「ひきこもり」についての論評、吉本隆明と田中千穂子 ― 「ひとり」と「人と人との関わり」
- 2021年 3月 1日
- 時代をみる
- 引きこもり池田祥子
1955年、「もはや戦後ではない」と言われ、やがて「高度経済成長時代」に突入していく日本社会では、それ以降は「企業社会・学校・家庭の三位一体」(本田由紀)が社会を有効に回していったと言われる。それら三者がそれぞれに要望を出し、三者三様それぞれが持ちつ持たれつだったからであろう。年功序列、能力主義、受験競争、「皆結婚」社会、性別役割・・・等々の社会的な制度や慣習が、こぞって日本の経済成長を支えたのは、確かな事実ではある。
しかし、明治以来の大日本帝国の政治体制や、とりわけ1930年から始まる日中戦争・太平洋戦争の主体的な反省が、アメリカの原爆投下や占領のどさくさに紛れて曖昧にされてしまったこととも関連して、戦後の「三位一体」と言われる「企業・学校・家庭」のそれぞれにも、無視できない問題が持ち越されていたのかもしれない。
その一つの発現が、それまでの貧困家庭の子どもたちの「長期欠席」とは異なる、子どもの「学校嫌い」「登校拒否」ではないだろうか。これは、現在にまでも続く「学校」そのものの問題である。
この子どもたちの現象は、1970年頃から問題にされ始め、1991年度にはそれまでの「年間50日以上欠席」を「年間30日以上欠席」と改められ、1998年の学校基本調査からは、「不登校」という呼び名に変えられている。2019年度の文科省調査で、小・中学生で18万1272人、高校生も5万100人、1998年以降で最多となっている(2020.10.23朝日新聞)。もっとも2020年度は、幸か不幸か、コロナの只中。詳細は未だ分からないが、不登校の子どもたちは高止まりのままのようではある。
他方、2000年代に入って、今度は「ニート」という言葉で、該当する若者が問題にされ始めてきた。「ニート」とは「NEET」つまり「Not in Education,Employment,or Training」=学校にも行かず、仕事にも就かず、また就学や就労に向けての準備活動もしていない青年(男女)のことである。ただ、今から思えば、これらの若者の存在は、1990年代後半から顕在しはじめた若者の「ひきこもり」とそのまま重なるものであったのであろう。
現在の「中高年のひきこもり」
1990年から現在は30年が経過した。「不登校」問題は、少子化社会であるにもかかわらず、恒常的な問題として大人たちを悩ましている。当初は、不登校児童・生徒への対応という目的も提示され、フリースクールへの公費補助も期待された「義務教育の機会確保法(略称)」(2016年12月)も、実態は「不登校」問題の解決に役立ってはいない。
一方、「若者のひきこもり」の方は、時間が経過した分、「若者」たちはそのまま「中高年」になってしまった。
現在では「中高年のひきこもり」が、親と子の年令そのままに「7040」「8050」問題と言われている所以である。
この問題を放置できなかったのであろうか、内閣府は、2019年3月29日、「40歳以上のひきこもり調査」を行っている。それによると、40歳から64歳までの「中高年ひきこもり」該当者は、推計で61万3000人(うち男性は7割以上)とのことである。一方、15~39歳の「ひきこもり(不登校も含む?)」は推計54万1000人と発表された。
親の年令70~80歳とは、まさしく団塊の世代を含めた私たちの世代である。事実、個人的にも、私の周りには「中高年のひきこもり」の例は珍しくはない。ただ、現在の親世代は、高度経済成長の恩恵をそれなりに享受している人が多く、しかも年金も授受できている。住宅は、一戸建て(持ち家)や公団住宅(買い取りあるいは借家)住まい。したがって、いまの所は一人くらいの息子や娘が「ひきこもり」状態で同居していたとしても、経済的にはさほど困っている訳ではなさそうである。子どもが幼かった頃に与えた「子ども部屋」にそのまま同居を続けているだけだからである。
しかし、70~80歳の親たちは、次第に焦り始めている。「私たちがいなくなったら、この子?!はどうなるのだろう・・・?」と。
実際にも、2019年6月には、東京都練馬区で、元農水事務次官であった父親(76歳)による長男(44歳)殺害事件が起こり、また、最近の朝日新聞では、自称?自立支援業者「引出し屋」による暴力的な連れ出し、施設での監禁、さらには最終的な餓死という結果までも報道されている(2021年2月)。
もっとも、親たちだけでなく、実は「ひきこもっている」当人自身が、誰にも相談できないまま、一人で悩みを抱えているのかもしれない。「ひきこもり」のドキュメントやドラマも少しずつ放映されてはいる。しかし、いま、私たちは何を為すべきなのか・・・正直な所、頭を抱えるばかりである。
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20年前の論評からのヒント
そんな悩みを抱えながら、ふと手にした2冊の本。
吉本隆明『ひきこもれ―ひとりの時間を持つということ』大和書房、2002
田中千穂子『ひきこもりの家族関係』講談社α新書、2001
偶然ながら、2冊とも、今からほぼ20年前の出版である。20歳から30歳の「若者たちのひきこもり」についての論評である。そんな昔の古い本を今さら・・・とも思いながら、しかし、20年前に何が語られていたのか、私たちはそれをどの程度聞き入れ、考えてきたのだろうか、本当は、それからの20年間、実はほとんど何もなし得ないまま、いたずらに時間だけを費やしてきたのではないだろうか、そう思いつつ、2書の内容を改めて振り返りたいと思ったのだった。
まず、吉本隆明。『言語にとって美とは何か』『共同幻想論』などの難渋な哲学的著作の著者ではあるが、「ひきこもり」を悩んでいる者に対して、「ひきこもれ」とは何だ?この図書が出版された時は、彼は78歳。享年は87である。そろそろ吉本隆明も老いてきたのか・・・と思いつつ、彼の言葉を引用しよう。
― 「ひきこもり」はよくない。ひきこもっている奴は、何とかして社会に引っ張り出したほうがいい―そうした考えに、ぼくは到底賛同することができません(p.19)。
― 問題は、親が子どもにどう接するかではなく、親自身の心の状態がどうであるのか、ということなのです(p.86)。
ここで、吉本は、「ひきこもり」の問題とは、当の子どもの問題以前に、子どもに関わる親自身の問題である、と言っている。何と、ここで、次の田中千穂子の論評と見事に重なってしまうのである。
― 「ひとりの世界」の重要性・・・過剰で不適切な親による、中途半端なのめりこみの世界のなかで育った結果、子どもたちの心のなかには健康な「ひとりの世界」が育っていません。・・・今の子どもたちは、自分を守る「ひとりの世界」そのものが育っていないのです(p.146)。
― 自分の心の欠損感から、子どもたちを過剰に守ろうとした第二世代の母親たち(注:戦後の第二世代)は、子どもが傷つく機会を遠ざけてしまい、その結果、心ならずも挫折から立ち直る体験、傷つきを修復していく力を育てる機会をも奪ってしまったように思います(p.139)。
― 小さな傷を修復することができずに大きな傷に立ち向かうことなど、できるはずはありません。ストレスを受けないままに子どもが心理的に成長していくことなど、あり得ません(p.153)。
― 対話する関係の貧しさは、親と子の間に限らず、夫婦の間にも起こっているように思います(p.184)。
以上のように、吉本隆明も田中千穂子も、家庭や学校における子どもの「ひとりであること」の重要性を強調する。子どもの育ちとは、傷つきストレスを感じながらも、そこから立ち直る体験をすること、したがって、周りの大人たちは(親も教師も)、最小限の支えを保持しながらも、ひたすら見守ること、それこそが重要な役割だという。
一人ひとりが「ひとりであること」を尊重されない所では、他との「関係性」の根っこが腐って行き、「対話する関係」自体も育って行かない、と田中は重ねて強調している。・・・こんなことは言われるまでもない!と笑われるだろうか。しかし、子どもや人が育つ場である「学校」や「家庭」の勘違いは、やはり大きな問題なのだと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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