二十世紀文学の名作に触れる(6) 『怒りの葡萄』の著者スタインベック――「アメリカ文学の巨人」
- 2021年 6月 3日
- カルチャー
- 『怒りの葡萄』スタインベック文学横田 喬
1962年にノーベル文学賞を受けた小説『怒りの葡萄』は39年の出版以来数十年にわたって売れ続け、世界の三十三カ国で千数百万部を完売。著者スタインベックは「アメリカ文学の巨人」視される。彼は六十八年の生涯で書籍二十七冊を出版。内訳は小説十六冊、ノン・フィクション六冊、短編集二冊など。多くが郷里カリフォルニア州を舞台とし、サリナス峡谷や近辺の山脈などの大自然が頻出する。
スタインベックは1902年、カリフォルニア州中西部の都市サリナスに生まれた。姉二人と妹一人の独り息子。祖父は多くの農地を所持したドイツ系(ユダヤ系統)移民で、父は役所の出納吏も務めた。母はアイルランド系の小学校教師で、息子の読み書きの才を伸ばすよう手助けした。彼は少年の頃から文学好きで、ドストエフスキーの『罪と罰』やミルトンの『失楽園』、マロリーの『アーサー王の死』などを愛読した。
サリナス高校卒業後しばらく、近くの砂糖工場で働く。そこで出会った移民たちの貧しい暮らしや苦労の様子を知り、後年の作品(『二十日鼠と人間』など)に生かした。20年、スタンフォード大学英文学部に入る。翌年、授業を全休し、牧場や道路工事・砂糖工場などで様々な労働を体験する。この経験が後々の創作に際しての世界観に生きていく。
25年、海洋生物学を学んだ後、学位を取らずに同大を退学。ニューヨークへ赴き、出版を試みるが失敗し、帰郷する。三年間、山小屋やマス孵化場で働き、湖畔でツアー・ガイドを務めたりした。その合間に作品執筆に打ち込み、29年に長編小説『黄金の杯』で作家デビューを果たす。翌年にロサンゼルスへ移転。石膏製のマネキン造りを試み、最初の結婚(離婚を二度経験し、結婚は三度)をしている。
半年後に世界恐慌が始まり、資金が枯渇。父親が所有するカリフォルニア州内の別荘に移り住む。ボートを購入し、魚介類を獲ったりして自活を試みる。生活保護を受けた一時期もあったようだ。この時期に、終生の師匠格となる海洋生物学者エド・リケッツと出会う。彼はスタインベックに哲学と生物学を教えた。モントレー海岸に海洋研究所を所有し、魚介など海産資源を小学校などに販売する事業を営んでもいた。36年までの六年間、スタインベック夫婦はこの海洋研究所で雑用の手伝いをしたり、書籍類の司書として働いた。
その間、34年に発表した短編『殺人』がO・ヘンリー賞を受け、以後38年にかけて長編小説『トルティーヤ大地』、同『二十日鼠と人間』、短編小説『長い谷間』を相次いで刊行し、作家として注目を集め始める。そして、39年に発表した長編『怒りの葡萄』が評価をめぐって激しい賛否両論を巻き起こす。
否定論は作中での農民の悲惨な生活は誇張と偏見に満ち、非アメリカ的だという主張。オクラホマやカリフォルニアの地元紙は「『怒り』の物語、知事を怒らす」などセンセーショナルな見出しを掲げ、煽り立てた。地元選出の上院議員は国会で「歪んだ、ねじけた精神のどす黒い悪魔的な創造物」と呼んで、非難した。
これらの非難や攻撃に対し、良心的な社会学者や牧師、ニューディールの民主党系若手官僚などが弁護に回った。スタインベック自身は、自らが描いた移住労働者たちの悲惨な生活の事実を証明するため、写真報道誌『ライフ』のカメラマンを帯同してキャンプを訪問。そのルポルタージュと写真を同誌に掲載した。彼は飢えた三千人の移住労働者たちに二ドルずつの金を分けてやるため、ハリウッドでの自作『二十日鼠と人間』の映画台本制作の仕事を週一千ドル六週間の契約で引き受けようとさえした。
40年に『怒りの葡萄』がジョン・フォード監督によって映画化される時も、執拗なボイコット運動が続けられた。製作者のザナックは撮影に入るに先立ち、秘密調査員をカリフォルニアの各地に派遣して移住労働者の実態を調べさせた。その報告書は、実情は小説に記されたものよりさらに悪い、というものだった。
スタインベックは事態解決のため、①移住労働者が自活できるよう小さな自給自耕農場を与えるべき②移住労働局を設置し、適切な労働の割り当てと妥当な賃金の決定をなすべき③自警団及びテロの暴力は厳重に罰すべき、と提言した。識者の間では、この提案は時のルーズベルト大統領(民主党)のニューディール政策の理念と不思議に一致している、と評価されたようだ。
彼はその後52年、長編小説『エデンの東』を出版する。旧約聖書の創成記におけるカインとアベルの確執~カインのエデンの東への逃亡の物語を題材に、父親からの愛を切望する息子の葛藤と反発そして和解などを描いた作品だ。三年後、名匠エリア・カザン監督の下で映画化され、かのジェームズ・ディーンが孤独な青年キャルを好演。私事になるが、亡父と不仲だった私は強い共感を覚え、二度三度と映画館へ足を運んだ。
彼の思考法は、社会変革に対するリベラルなアメリカの伝統的な考え方を示している。批評家の多くは、スタインベックの思想をエマーソンの超絶主義(十九世紀中葉のアメリカ社会の楽観主義を支えた哲学運動)並びにホイットマンの人間愛とプラグマティズムの哲学の結合である、と見なした。
前記の通り、『怒りの葡萄』などの著作活動が評価されて62年、彼はノーベル文学賞を受ける。アメリカでは六人目の榮譽で、その作品は現在三十三カ国語に翻訳されている。68年、六十六歳で死去した。
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