ミャンマー/非暴力抵抗運動と武装闘争のはざまで
- 2021年 5月 16日
- 評論・紹介・意見
- ミャンマー野上俊明
<クーデタ以後100日>
軍事政権の弾圧と自身が闘いながら、NGOのAAPP(政治犯支援協会)は果敢に国民的犠牲の数字を国内外に日々明らかにし続ける。その数字は、軍事政権の残忍さ、非人道性を暴露するとともに、国民の勇気と犠牲を表すものになっている。それによれば、5/8現在、クーデタ97日目にして、死者776人、拘束者4,885人、そのうちなお拘留中の者3,813人にのぼるという。他のメディア(DW)によれば、5/11現在で、86人が秘密裁判を受け、25人に死刑判決が下されたという。
これもまた闘うジャーナリズムの代表格であるイラワジ紙の論説(5/4)は、この一ヶ月余の国民的な大決起における民意の変化とその意義を次のように総括する。
「3月下旬以降、国内の多くの人々は、政権の残忍な弾圧に応えて、武力抵抗を支持して平和的な抗議の考えを放棄した。なんとしてでも軍部独裁を根絶するというこの決意は、この国の人種的および宗教的に多様で、地理的に拡散している国民を統一させた」
要するに、非暴力抵抗運動から武装抵抗への民意の転換、そして強大な敵を倒すためモザイク的分断国家の負の遺産を乗り越えて、国民の間に連帯・団結・統一の機運が熟しつつあるというのである。1988年以降の民主化運動では、ガンジーやキングJr牧師の非暴力抵抗運動の理念を踏襲したと思われるスーチー氏のリーダーシップに先導されていた。それは国際社会の強い共感を引き寄せる理念ではあったが、実践的には軍部独裁に完全に封じ込められ、抵抗運動は窒息状態にあったことと裏腹の関係であった。つまりガンジーやキングJR牧師の場合とちがって、「非暴力主義」はミャンマーでは「力なき正義」の裏返しに過ぎなかった。しかしこういったからと言って、1988年以降の苦難の二十数年下、スーチー氏が国民を内面的に鼓舞し、圧制への抵抗を持続させた精神的源泉であった功績は何人も否定しえない。
しかし2・1クーデタは、NLD政権を打倒しただけでなく、民主化運動に硬い縛りをかけていた2008年憲法体制をも破壊した。そのため半文民政権の下で、一定の経済発展と社会関係の限定的自由化・民主化によって育まれてきた新しい社会意識や正義感覚は、クーデタに激烈に反応した。それはただちにミャンマー全国土を揺るがす地殻変動を呼び起こした。労働者・農民・漁民・畜産業者・自営業者・都市中間層、少数民族・ビルマ族・華人・インド人、仏教徒・イスラム教徒・キリスト教徒・ヒンズー教徒等々、あらゆる属性をもった人々が、反クーデタ運動のるつぼに吸いこまれ攪拌された。そこで生じた激しい社会的流動性が、モザイク国家の差別と分断の仕切りを乗り越え、国民のあいだに融合とまで言えないにせよ、社会連帯や社会的きずなを復活ないし新生させた。
これに対し、クーデタ政権はネーウィン時代とタンシュエ時代の成功体験にもとづき、国民を恐怖で震え上がらせるべく徹底的に残忍な方法で弾圧を繰り返した。しかし軍部の致命的誤算は、国民がもう軍部独裁時代の精神的に委縮したおとなしい国民ではないことにあった。特に先陣をきったZ世代の若者たちはそうではなかった。くわえて外資とともに導入されたデジタル社会化が、若者にインターネットやSNSといった武器をあたえることによって、以前では考えもしなかったような瞬発性、機動性、柔軟性、伝播力を街頭行動にもたらした。しかしそうはいっても若者たちに強いられる犠牲は、並大抵のものではなかった。若者らは一方的な武力弾圧と死を甘受してなお非暴力を唱えるほどお人好しではなかった。闘争の論理的必然として若者たちは自己武装し、敵の暴力から自分たちと運動を守ろうとしたのである。
そのとき思い出されたのは1988年の経験であった。同年9月、国軍の反革命クーデタによって追い詰められたビルマ人学生組織は、タイ国境やカチン州に逃れ、そこに本拠地をおく少数民族組織である「カレン民族同盟」やカチン独立組織との連携を図ったのである。しかしこのたびは前回とは規模の点だけでなく、政治戦略的に自覚的である点で異なっていた。軍事政権に対する併行政権である国民統一政府(NUG)自身が、少数民族諸組織と共同で統一国家をつくり上げる連邦民主国家構想を打ち出し、近い将来の「連邦国家軍」創設を視野に入れて、5/5「人民防衛隊」の設立を公約した。つまり軍事政権の残虐なテロルに対し、政府自身が自己武装をもって国民の生命財産を守ることを宣言したのである。
国軍の愚かなクーデタが、半年前ならだれも考えつかなかったであろう政治戦略――ビルマ族と少数民族との連携・融和・統一をめざす―を現実化させた。そのおかげで次のことが可能となった。少数民族組織の本拠地が、活動家が弾圧から一時的に退避するシェルターや住民が避難するアジールとして活用されること、若い活動家に軍事訓練を施し武器を供与すること、場合によっては少数民族の武装組織が平地に下りて、運動を武装援護すること、国軍の強力部隊を辺境地帯に引き寄せて陽動作戦を行ない、平地の運動を間接支援すること等々。ただ本拠地は居住区と一体なので、国軍の激しい報復空爆や掃討作戦を受け、一般住民に被害が出る危険性がある。タイ政府とミンアウンライン将軍との親密な関係から、かつてとはちがって越境しての難民流入を許さない恐れもある。この11日には、ミャンマーの記者3人と民主活動家2人が、タイで不法入国の疑いで逮捕された。国外追放処分となる可能性があると、ロイター電は伝えている。長く反体制派ミャンマー人にチェンマイなどに避難所を提供してきたタイ政府であるが、かなり雲行きが怪しくなってきている。
若い反クーデタ運動経験者(男女)が、KNLAカレン民族解放軍や元国軍兵士から軍事訓練を受ける ロイター
3月下旬から5月初めにかけて、イラワジ河流域の平地地帯での街頭行動やCDM(市民的不服従運動)に呼応して、カチン州、カレン州、シャン州北部、チン州などの山岳辺境地域で激しい衝突が繰り返されている。そのなかで以前私が推量したように、国軍にある種異変が起きつつある可能性がある。この間の少数民族武装勢力と国軍との戦闘では、ことごとく国軍が敗北しているのである。しかも打ち負かされているのは、精鋭で知られた第77軽歩兵連隊など国軍の主力部隊なのである。既報のように、カレン州ではこの1か月半の戦闘でカレン民族解放軍(KNLA)はカレン州194人の国軍兵士を殺害、220人を負傷させたという。KNLAの幹部は、70年間の内戦で今ほど大きな勝利のチャンスが訪れたことはなかったと、他の民族組織にも武装化を促しているという(「ドイツの波」5/7)。
国軍は20年ぶりにカレン族居住地域に空爆を再開したため、数千人がタイ国境に避難したが、越境はしなかったようだ。またカチン独立軍(KIA)の発表では、4月に大隊の司令官を含む300名の全員が戦死したとのこと(数字に誇張アリ?)。5/3には、報復の空爆に参加した国軍の武装ヘリがKIAによって撃墜された。おそらく内戦始まって以来の空軍にとっては屈辱的な出来事であろう。5/6にはマグウェとメイティ―ラの空軍基地が手製のロケット攻撃を受けている。
イラワジ紙などの地元紙によれば、国軍の被害の増大にともない、3月以降空軍を離脱してCDMに加わった将兵が、約80人に上ることが分かったという。一般に技術職の空軍は陸軍に比べ、給与、食事などの待遇はいいはずである。だとすれば、離脱・逃走の理由はもっと精神的なものであろう。国軍の敗北の背景に、将兵たちの士気の低下や作戦指揮・補給兵站の機能低下があるのではないかという私の見立ては誤ってはいないように思う。いかに情報遮断や情報操作を行なって将兵の洗脳に努めようと、情報化社会においては市民社会からの影響を受けざるをえない。民主派と少数民族組織の勝利のためには、国軍の士気(モラール)の低下や内部分裂が必須の条件である。国軍を切り崩すための高等戦術の開発は急がれるゆえんである。
カレン州ティムハのサルウィン川近くの国軍の前哨基地を奪取、左は国軍捕虜 イラワジ紙
<抵抗住民やその他の民族組織の動き>
いずれもイラワジ紙など地元メディアによると、クーデタ後20ほどの少数民族武装組織のうち、この10年間で政府との停戦協定に署名した半数が国軍との停戦協定を破棄し、武装闘争を再開したという。アラカン民族党(ANP)はいったんは国軍の統治評議会(SAC)に加わったのであるが、3か月後の現在軍事政権との関係を断つ方向にあるという。インドと国境を接するチン州では、クーデター体制と戦うために先月初めに結成されたチンランド防衛軍(CDF)が、狩猟用ライフルを用いて、トラックでパコックから輸送中の増強部隊を待ち伏せ攻撃して10名ほどの国軍兵士殺害。引き続き交戦中という。カレン州に本拠を置くラカイン武装グループであるアラカン国民評議会(ANC)は、カレン民族解放軍(KNLA)と並んで、5月初めにミャンマー軍との戦いを開始した。カチン州では5月に入ってバーモ、モニンなど4か所でKIAと国軍が衝突、国軍戦闘機が自軍を誤爆して多くの死傷者が出た模様。同時期、マグウェ管区のティリン郡区でレジスタンス戦闘員と国軍が衝突して、双方に犠牲者が出ている。
サガイン管区インマビン郡区とカニ郡区の住民らは、4月初めに治安部隊の取り締まりに対し、トゥミー銃として知られる自家製の狩猟用ライフルで応戦したリ、軍用トラックに爆発物攻撃をするなどして激しく抵抗した。その後軍隊は町村に駐留し、地元住民の家や財産を破壊し、彼らの鶏や豚を盗むことによってこれらのコミュニティを恐怖に陥れている。森の中へ逃れた住民たちは、マラリアに苦しめられているという。昔、旧日本軍はフィリピンの戦場で、補給なしの戦いを「自活自戦」といって住民から食料を奪い取り、男手を軍の労務に狩り出して反日感情を悪化させたが、国軍は生みの親に見習っているのであろう。
サガイン・カニ郡区住民たちの村あげての抵抗。Myanmar Nowマンダレー・ミンジャン郡区―3度国軍を撃退
ヤンゴンやマンダレーなどの大都市でも、市民的不服従運動はいろいろ濃淡はありながら続いているという。電気や水道などの公共料金や税金を払わない運動、病院・鉄道・学校・銀行・官庁などの職場放棄が続いている。5月に入り、ヤンゴン大学やマンダレー大学をはじめとする全国の大学で1683名が停職処分を受けたと報道されている。国軍は全国で公立学校の再開を命じたが、教員のみならず学生も、独裁政権による奴隷教育は受けない、と登校拒否運動を展開しているー(ミャンマーでは新学期は6月から始まる。大学は5月から授業開始しているが、実質学生は集まっていないという)。
<中国の泣きどころ―パイプライン>
国連安保理でミャンマーへの制裁阻止に動く中国とロシアだが、その分ますますミャンマー国民の対中感情は悪化している。3月にはラインタヤ工業団地内の中国系企業の工場32か所襲撃されたり放火されたりしている。なかでも中国が神経を尖らせているのが、ベンガル湾チャオピューから雲南省昆明まで伸びる(ミャンマー国内770キロ)原油・ガスパイプラインへの襲撃をそそのかす文言がSNS上で飛び交っていることだった。その危険性は脅しだけで終わらなかった。5/5マンダレー付近のパイプライン・ステーション警備をしていた警察官が襲われ、3人が刺殺されたのだ。パイプラインはテロ攻撃に弱いいうことで中国は、軍事政権に対し警備を強化するよう申し入れていた。
中緬パイプラインの建設(中国側)―驚くほど原始的な工法 Wedge Report
<軍事政権の動き>
5/8軍事政権は、反クーデタ組織である連邦議会代表委員会(CRPH)と国民統一政府(NUG)に加えて、人民防衛隊をテロ組織と認定した。それに先立つ5/5国軍の最高意思決定機関「国家統治評議会(SAC)」が声明を発表し、地域単位で住民の各種手続きなどの業務を担う一般行政局(GAD)の管轄を内務省に戻すと発表した。スーチー政権のもとで文民がトップの連邦政府省下に移管する行政改革が行なわれたが、再び内務省傘下となり、名実ともに軍の監視や支配が強まるとみられる。これに伴い、軍部独裁時代と同様に当該世帯以外の他人を宿泊させるときは、いちいち役所に届けなければならなくなった。それにしても国軍の非常識、時代錯誤には恐れ入る。中国、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム、フィリピンといった新興国における支配者層の恐るべき非人権感覚、それは危機に際しては統治の暴力的体質となって現れている。
<非暴力抵抗運動と自衛武装・武装闘争のはざま>
少し前までスーチー氏にシンボライズされる非暴力抵抗運動へのミャンマー国民の共感と同意は不動であろうと、世界の大方はみていた。ところが2・1クーデタとその後の残虐不当な治安弾圧を経て、ミャンマー国民の意識は劇的に変化した。ひとつの例がある。民間の現地調査であるが、ミャンマーに進出する日本企業で働くミャンマー人の9割以上が、クーデターに抗議し業務を放棄する市民不服従運動(CDM)を支持し、国際社会による制裁を望んでいることが分かった。かつ国軍に対抗する連邦軍が設立されれば参加または支援したいとの回答も、9割近かったという(共同通信系NNA 5/4)。
非暴力抵抗運動への信認低下―圧倒的多数の市民が、武装自衛ないし武装闘争を是認する気持になっているのである。一方的な国軍の殺戮行為に対し、民主派政府を選んだ国民の総意を貫くためには武力の対抗行使をやむえないものと考えている。1988年世代に属し、1990年代初めに亡命地チェンマイで「イラワジ」紙を立ち上げたチョーズワモー氏は、当時非暴力闘争による民主化を主張していた。みなスーチー氏に倣って、民主主義の実現という目的には非暴力の、平和的方法が相応しいとしていたのだ。国際社会でも、ガンジーやキングJr牧師の信念との親近性が好意的に取り上げられた。ところが現在の「イラワジ」紙の論調や記事の扱いは、国軍への対抗武装に好意的である。少数民族組織による国軍との攻撃的戦闘に対しても、また平地での反クーデタ行動との軍事的連携に対しても肯定的に扱われている。
何がこの変化を促したのか。SNSで拡散された国軍の残虐非道な弾圧の実態が、全国民の我慢の度を越していたからであろうか。もちろんそれもあるであろう。しかし、あくまで推測の域を出ないが、ある種逆説が働いているのではないか。1988年は武器を手にすれば、完膚なきまでに叩き潰される怖れがあった。彼我の力の差は大きく、武器を手にすることは自滅を意味した。しかし今回の決起は、全国民あげての反軍反独裁闘争となった。犠牲は大きいが、勝ち目のある闘いとなっている。したがって戦術的に武力を行使すれば、敵の弾圧を無力化させ、民主主義・平和・人権の体制に少しでも早くたどりつけるという思いがつよいのではないか。
そうした世論に後押しされながら、影の内閣である国民統一政府は、5/5「人民防衛隊」を設立したと明らかにした。国民運動に対する国軍の死の攻撃から支持者らを守るのが目的としており、今後の連邦軍の創設に向けた行動であり、「70年にわたる内戦を終結させるため、安全保障における効果的改革を実現させる」責務があると説明されている。
一国における政治・社会改革がどのような形態をとるかは、あくまで当該国民の自由と責任に属することである。したがって第三国の我々がそれについてとやかく言う問題ではないかもしれない。ただミャンマー国民の必死の闘争に共感し支援もする立場から、いくつかの懸念事項を指摘しておきたい。
ガンジーの宗教的信念からくる非暴力原理主義は、味方の犠牲を最小限にとどめようとするところから生まれたものではない。敵のいかなる残忍な攻撃に対して、非暴力の立場を貫くことはかえって犠牲を大きくする場合もありうるとガンジー自身述べている。ガンジーによれば、非暴力そのものに価値がある。暴力を手段とする場合よりも、ずっと道徳的な価値があるから非暴力を選択する。植民地支配からの解放といった崇高な目的にふさわしい手段として非暴力が選択されるとするのである。
ガンジーの非暴力絶対主義について、あるとき鶴見俊輔が次のように言ったことある。「ガンジーの訴えに効果があったのは、相手がイギリスだったからではないか。相手がナチスや日本軍国主義だったら、ガンジーも態度を変えたのではないか」、と。たしかにあのサッティヤーグラハの代表的な成功例である「塩の行進」に対して、イギリスは禁止や弾圧の措置をとらなかった。ナチスや「皇軍」なら行進を阻止するために大量殺戮をいとわなかったであろう。その場合、美しい非暴力の原理ということばだけが残って、大量の尊い人命が失われることになったであろう。しかし戦争犯罪や人道・平和に対する罪が横行した戦争の時代に、ガンジーが掲げた非暴力絶対主義という理念は、人類の倫理的準拠点としての意義はこれからも失われることはないであろう。ただ政治の世界は世俗的な相対性の領域であり、宗教の絶対性の世界とはちがって「よりまし、より悪い」の規準で判断し行動するところであることも忘れてはならない。
新しい抵抗運動のかたち―フラッシュモブ=自在な離合集散 DW
さて、敵のにせよ味方のにせよ、武力(暴力)とどう向き合うかは、現下のミャンマーでは本質的かつ喫緊の課題である。そのことを十分自覚しているのであろう「国民統一政府NUG」は、5月初め、「人民防衛隊」の発足と同時に国防省の基本原則を発表したのであろう。それによれば、民主主義の規範と人権、ならびに平等や自己決定などの連邦主義の中心的な価値観に沿って、制服組の活動を文民政府の徹底した監視の下におくことが述べられている。それは民主主義を標榜する政府にとってはいわば当然のことであろう。いまはその当たり前のことの言外の意味が重要である。つまり新国防軍は現在の少数民族武装勢力と「人民防衛隊」が合流して構成されるものとNUGが考えているのだとすれば、基本原則は国防軍に先んじて「人民防衛隊」の活動にまずは適用されるべきであろう。NUGは現在自然発生的に各地でできつつあるかに見える「人民防衛隊」に文民統制を及ぼして、それらが暴走しないようグリップを効かせたいのではなかろうか。
NUGが文民統制に込める思いには歴史的背景がある。アウンサン将軍の時代からミャンマーの独立運動史を特徴づけるのは、軍事の政治への優位であり、とどのつまりは1962年の軍部による政府の乗っ取りであった。この負の遺産を清算しなければ、ミャンマーの民主的な近代国家の本格的な道筋は描けない――これが民主派勢力というか、国民全体の強い思いなのだ。
そのことを頭の隅におきつつ、ここではNUGの描く国防軍創設への戦略を問題にしたい。NUG構想では、「人民防衛隊」は将来の正規軍に発展すべきものと考えられているのだが、どうもそこに一種毛沢東流の発展理論を感じ取ってしまう。「人民防衛隊」が、遊撃隊へと成長し、やがて正規軍へと統合される。しかしそもそも毛沢東戦略は、広大な中国国土とゲリラ戦をバックアップする革命の根拠地を成功の条件とした。土地革命(封建的大土地所有の解体と農民への土地の分与)によって農民を味方につけた共産党は、国民党の支配の及ばない辺境地域に解放区を作り、軍隊の出撃拠点とした。大都市では、すでに蒋介石の1927年4月の上海クーデタ以来中国共産党は足場を失っており、労働者革命というシェーマに固執するコミンテルンも次第に影響力を後退させていった。こうして農村から都市への包囲戦略という、中国独特の毛沢東戦略が成立する。
しかしミャンマーに毛沢東理論を適用できる条件はあるのだろうか。それはすでにビルマ共産党の武闘路線の失敗(1989年に消滅)によって証明済みではないのか。しかり、イラワジ河流域の中央平原は広大な農村地帯とイラワジ・デルタとバゴー山系をかかえているが、最近まで軍部による武断統治がいきわたっていて、反体制派が拠点にできる空間は存在しなかった。補給兵站・休養・兵士徴募・軍事訓練等を保障する根拠地空間をここに設けることは不可能であったし、いまなお不可能であろう。したがってそのことを考慮すると、「人民防衛隊」が、国民の生命財産の防衛やCDMの防衛という域を超えて、軍事的に突出することには多大な犠牲をともなうであろう。平原部で発展的な軍事戦略を構想し、軍事作戦を持続可能にする条件はほとんどないと言っていい。インド、中国、タイ国境地帯の各少数民族の武闘は、辺境山岳という条件でのみ可能なのであって、地の利のない平原地帯では正規軍の敵ではなかろう。
しかし軍事的に国軍に勝利する戦略を思い描くことはできなくても、政治的にはそうではない。このたびの反クーデタ不服従闘争で示された国民の勇気と行動力は、行政・金融・産業・運輸通信・貿易等の諸機能を半ばマヒさせ、軍事政権に深いダメージを与えている。街頭行動も犠牲の多い国軍との正面対峙を避け、サイレント・デモやフラッシュモッブという創意あふれる形態で復活しつつある。これからは運動のエネルギーを持続可能なものにするためにも、陣地戦への転換が必要であろう。イメージすれば、ベトナム戦争時地上戦を支えた地下壕と地下トンネルのネットワークである。辺境地帯に大きな根拠地をつくるのではなく、農村でも都市でも政党であれ、大衆組織であれ、組織化を進め、(合法、非合法の)多極的な小さな抵抗拠点をつくって、ネットワークで結ぶのである。組織化にはSNSは有効な手段であるが、SNS自身が組織化という恒常的な人間関係の構築をしてくれるわけではない。face to faceによる説得と同意調達の労は、デジタル化社会でもショートカットすることはできない。その場合、軍隊や政党に典型的なピラミッド型組織形態とフォーラム型、ネットワーク型のフラットな組織形態との嚙み合わせがどうなるのか、いずれにせよ実験的要素をも含む新しい試みとなるであろう。しかしだれが全体の司令塔になるのか、新しい情勢が要請する新しい任務に応えうる能力ある指導者の問題は、依然重い課題である。
釈迦に説法めくが、民主主義の実現にとって、文民統制つまり軍事に対する政治の優位性がなぜ大切か、確認しておきたい。この場合、政治というのは主権者である国民が、その選ばれた代表者を通して軍事に関して判断し決定する行為をいう。軍隊は戦闘集団の特質として、一般的に厳格な中央集権制、鉄の規律や上意下達の指揮系統を必要とする。また軍事情報は高い機密性を必要とする。またジェンダー差別も軍務の性質上生まれやすい。ところが民主主義は、個人の自由や人権の尊重が基礎となっており、利害関係者による、十分な情報を与えられたうえでの話し合いと決定を重んじる。したがって民主主義の実現を目標にして軍事的手段を用いることは一種の背理となる。この背理を回避するためにも、極力軍事の占める割合を減らしていく必要があるのである。さらに今言った一般論だけでなく、ミャンマーの特殊事情がある。王朝国家から植民地を経て軍部独裁に至る歴史過程で培われた「暴力支配」の精神風土化である。法の支配ではなく、力を正義とする独裁支配が雛型となって、日常生活の隅々まで暴力が入り込んでいる。※これは表面的な「微笑みの国」しか見ない観光客にはわからない影の側面である。社会の軍事化は、この悪しき暴力の伝統を助長強化するであろう。
※貧困家庭では家族のために長女が苦界に身を沈めることが当たり前視されている。これはすざましい暴力DVであろう。
政治と軍事との関係論にかんして、先日恰好の応用問題が提出された。「カレン民族解放同盟」のムトゥセイポー議長が5/10日付で(個人)声明を発表。「2021年に発生した政治問題を武装して解決する努力を見るのは悲しいことである。政治的問題は、交渉という政治的手段を通じて解決する必要がある」と述べ、KNUが国軍との政治交渉を継続し、全国停戦協定の原則を支持するとした。これは仰天の発言である。配下の軍事組織が国軍と激しい戦闘を繰り広げているときに、戦闘は止めて政治交渉を再開した方がいいと発言したのである。これは国軍にとって渡りに船といえる行為であるが、どうも議長とミンアウンライン最高司令官は停戦交渉の過程で信頼関係を築いてきたという事情があるらしい。
それはともかく、議長が「政治的問題は、交渉という政治的手段を通じて解決する必要がある」というのは、なるほど一般論においては正しいというか、望ましいことではある。しかし現下のミャンマ―情勢を考慮すれば、それは味方に武装解除を勧めるものであり、政治的にも軍事的にも窮地に陥っている軍事政権に救いの手を差し伸べる行為でしかない。民意によって合法的に選ばれた政府を武力をもって打倒し、反対するものを無慈悲に武力で弾圧したのは国軍なのである。不当な暴力を行使したのは国軍側であるのだから、話し合いをいうのなら、まずその暴力行使を中止するところから始めなければならない。スーチー氏をはじめとする不当逮捕者の釈放、不当弾圧の中止は、政治的交渉の場を設定するための最低条件であろう。軍事政権が武力弾圧を続ける限り、反対勢力は正当な抵抗権の行使として武力を用いてでも弾圧から身を守ろうとする。今回のようなクーデタの正当化は、国軍がつくった2008年憲法によってすら法理的に無理がある。したがって少数民族との和平交渉を成立させている2008年憲法の枠組み―文民政府・国軍・少数民族の関係三者―を国軍が一方的に破壊した以上、政治交渉はご破算になっており、当事者にその意思があればの話だが、改めて交渉の枠組みづくりから始めなければならないのである。したがってまだしばらくは膠着状態が続くと思われるが、その水面下で民主派政府がどの程度少数民族諸組織との連携やCDM不服従運動の再組織化で力をつけられるのか、その程度いかんが鍵となるであろう。さらに「内乱」の長期化による経済破綻は、現時点で国民世帯の50%に及ぶといわれる貧困層の急速な増加をみせている。コロナ禍での食料供給や保健医療システムの破綻は深刻である。国際社会でもミャンマーの「破綻国家」化を危惧する論調が強くなっているが、民主派政府も政府を名乗る以上、すべての責任は軍事政権側にあるとばかりは言っていられない。事態打開の何らかの方策を示す責任を負わされているのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10884:210516〕
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