は消滅を免れて半永久的な展示館に保存されるに至り、今では外国人を含め年間10万人の見学者を迎え入れるまでになっている、ということである。
おびただしい人びとを福竜丸保存に駆り立てていたものは何か。それは「もうこれ以上、核兵器の犠牲者を出してはならない」という思いだった。
大きかった美濃部都知事の存在
ともあれ、本書には福竜丸を支えた人たちが登場するが、人数が多過ぎて、その一人ひとりを紹介できない。関心のある方は、ぜひ本書を手にとっていただきたい。
登場人物の大半は普通の市民だ。しかも、目立たないところで船の保存に尽力していた人たち、例えば、展示館に納められる前の福竜丸を監視したり、船体の清掃を続けた筏師、壊れた個所の補修にあたった大工、船体を塗り替えたペンキ職らも実名で紹介されていて、「こんな保存活動をしていた人もいたのか」と、胸が熱くなる。
著名人も登場する。その名を見て「えー、こんな著名人も福竜丸保存に加わっていたのか」と驚く人もいるに違いない。登場する著名人の数が多いので、その氏名を割愛したが、そのうちの1人をこの際あえて紹介しておきたい。それは、美濃部亮吉氏である。
美濃部氏は1967年から79年まで東京都知事を務めた。都が福竜丸を保存委員会から買い上げ、都立の展示館に安置したのは1976年、つまり、美濃部都政下だった。当初、保存委は民間から募金を集め、それで展示館を建立しようとしていた。が、募金が目標額を達成できなかったため、都で保存してほしいと陳情、都はこれを受け入れたのだった。それを決断したのが美濃部知事だった。
美濃部氏は社会・共産両党推薦で当選。美濃部都政を支えたのは「明るい革新都政をつくる会」で、その代表委員が評論家の中野好夫氏。中野氏は当時、福竜丸保存委の代表委員だった。「都知事が美濃部でなかったら、展示館は日の目をみなかった」というのが、当時の保存委関係者の見方だ。福竜丸展示館は美濃部都政が残した業績の一つと言っていいだろう。
ところで、本書を読んで、「やはり歴史的な事象に関する建造物は何としても残すべきた」との思いを改めて強くした。
広島の被爆を象徴するのは、あの原爆ドームである。戦後、これを残すかどうかで市民間で論争があったが、残そうという意見が勝ってドームは撤去を免れた。やがて、被爆都市・広島のシンポルとなり、世界遺産に登録された。それに引きかえ、長崎では、原爆で破壊された浦上天主堂をそのまま残そうという声が市民の間にあったものの、なぜか撤去され、被爆のシンポルにふさわしい建造物は長崎からなくなった。そのことを悔やむ長崎市民は少なくない。
これに対し、「第3の核被害」とされるビキニ被災事件は、シンボルを持つことができた。それは、もちろん、福竜丸だ。今では「ビキニ被災事件の証人」と呼ばれるまでになった。確かな証人が存在することにより、ビキニ被災事件は人びとの記憶に永く留め置かれることになった。
山村茂雄著『晴れた日に 雨の日に―広島・長崎・第五福竜丸とともに』
発行・現代企画室 定価・2200円+税
第五福竜丸平和協会(03-3521-8494)でも扱っており、こちらは出版記念特価で1500円(送料込)
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion9806:200603〕
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