所属組織への忠誠ではなく、より普遍的価値への誠実を。
- 2020年 6月 15日
- 評論・紹介・意見
- 澤藤統一郎
(2020年6月14日)
山口県田布施町職員の内部告発が話題になっている。正確に言えば、職員の内部告発に対する町当局の報復措置が話題となっている。この職員の告発内容は、固定資産税の過剰課税である。町民の利益のための公益通報者が不当な報復を受けているとの報道なのだ。公益通報者保護法の実効性が問われている。
事案の内容は比較的単純である。2年前、税務課に在籍していた男性職員が、固定資産税の徴収ミスを発見。上司に報告したが公表されなかったため、町役場に内部告発をしたという。ところが、徴収ミスの公表は2年も遅れた。公表のないまま、報復が始まった。その年度に役場側が出した男性職員の業務評価は最低の0点とされたという。それだけではなく、男性職員は2年間で3回の異動となり、今年(2020年)4月以降は、役場の建物から40m離れた公民館の一室に一人だけ隔離されているという。
人はその属する組織の上を伺ってヒラメとなり、忖度怠らず組織の論理に忠誠を尽くしておれば無難に世過ぎができる。今や、ヒラメを出世魚というのだそうだ。しかし、組織の論理を超える、高次の義務を意識すると、途端に面倒なことになる。公益通報者保護の制度とは、このような場合の拠り所を示すものである。
忠誠や忠実という言葉には、手垢にまみれた負のイメージがつきまとう。忠義となればなおさらのイヤーな感じ。かつて忠は身分社会の倫理とされ、その対象は主君であった。「君が君たらずといえども、臣は臣たらざるべからず」とは、何とムチャクチャな。近代日本では、臣民の忠の対象は天皇であり国家とされた。忠君愛国・滅私奉公…、支配者にとってこんな好都合な道徳はない。
この忠の身分的感覚は、象徴天皇制とともに戦後も生き残って、現在も払拭されていない。一人の人に幾層にも重なる社会構造のそれぞれが個人に忠誠を求めている。その主たるものは、従業員や公務員にとっての上司であり、また全国民にとっての国家でもある。忠誠や忠実が支配する側にとって好都合な徳目である事情は相変わらずなのだ。押しつけがましい愛社精神やら、愛国心やらには反吐が出る。
しかし、身分の上下や権力関係を捨象して、人が人に対し互いの人格を尊重し合うことや、人が社会に対して誠実に向かい合うべきことに疑問の余地はない。この普遍的な人の誠実義務が、組織の求める
森友案件での文書改ざんを命じられて自責の念から自死に至った赤木俊夫さんは「ぼくの契約相手は国民です」を口癖にしていたという。国民のために誠実であろうとする生来の心情と、所属する組織が要求する忠誠との板挟みとなって、国民への誠実を貫けなかったことの悔恨が死をも招いたのだ。
この社会の幾重もの組織の中で生きていかねばならない人は、組織の求める忠誠と普遍的な誠実さとの間での矛盾に晒され続けている。公益通報者保護は、このような矛盾の解決手段である。内部告発者を擁護することは、個人の誠実さを尊重することであり、個人の尊厳を護ることでもある。そして、さらに社会的な公益をも擁護することになるのだ。
当該職員だけの問題ではない。田布施町だけの問題でもない。日本社会全体の問題として、経過を明らかにし問題点を明確にしたうえ、然るべき救済措置と責任者への相当処分、さらに再発防止措置とその公報が行われねばならない。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2020.6.14より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=15087
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〔opinion9841:200615〕
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