世界の名作に触れる(4)『静かなドン』の作家ショーロホフ――革命戦を辺境からの視点で描く
- 2021年 5月 31日
- カルチャー
- 『静かなドン』ショーロホフ文学横田 喬
ショーロホフはこの大河小説を仕上げるのに、なんと十五年の歳月を費やしている。弱冠二十歳の折の1925年から書き始め、三年後に第一巻(全四巻仕立て)を発表し、たちまち大反響を巻き起こす。作品の完成度から若い青年の作品とは当初信じられず、既成作家の匿名作では、と噂されたりした。翌年に第二巻が出ると、彼は既に世界的作家の座にあった。第三巻はその四年後の33年に著され、最終の第四巻が40年に完成した。量的にも質的にも、この作品は革命後ロシア文学の最高傑作とされるに至る。
ショーロホフは05年、南ロシア・ドン地方のコサック村で誕生した。父はロシア人で、母はコサックの農婦。モスクワ南東の地方都市出身の祖父の代にドン地方へ移住し、父は商店の番頭や製粉所管理人・家畜仲買人などを務めた。ショーロホフは私生児(後に父母は正規に婚姻)さながらに誕生して少年期は幸せではなく、中学も中退している。
17年にロシア革命が勃発し、ドン地方は内乱の渦中に巻き込まれていく。十代前半の未だ少年の身でありながら、彼は軍属まがいにドンの赤衛軍の手伝いをし、食糧調達関係の仕事をしながら各地を渡り歩く。時には銃を手に反革命匪団と戦ったこともあったらしい。感受性の強い十代半ばの時期に味わったほぼ四年に及ぶ内戦。この生々しい体験が、後に彼が作家として育つために大きく役立っているのは間違いなかろう。
国内戦が終わると、職を求めてモスクワへ。人足や会計係などをしながら、作家になる勉強を始める。ロシアや西欧の古典作家たちの多くの著作に親しみ、とりわけトルストイの
『戦争と平和』など歴史絵巻的な作品から強い影響を受けたようだ。国内戦当時のコサックの生活を題材に短編を色々試作するうち、革命戦を一つの全き姿で描きたいと志す。モスクワを去って郷里のドンに帰り、広く材料を集めて構想を練り、本格的に執筆を始める。
『静かなドン』の巻頭には「コサック古謡」が引用され、こう綴られる。
――栄えある我らの土は 犂では起こされず・・・、/我らの土は馬の蹄で起こされた/栄えある土には コサックの首が播かれ、/我らの静かなドン(地域を指す)は 孤児で彩られ、/静かなドン(河を指す)の波は 父母の涙で満たされた
コサックについて少々。私は高校在学当時の世界史の授業で、「ステンカ・ラージンの乱(17世紀後半)」と「プガチョフの乱(18世紀後半)」を教わった。共に帝政ロシア政府に対する大規模な農民暴動で、前者の名は有名なロシア民謡の主人公としてよく知られる。彼はアタマン(頭目)として反乱軍を率い、一時は辺境一帯を制圧するが、結局は敗北。モスクワの赤の広場で四つ裂きの極刑に遭っている。コサックの度々の反乱に懲りた帝政ロシア政府は自治権を剥奪し、国境警備や領土拡張の先兵として利用。国内の民衆運動の鎮圧などにも当たらせた。
ショーロホフは伝記の資料が極めて乏しい。不幸な生い立ちが響いてか、自己についてほとんど語らぬ作家だったようだ。彼と同世代の文芸評論家・故桑原武夫氏は55年に訪ソした時、ショーロホフがレーニン勲章を受けた際の祝賀会に出席。その折の印象をこう記している。
――間近に見たこの文豪はロシア人としてはむしろ小柄で、頭髪は褐色。近頃専ら狩猟にふけると言われる彼の顔はこんがり日焼けして、その風姿には飾り気のない農民的なところがあり、どこか退役陸軍少将といった感じがあったことだけを言っておこう。
『静かなドン』は第一回スターリン賞を受け、レーニン勲章も二度受けている。だが、スターリンとの関係は微妙だったようだ。稀代の独裁者は『静かなドン』を愛読し、ソ連文学を代表する最高傑作と評価。まだ若年だった作家と会見するが、反骨精神旺盛なショーロホフは臆することなく発言し、農民を苦しめるスターリン集団化への批判まで口にする。それでも許され、恐怖の圧制者に盾突きながら粛清を免れた稀有の例とされる。
ショーロホフは27年以来、引き続いてソ連最高代議員に選ばれ、39年にはソヴィエト科学アカデミアの正会員にも選出された。が、彼はモスクワ中央にはあまり寄り付かず、文壇の動向なども気にせず、ドン地域にじっくり腰を据え、マイペースで執筆生活を送った。
私生活では、「スターリン批判」で知られるフルシチョフ首相と親交があったようだ。同首相はドンの傍のウクライナ国境近くの地方の出で、炭鉱夫の経歴を持つ。内戦には赤軍政治委員として参加しており、その点でショーロホフとは縁があった。家族ぐるみの付き合いをし、記念写真が残っている。両人とも似たような背格好で、野人ふうの風姿も似たり寄ったり。ほほえましい印象を受けた。
ショーロホフに戻る。『静かなドン』の刊行以外では32年に長編小説『ひらかれた処女地』(二部構成)の第一部を発表し、第二部を遥か後の60年に至ってようやく完成している。この作品は『ドン』の後編といってもいい内容で、『ドン』の時代の後に訪れるコサックたちの苦闘を描いている。この二大作以外は短編や中編を少々数えるだけで、寡作を誇りとしているかのようにさえ映る。
ショーロホフは84年、七十八歳で亡くなった。その七年後にソ連は崩壊し、彼の地での共産主義の試みは一世紀と保たず、あえなく水泡に帰す。私は93年夏、政権崩壊直後のモスクワとペテルブルクを五泊六日の駆け足旅行で訪ねている。インフレの凄まじさや治安の危うさなどを目の当たりにし、国家崩壊の惨状をまざまざと知った。エルミタージュ美術館を案内してくれたペテルブルク大学の先生は「ブレジネフは美術館の財宝を横流しして、高級車を何台も買った」と証言。そんな退廃がまかり通るようでは、社会主義国家をちゃんと保てるはずがない、と実感した。
モスクワ生活が長い旧知の日本人女性はロシア社会の近況について、こう言う。
――スーパーやホームセンターが街中にわんさと出来、お金さえ出せば何でもすぐ買えます。でも、乏しい年金だけでは食べていけないお年寄りなんかも数多くいて、巷では物乞いをする人々の姿をよく見かける。自由化で人々が本当に幸せになったかは、疑問です。
新生ロシアの現在の大統領プーチンは長期にわたって絶対的権力を揮い、帝王にも比すべき独裁者の座にあるように映る。泉下のショーロホフの胸中は、いかばかりか。
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