習近平「貴方も私も似たものどうし」 あらためて考える中国(4)
- 2021年 1月 29日
- 時代をみる
- 中国田畑光永
私は今月12日の本欄に、シリーズの2回目として「変わるか中国の対米態度」というタイトルで中国が対米関係でのこれまでの立場を変え始めたのではないかという推測を述べ、そのよりどころとして今月8日付けの新聞『環球時報』の社説を取り上げた。
その社説は今月6日にトランプ前大統領支持の群衆がワシントンの議事堂に乱入した事件について、「一昨年、香港で続いた民衆運動と似たようなものであり、いずれも反民主、反法治である」という説を展開し、中国が世界の大勢である民主主義に背を向けて、ひとり時代遅れの強権主義の道を歩んでいるという見方にやんわり異を唱えたものであった。
つまり、「われわれがやっているのは別に特別なことではなくて、皆さんがやっているのと同じです。だから変な目で見ないでください」というわけである。これが中国の統一見解として定着するのかどうかは、その時点ではまだ分からなかった。というのはその前日、7日の『人民日報』の「国際観察」というコラムでは「米議会に鳴り響いた銃声は『民主』の悪い果実の反撃の苦さであり・・」と、「民主、なにほどのものぞ!」という従来のメロディを歌っていたからである。
そこで習近平の登場である。1月25日、世界経済論壇「ダボス会議」に習近平はリモートで参加して、「多元主義のかがり火は人類の前途を照らす」と題して講演した。
習近平はまずわれわれが解決しなければならない現代の課題を4つ提起する。その項目をならべれば、1,マクロ経済政策の足並みをそろえて、世界経済の強さ、持続性、バランス、成長をはかる。2,イデオロギー的偏見を捨て、平和共存と共栄の道を進む。3,先進国と発展途上国との溝を克服して、ともに各国の発展繁栄を推進する。4,手を携えてグローバルな挑戦に対応し、ともに人類の美しい未来をつくる、である。
そして、この中の2がまさに前述の問題への習近平の答案である。少し長いが、その部分を全訳する。
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第二にイデオロギー的偏見を捨て、平和共存と共栄の道を進むこと。世界には全く同じ木の葉が2枚とないように、全く同じ歴史文化、社会制度はない。各国の歴史文化、社会制度はそれぞれに歴史があり、高低優劣の区別はない。問題のカギはその国の国情に合致しているか否か、人民に愛され、支持されているかどうか、政治が安定し、社会が進歩し、民生が改善され、人類の進歩に貢献しているかどうか、である。各国の歴史、文化、社会制度が異なるのは昔からであり、人類の文明の内在的属性である。 多様性がなければ人類の文明はない。多様性は客観的現実であり、なお長期に存在するであろう。差異は別に恐るべきものではない。恐るべきは傲慢、敵視であり、恐るべきは人類文明に多くの等級を設けることであり、恐るべきは自分の歴史、文化と社会制度を他人に押し付けることである。各国は相互尊重、異を残して同を求める基礎の上に平和共存を実現し、各国間の交流、相互啓発を促進し、人類の文明の発展進歩のために力を傾注するべきである。
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ここで習近平は、中国といわゆる西側諸国との政治体制の違いを「イデオロギー的偏見を捨てて」、「多様性」の一言に包み込んでいる。そしてそこから論理を逆転させて「多様性がなければ人類の文明はない」と「多様性」をもちあげることで、中国の特異性を擁護すべきものと錯覚させようと試みる。
誰が考えたか、なかなかの詐術である。たしかに「内政干渉するな」と突き放して、肩をそびやかすだけの「戦狼外交」では、相手に好意を持たせることはできない。その点、多様性とは便利な言葉を見つけたものだ。「まあ、お互いいろいろ事情があるじゃありませんか。そう目くじらを立てないでくださいよ」と、揉み手の一つもすれば、相手も「いや、お前は態度を変えるべきだ」と言い募ることはむつかしい。
習近平が今年最初の西側向けメッセージにこの言葉を用意したということは、米バイデン新政権にはこれでひとつあたってみようということかもしれない。まあうまくいくかどうか。中国国内にも根強い反米主義者がいて、ときにそれが顔を出して表の外交をぶち壊すこともある(2019年春の米中貿易交渉頓挫がその最近の例)から、米側の反応と同時に中國国内の反応にもしばらく注意しなければなるまい。
しかし、見物人は冷静でなければならない。「多様性」の詐術をしっかり見据えよう。
まず、多様性の擁護は同時に独自性の擁護でもあること。そしてそれはまたさまざまな次元で貫かれるべきであって、国単位では多様性を擁護するが、国内では多様性は認めない、というのではペテンである。中国の建国当初、政府は多民族国家であることを強調し、少数民族の歴史、文化をいかに大事に保護しているかは「新中国」の大事なセールスポイントであった。
何十年も昔の話で恐縮だが、私自身もチベットで伝統医学に現代医学の光を当てる研究をいかに国が支援してくれるかを誇らしげに語ったチベット人医師や、雲南省の片田舎で「納西(ナシ)族」という本当に小さい民族の言葉と歴史、文化の保護研究にあたっていた若い研究者の姿をはっきり覚えている。
ところが、昨年来、中国政府の少数民族政策は堂々と「多様性」を拒否して、少数民族を「中華民族共同体」の一員という意識で統一し、イスラム教、チベット仏教という長い伝統と多くの信者をもつ宗教を「中国化」するという、なんとも大それた目標を臆面もなく掲げている。
とくに民族の魂ともいえる言語の扱いがひどい。昨年夏、9月からの新学期を控えて、内モンゴル自治区ではモンゴル語の授業を減らして「漢語(中国語)」の授業を増やすという政策が打ち出され、さすがにこれまでおとなしかったモンゴル人たちも抗議の声を上げた。
また最近の報道によれば、国会にあたる全国人民代表大会の常設機関である常務委員会に属する法制工作委員会というところが、少数民族地区の民族学校では民族固有の言葉を使った授業が法令で義務付けられていることについて、「憲法と一致しない」として改正を求めた、という(1月26日、『朝日新聞』電子版)。
少数民族地区の学校で民族語の教育が法令で義務付けられているということは、まさに建国当初の多様性と独自性を尊重する政策の名残であろう。それを「憲法違反」とは穏やかでないが、その記事によれば、憲法には「国は標準中国語を普及させる」という規定があるそうな。それを見つけて、「ご注進、ご注進」と習近平に差し出した、共産党官僚の顔が見えるようである。
さて、この多様性という新カード、米側はそれと認識して受けとったかどうかが気になるところだが、25日のサキ米大統領報道官の会見では、「この習近平講演が米の対中姿勢に影響を与えるか」と問われ、「それはない」と明言したそうだから、とりあえずは効果を上げてはいない。まあゆっくりこれからの応酬を見物することにしよう。(1月27日)
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