古代中国史を逍遥する(4)
- 2021年 3月 28日
- スタディルーム
- 合澤 清
参照文献:『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』平勢隆郎著(講談社:中国の歴史02 005)/『黄河の水』鳥山喜一著(角川文庫1963)/『新十八史略』駒田・常石ほか著(河出文庫1,2 1993)…[上からそれぞれ、『シリーズ02』、『黄河』、『史略』と略記]
黄河の氾濫と夏王朝
つい最近まで、中国最大の大河は、長江(揚子江)であるといわれてきていたが、最新の調査の結果、黄河が第一の大河であると変更されたそうである。鳥山喜一『黄河』によると、古代、河(か)とか河水と呼ばれて、川の代名詞とされてきたのがこの黄河であり、河の水が流域の黄土層を溶かして黄色に濁っているため、後世になってこういう名前が付けられたようである。
この流域の河南省仰韶遺跡(B.C.4000頃)からは新石器時代のものが発掘され、その人骨は現代の漢族のそれによく似ているといわれる。この黄土地帯はその地質のため、ヨーロッパ大陸のような深い森林でおおわれることがなく、開墾がしやすいうえに、黄河の水を利用して肥沃な耕地を形成するのに適していたため、早くから農耕文化が発達したようだ。この時代の人々は、竪穴住居に住み、狩りをし、家畜を飼い、農業を営んでいたというから、相当に進んだ文化生活をしていたことになる。
古来、黄河の氾濫は有名である。伝説上の聖帝である、堯や舜もこの黄河の氾濫にはさんざん悩まされたようだ。堯の晩年に黄河が大氾濫したので、鯀(こん)に命じて治水にあたらせた。鯀はその性きわめて剛直だったようで、その気性そのままに、あふれる水をふさぎ(陻)、遮る(障)ことに意を尽くしたが、氾濫は一向に治まらなかった。それで、鯀に代えてその子の禹にうけつがせた。禹は陻と障に変えて疏(水を通すこと)と導(みちびくこと)というやり方でこれに対応した。『史記』によれば、禹は洪水をおこさせる地形に注目し、逆に水利を活用して土地を開墾するという大事業を行ったという。そうして開墾された広大な土地は「禹域」と呼ばれている。「柔よく剛を制す」ということであろうか、禹は父親と違って勤勉で穏やかな性格だったといわれている。
この禹によってつくられた王朝が夏王朝で、B.C.2000頃と伝えられている。しかし、『シリーズ02』によれば、「夏王朝の時代はまだ文字が発見されていないため『分らない』」という。「春秋時代に広域的な漢字圏が出来上がり、戦国時代に新石器時代以来の文化地域を母体として領域国家が成立する。それぞれの領域国家は、自らの国家領域を含む地域を特別地域と規定し、天下の残りを野蛮の地とした。特別地域を意味する言葉としては、『中国』や『夏』などが使われた。・・・『中国』はもともと周王朝の王都を含む一帯をさす言葉である。それを別の地域を特別にみなす国家が用いたりしている。国家ごとに『中国』が指す地域が異なっている。『夏』は夏王朝にちなんでつけられた名称である。戦国時代の国家が異なると、『夏』とされる具体的地域も異なってくる。夏王朝がかつてどこにあったかも、良くわからない状況が出来上がっている。」
しかし、平勢隆郎の上掲本によれば、中国での発掘調査は近年になって大いに成果を挙げているようだ。当然、それにつれてそれまでの伝承、伝説の見直し・解読も進展する。例えば、戦国時代の魏国の年代記『竹書紀年』と同じ墓から出土した『逸周書』(周の記録)は、春秋時代の晋に継承され、更に戦国時代の魏に継承されて出来上がったものと考えられるという。
「戦国時代(下剋上の時代)の諸国家は、権威を直截継承する相手として周王朝をあげた。但し、ある国では周王朝の最初を、また別の国では再興された時期を選んだ。
王たちの多くが、春秋時代までは国の臣下であったため、革命の論理が必要になった。摂政が血縁原理ではなく、王の徳によって判断した。
この摂政の時期に利用されたのが、周の成王の摂政だった周公旦と召公奭(しょうこうせき)の例、また周の厲王を追放(宣王が養育され厲王は引退状態におかれた)し、その子を立て、召公と周公(前二人の子孫)に補佐させたため「共和」と号した、という『史記』周本紀の説明である。しかし、戦国時代の魏国の年代記『竹書紀年』によれば、「共和」は人名であり、「共伯和」という政権を担った人物をさしたという。西周時代の青銅器銘文でもその人物は確かめられた。」
司馬遷の『史記』といえば、中国史研究の「聖典」のように扱われてきた古典中の古典であるが、それすらも再読検討され修正のやむなきにいたっているようだ。ここでは発掘調査による新たな発見を基にした古代史の読み替えという点に限って問題にした。しかし実際には、われわれの歴史意識の変化、それは時代の変化でもあるが、それに応じて当然歴史観も変転しうる。客観的で、絶対的な歴史などはどこにもないのである。
「キリスト教の根本理念に関しては、一方で次のような歴史上の問題がある。時代が異なればこの理念も違った捉え方がなされる、今(フランス革命の時代において=筆者の註)、われわれは再びこの理念について特別なイメージを作り上げている」(ヘーゲル『哲学史講義』より拙訳)
金石文の研究といえば、日本では白川静の研究が有名である。恐らく、紙と印刷技術が未発達な(あるいはなかった)時代にあっては、石や青銅器、鉄器への彫刻(刻印)が何らかの記録を留める最高のやり方だったのであろう。しかも、伝説や伝承にその残滓が見られるように、古代中国社会はアニミズム的な自然崇拝社会であり、祭祀が重んじられ、巫女による卜占(甲骨文字)などが幅を利かせていたと思われる。当然「神秘なる文字」は、祭祀に多くもちいられることになったと考えられる。
「漢字を各国は祭祀用に用いていた。まだ、官僚による地方統治、文書行政は始まっていない。漢字は、第一に都市国家の文字であった。それが国同士の関係を示す文書に使われるようになる。文字のない時代から、神に祈る行為を通して、互いの関係を確認し、違反行為を抑制してきた。この互いの関係を確認したのがいわゆる盟誓である。盟誓内容を証拠文書として残すようになり、この運用法が基礎になって後に中央から地方への文書下達が出現(文書行政)する。官僚による地方統治の始まりである。」
「金文(青銅器銘文)から、西周王朝代々の王の年代が復元できる。暦については、二十四節気(戦国時代から使われ出した)に準じる方法(月の満ち欠け=月相)が使われていたが、二十四節気の登場とともに消滅した。」
「四川省でも「大国」が独自の青銅器文化を華開かせている。その一つに三星堆(さんせいたい)遺跡があるが、無文字故にその実態は分らない」(以上『シリーズ02』)
「倉頡はじめて文字を作る」
これは、後漢の学者・許慎(きょしん)の言葉で、「倉」とは創作の創(はじめてつくる」の意味、「頡」(けつ)とは、「頭のかっちり詰まっている」という意味である。つまり、倉頡(そうけつ)とは、「頭のかっちりと充実した賢い創作者」という意味の普通名詞で、文字の開祖を象徴した言葉に過ぎないという(藤堂明保『中国名言集』上)。もちろん、中国の伝説では、倉頡は黄帝(五帝の筆頭)の時代の人で、鳥や獣の足跡を見て文字を作ったことになっている。
「文字はもともとはなはだ政治的な道具だ」と藤堂は言う。そして次の中国の古い諺の由来を紹介している。それは「文字あらわれて鬼すすり泣く」というものである。後で触れるように、多少史実的には問題があるかもしれないが、ここでは藤堂の説明を仮に受け入れておきたい。
殷の最後の王である紂王が即位したころ(前1067年頃)「何万の軍を動かし、奴隷を血祭りにあげ、毎日のように王の安否を占い、それを記録しておく・・・そのころになって、初めて『文字』が権力支配の道具として、王朝で利用され始めたのだ。権力というものは、人間が文明社会を作るときに生まれる『必要悪』なのである。文字もまた文明の産物でありながら、権力の仕組みを麗々しく飾り立て、権威を押し付ける道具に使われる。・・・『文字がつくられたとき、鬼(人だま)が忍び泣く声が聞こえた』(『列子』)という。権力という悪の根源と文字との腐れ縁を、庶民の鋭い目が抉り出している諺である」。
文字と権力との関係という点にアクセントを置いた読み方は、さすがに東大闘争で「全共闘支持」を表明した藤堂教授の面目躍如たるところであろうか。
しかしながら、それにしても「文字」の持つ威力はやはりすごいものだと私は思う。文字の普及によって社会機構が根底から変革されている点、このことはやはり瞠目すべきことだと思う。
鳥山喜一は『黄河』で文字について次のように説明している。
「今残っている一番古い形のものは、・・・殷墟から出た(文字であるため)殷墟文字とか、亀の甲や獣の骨に刻み付けられているから、甲骨文字などと呼ばれています。・・・これ(らの文字)から後の漢字の字体が生まれてきます・・・青銅器などに刻まれたのが大篆(だいてん)、その簡単になったのが小篆(あわせて篆書といいます)、それから隷書となり、漢の時代には今の楷書が作られたのです。」「なお漢字はその組み立てと、使い方から見ますと六通りになりますので、それを六書(りくしょ)といっております。」
もちろん、周知のことだと思うが、六書とは、「象形」「指事」(上、下など)「形声」(一方はその意味を、他方はその発音を指す)「会意」(二つ以上の文字を組み合わせて一つの新しい意味の文字としたもの)「転注」(本来の意味を広くして用いるもの)「仮借(かしゃ)」(鳴き声とか音を表すために、その発音に意味を持たせる使い方)のことである。
漢字圏の出現で「国」という体制(官僚制、法令)がつくられる
文字について今まで述べてきたことを、平勢隆郎の『シリーズ02』を参照しながら再検討し、今回の報告を締めくくりたいと思う。前回までの報告と多少重複するところのあるのはご寛恕願いたい。
漢字と思しき文字跡が殷墟から多く発見されたことは、少なくとも漢字圏がこの地域にあったことを物語っている。
「殷王朝後期(前14世紀-前1023年)の遺跡から、大量の刻字甲骨が発見された。研究の結果、その刻字は漢字の祖先であることや、その特徴から五期に分類できることなどが解り、殷王の系図も復元されて、それが『史記』に見えるものとほぼ同じになることが確認された」。しかしながら、前にも触れたことであるが、広大な中国大陸のほかの地域では、「漢字以外にも、原始的な文字が出土してきている。…最初に漢字を作り出した都市がどこなのかは、まだわかっていない」という。「殷に漢字を伝えた国はどこか、殷や周からほかの国にどのように漢字が伝えられたか、」このことも「まだよくわかっていない」そうだ。
「甲骨文や金文(きんぶん)は殷や周の立場からの記事が記されている。殷・周以外の各国の状況は、殷・周の立場から推測するしかない。記述も零細である。『分らない』ことが多い」。今後の発掘調査の進展とあわせて、中国古代史のこれからの研究成果に大いに期待したいところである。
以下では、<広域的漢字圏の出現⇒盟書の出現(前5世紀初め、山西省侯馬の晋国遺跡で発見された侯馬盟書)⇒盟書から法令へ>という歴史の流れに注目しながら、次の引用(表現などは多少変えている)を読んでいただきたいと願う。
「漢字が最初は都市の文字であったといういわば当然の事実。殷の文字であった漢字は周によって継承され、やがて諸侯国に広がり、天下に広がった。系譜資料の残り具合や諸国君主の在位年代記事などからみて、漢字圏が一気に広がったのは春秋時代である。西周時代までは、漢字圏は広域的とはいえぬ部分的なものに止まっており、そのため、周以外の系譜資料にあっては、具体的年代をもつ記事が著しく欠けているのである。
その漢字が戦国時代の文書行政開始とともに、その性格を一変させたこと。都市の文字としての漢字は、祭祀の道具である。文書行政が始まると、文字は行政の道具となる。そして史書が出現する。祭祀は都市国家の祭祀である。文書行政は領域国家の中央と地方を結ぶものである。だから史書は領域国家のことを論じる。都市国家の理念を語ってはいない。領域国家は新石器時代以来の文化圏を母体として成立する。だから、史書はその文化地域を特別に位置づけ、天下の中を語る。天下は漢字圏である」
「春秋時代は…広域的漢字圏の形成という画期的な意味をもつ時代である。…戦国時代には、鉄器の普及がもたらした社会構造の変化が基礎になって、官僚制度が定着する。それぞれの文化地域ごとに、一つないし二、三の領域国家が形成され、それぞれに中央から派遣された官僚が、かつての「国」を統治するようになる。文字は官僚制度を支える道具に変身した。その制度を支える法体系、いわゆる律令も次第に整っていった」
「戦国時代になって文書行政が本格化すると、この共通の表現は官僚たちの共通の財産となった。いわゆる漢族、つまり漢字漢文を共通の財産とする民族は、この時に出来上がった」
「民族国家」の基礎が出来上がった、と言ってもその後の中国史を見ればわかるが、実際には決して漢民族の単一国家ではなく、むしろ極めて雑多な諸地方民族がせめぎ合い、混じり合いながら、少しずつ統一文化圏を作り上げていくというのが実情ではなかったか。(注)
しかし、共同体をなして生活・生存する人間にとって、言葉(音声的な記号)から文字への進展が果たす役割は極めて大きなものであったことがわかる。特に共同体が拡大するにつれてその重要性は決定的なものになる。小集団の間の約束が文書化され、やがて法にまで発展することになる。もちろんそこには共同体内部の組織構成の複雑化し、それをまとめるための文書行政が開始され、官僚制度が形成されるなどの事情が重なってくる。藤堂が指摘したような権力が派生することになる。共同体を構成する個々の構成員(民族)からすれば、このような社会編制は効率よく便利である反面で、窮屈な制約を外部(権力)から無理強いされ、自己(民族)と共同体との間の隔絶が広がるばかりである。
「きれいは汚い、汚いはきれい」と謳いながら踊るのは森の中の三人の魔女(シェイクスピア『マクベス』)であるが、文字(漢字)の発明と普及=人間社会の発展には、それに伴う反面のむなしさ(「便利は不便、不便は便利。善きモノは悪しきモノ、悪しきモノは善きモノ」)がたえず付きまとう。
(注)例えば、「五胡十六国」(B.C.304-439の間の136年間で、五胡とは匈奴、ケツ、鮮卑、氐、羌の諸族)といわれる時代。端的にいって五胡諸国家の王権は、一君万民的な構造によって成立していたわけではなく、王族や部族長によって率いられた諸集団の連合の上に成り立っていた。前秦はそうした構造をもつ氏族集団を核として、その外延に同様の構造をもつ匈奴や鮮卑の集団、更に諸豪族に率いられる漢族の集団を含む連合国家として存在していたわけであり、王権がその権力を強化しようとしてもその十全な成長を阻害する要因が数多く存在していた。(『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』川本芳昭著 講談社:中国の歴史05 2005)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1163:210328〕
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