リハビリ日記Ⅳ 31 32
- 2020年 8月 17日
- カルチャー
- 阿部浪子
31 平林たい子・関係者への取材
8月1日。やっと梅雨が明けた。早朝から、ミンミンゼミの合唱がすさまじい。コロナ禍なんぞ、どこ吹く風か。わが世の夏をうたいまくっている。
近所の畑にカボチャの黄色い大きな花が咲いた。小説「黄の花」で第16回田村俊子賞を受賞した作家がいた。一ノ瀬綾さんは、今どうしているだろう。わたしは取材で彼女の1人住まいを1度だけ訪ねている。彼女は愛猫といっしょだった。自力で購入したという分譲住宅から筑波山が見えた。くわしくは、拙文「一ノ瀬綾―わたしの気になる人⑦」(ちきゅう座)のなかに書いてある。
その日とつぜん、一ノ瀬さんは漏らしたのだった。〈おくさんて、気づいてないわよ。〉
女たちの恋愛・不倫は、一ノ瀬文学の世界だけのことではないようだ。一ノ瀬さんは若いころからずっと、その実践の人だったのではないか。小柄なからだのどこに、そんなパワーが潜んでいるのだろう。長野の農村から、向こう三軒両隣への嫁入りをこばんで上京する。一ノ瀬綾は、書くことをしながら、自立への道をつらぬいた女性なのだ。
7月初旬のこと。社会学者の上野千鶴子がこう述べていた。「人はなぜ不倫をしないのか。私には信じられない。結婚して性的な身体の自由を手放すなんて恐ろしい」(プレジテントオンライン)と。いかにも、上野さんらしいエキセントリックな発言だ。フリーライター、亀山早苗の『人はなぜ不倫をするのか』(SB新書)への反応である。
人には感情がある。他人を裏切りたくない。他人を哀しませたくない、などの感情が。この大胆発言から、上野千鶴子がとくべつ魅力的な人物とも、わたしには思えない。むしろ、それでも不倫しないではいられぬ人の気持ちを追って検証する亀山さんのほうに、強い関心がある。
100円ショップのダイソーに行く。徒歩で40分。道行く人が、つえをつくわたしを追いこしていく。もう、あんな先に行ってしまった。マイペースで歩くしかない。
100円のふでペンで暑中見舞い状を書く。まずS病院の理学療法士、T先生に。そしてH先生にも。T先生は、早朝から海釣りをしているだろうか。日曜出勤をしているだろうか。T先生とH先生は昨春、掛川・新茶マラソンの大会に出場している。
ゼブラの細字ふでペンは書きやすい。速く書けてミスも少ない。ボールペンの不自由なわが手には、手ごろな筆記用具になっている。
*
〈あの女は〉。彼女の、作家、平林たい子への憎悪は、そのときもつづいているようだった。たい子の夫、小堀甚二の不倫で彼女は妊娠した。出産した女児が4歳、たい子はその存在を知る。むろん逆上した。その後の彼女への仕返しはすさまじかったという。
わたしが彼女に取材したとき、女児は大学の夜学に通っていた。大柄の、感じのいい人
だった。たい子の養女がたい子の遺産を相続した、と知ってよろこんでもいた。
〈たみこちゃん、覚えてる。お鮨を食べるとき、あの女がこちらをじっと見てたでしょ〉〈お母さんたら〉娘が母をたしなめる。女どうしがはげしく敵対する。嫉妬の火花をちらす。たい子の夫婦仲は、すでに亀裂がはいっていた。しかし、1つ家に寝泊まりしていたあの女中に夫をとられたとは、まことくやしい。
彼女には、作家の差別意識ががまんならなかったのかもしれない。彼女はずっと、渦中の自分をつきはなし客観化できないでいたようだ。
取材は、たしかにたのしい。わたしには有意義だった。何人もの関係者に会っている。1人が次の人を紹介してくれる。彼女の存在は、平林たい子記念文学会のメンバーも知らないでいた。わたしは偶然、自力で知りえたのだった。彼女は都内に住んでいた。どきどきした。あとは手探りでつきすすむしかない。
作家論は机上だけでも書ける。しかしわたしは、平林たい子の伝記的作家論が書きたかったのである。
関係者から思い出話をきくと、会ってもいない作家が、作品・活字の向こうからとびこんでくる。少しずつ、わが脳裏には、作家の全体像が鮮明になっていくのだった。
32 若林つやへの取材
拙文「リハビリ日記Ⅳ」の前号に、わたしは「平野謙のおしえごたち」について書いた。反響はあった。院生時代、女性蔑視のひどかった男が勤務先の大学でセクハラ問題を起こしていた、というのだ。人物もよろしくない。書く論文も魅力がない。世の中はがいして、こんなくだらぬ男が重要なポストについて多額の給料を得ているのだ。この男を大学に推薦した女教授の眼力も疑いたくなる。かれについては、早くから、子どもの認知問題が話題になってはいた。大学のセクハラ問題は初耳であった。女先生、あなたは人をみる眼をおもちですか。この男より優れた院生たちはいたはずです。
デイサービスYAMADAに行く。週1回のリハビリだ。クルミを両手でカチャカチャ鳴らす。じつに快い音がジム内にひびきわたる。手と指の運動として毎週行なっている。
隣席の80代の女性がいきなり声をかけてきた。〈あたしの人生は不幸だった〉と。彼女はひざが悪くて歩くのが不自由そうだ。〈畑仕事はしなくていいというから結婚したのに。あたしのこと、手間をもらったというの。姑は意地がわるかった。ずーと野良仕事。今も。〉夫は7年前に他界したという。このような場所で、男尊女卑のながーい歴史のひとこまを聴くとは。
通所者の4人が欠席している。わたしは、イーフットを付けてジム内を歩行訓練する。
いつもより長い時間かけて。あしたの散歩は、思いきり、患足・右足があがるだろう。
翌日夕方のこと。知人のいとうさんが、うのはなをもってきてくれた。おや? 彼女の腰のあたりから煙がもくもく出ている。なんだろう? 蚊とり線香の缶を腰からぶらさげているのだという。〈夕暮れだけど、畑に行かんと。草がどんどん生えてくるもん。〉彼女はそそくさと帰っていった。いとうさん手製のおからレシピには、シイタケとニンジンとネギが入っていた。おいしかった。
*
作家、若林つやのアパートは東京文京区にあった。近くに愛人のドイツ文学者、芳賀檀の家があった。6畳間は荷物が山ほどで、まるで穴倉のようだった。ここで書けるのか。つやは、〈書くのは自分の業だ〉といった。
つやは美人だと思う。拙著『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)のなかに掲載した、つやの写真を見てほしい。つやは恋多き女でもあった。わたしは先日、古い取材ノートを調べていた。つやが2番目にお熱をあげた亀井勝一郎のことが書いてあった。きょうまで、わたしはこのことをどこにも書いていない。亀井とは、小林多喜二と芳賀とのあいだで出会っている。3人は顔立ちがいずれも端正な男だ。
亀井は、日本プロレタリア作家同盟に所属し、プロレタリア解放運動で活躍していた。1933年の作家同盟解散後の翌年、同人雑誌「現実」にくわわる。その翌年には「日本浪曼派」を創刊する。
作家の平林英子が回想した。〈若林さんは日本一が好きだったのよ〉と。そうかもしれない。恋することで、そのかれをとおして作品の発表舞台をえたい。作家同盟解散後、文学雑誌はつぎつぎと創刊された。つやは寄稿している。作品のほとんどは体験に取材している。そこから脱皮できるほどの力量はなかったようだ。
つやとは何回も会った。気のつよい人だと思った。結局、つやの恋は結婚までいかなかった。3番目の芳賀とは、かれが他界するまで不倫をつらぬく。芳賀夫人は夫の不倫に気づいていなかったのかもしれない。
実際に作家と接すると、その作品群とは別の世界がみえてくる。若林つやは、男たちのつれあいを批判した。その嫉妬心は、とくべつだった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0927:200817〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。