激動の20年‐「ロシア革命」-トロツキー(その1)
- 2021年 6月 23日
- カルチャー
- 合澤 清
主な参考文献:『ロシア革命史 帝政の転落』(1)レフ・トロツキー著 山西英一訳(角川文庫1930,11.14/1972)*出版年度は1931‐33で、プリンキポで書かれて出版されたもの。『ロシア革命-破局の8か月』池田嘉郎著(岩波新書2017)
*下線やゴチック体は評者のもの。また、引用文に勝手に手を加え、(…)で評註を施した。
まえがき
私見であるが、トロツキーが書いた『ロシア革命史』は大変な名著であると思う。にもかかわらず、この書への評価は両極に分かれてきた。思うに、それは著者トロツキーへの評価と大いに関連しているようだ。1953年3月5日にスターリンが死んだ後でも、スターリンの亡霊がコミンテルンという形で、世界中の反体制運動の在り方、組織上の問題などに巨大な影響力を発揮し、支配し続けたため、トロツキーの思想(本当に彼は「左翼冒険主義者」であったのか、あるいは「頑固な世界革命論者」だったのか、など)は、まともに再検討されることもないまま一方的な裁定を下され断罪されてきたのではなかっただろうか。
世界的に、トロツキーの再評価に先鞭をつけたのは、おそらくアイザック・ドイッチャーだったろうと思う。彼の有名な「トロツキー三部作」、この中でドイッチャーは、トロツキーに貼られた悪しきレッテルを引っぺがすとともに、この『ロシア革命史』をトロツキーの著作中の最大の名著と称賛している。
今回、評者が何十年ぶりかで再読した、この文庫本(実際に茶色に焼けた汚い本で、古書店でたまたま三冊そろっていたのを目にして、購入し、今回まだそのうちの一冊を読んだにすぎない)の翻訳者、山西英一も、「あとがき」で書いていたが、彼自身、トロツキーへの先入見にとらわれていて、1931年にロンドンへ留学するまでは全く読む気もしなかったそうである。
90年も前のことでは仕方がないとして、今日でも、相変わらずトロツキーに対する「食わず嫌い」的な反発が多いのは問題だ。顧みるに、いわゆる「トロツキスト」を自称する人たちの陣営でも、必ずしもトロツキーの思想が正当に読まれ評価されてきたとは思えない節がある。端的にいえば、それは「トロツキー主義」を単順に裏返して、「反スターリン主義」と片付けてしまう考え方に象徴されているように思う。この本を読めばわかるのだが、そもそもトロツキーはスターリン本人をあまり問題にしていない(というよりも、どちらかといえば、「無能な人物」とみているようである。例えば、次のように述べる。「理論的見地も、広範な政治的関心も、外国語の知識も持たぬ、いわゆる『実際家』としてのスターリンは、(後れた)ロシアの土壌とは不可分的な関係をもっていた」)。トロツキーの関心は、あくまでロシア革命をヨーロッパ全体の革命運動(あるいは、アメリカや極東地域のそれ)と結びつけ、それらの地域での運動の完遂なしにはロシア革命の完成はあり得ないという考え方にあったとみてよいのではないか。この考え方は、ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトや、またレーニンとも共通している。
だからこそ彼は、どの地にあっても(例えば、スターリンによってプリンキポの孤島に流刑された時でも、あるいはやむなくアメリカやメキシコに亡命していた時にも)絶えず、世界情勢に気を配り、各地のニュース報道に不満をもらしながらも情勢分析を怠らなかったのである。
メキシコの私邸でスターリンが差し向けた刺客のテロによって暗殺された時に、彼が残した原稿には「すべての権力をソヴィエトへ」の言葉が書き遺されていたといわれている。
ソ連型社会主義が崩壊し、既成の価値観が根底から再検討されている今日だからこそ、彼の思想や立場をロシア革命史全体、あるいはこの頃の時代状況(少なくとも1914年から34年ごろまでの、E.H.カーの言う「危機の20年」あるいは大戦間期)に関連付けながら、歴史的に相対化し、位置づけていくことは必要なのではないかと思う。
1917年のロシア革命から100年強が過ぎ、ソ連が崩壊し、それまで「神格化」されていたレーニン像の洗い直しが盛んに起きている。当時から問題視されていた、農民問題、民族問題、民主主義的議会運営の問題、またボリシェヴィキの組織問題、(これらはかつて、ローザ・ルクセンブルクが論文「ロシア革命論」の中で批判的に論評していたことである)等々が、ポスト・レーニン=スターリン体制批判として専門研究者の手によって再度洗い直されている(例えば、和田春樹『スターリン批判1953~56年』作品社)。それに合わせて新たな資料に基づく新たな視点からの「ロシア革命」像が次々に発表されてもきている(下斗米伸夫の「古儀式派」に焦点を当てた『神と革命-ロシア革命の知られざる真実』筑摩選書など)。「ロシア革命」とは何だったのか、の問い直しである。
トロツキーの著書も、従来の英語版からの翻訳ではなく、直接ロシア語の原典からの邦訳が出版されだしている。古いトロツキー像もやがて見直されてくるに違いない。
偶々、管見に触れた限りではあるが、最近のトロツキーへのコメント(特にこの『ロシア革命史』を対象にしたもの)では、歴史学者・池田嘉郎のもの「…トロツキーは歴史的につくられた構造という問題に、ミリュコーフ(「臨時政府」の外務大臣で、歴史学者)よりは近づいている。だが、…社会主義や労働者階級の優位を前提とするその議論は大変に図式的である。同書は「十月革命クライマックス史観」のお手本以上のものではない」(『ロシア革命-破局の8か月』池田嘉郎著 岩波新書2017)は、さすがに偏見にとらわれず、正鵠を射た指摘になっているように思う。
池田のこの著書は、トロツキー論を主題にしたものではないし、一般向けに書かれたものであるため意を尽くした議論になっていない点は差し引かれるべきであろうが、手際よく革命の8ヶ月をまとめている。著者によれば、「裏返しの『十月革命クライマックス史観』」になっているかもしれないというが…。
しかし、私(評者)としては、この書に大いに啓発されながらではあるが、それでもなお、いくつかの点で素朴な疑問を抱かざるを得なかった。
例えば、池田がいみじくも「『十月革命クライマックス史観』のお手本」とトロツキーのこの書を批評していることにかんして、それでは池田がそれに対置する「ミリュコーフの『第二ロシア革命史』」は「自由主義者」中心史観になっていないのだろうか? 延いては、特定の史観に立たない歴史の叙述などというものがありうるのだろうか? 周知のようにドイツ語では「歴史」に相当する言葉が二種類ある。GeschichteとHistorieである。そして後者が「事象の単なる報告」であるのに対して、前者には「物語性」という意味が含まれる点に特徴があり、ヘーゲルやランケなどは全てGeschichteを使っている。つまり、特定の「史観」がどうしても前提されざるを得ないということを意味する。(この「主観的」な史観が「客観」的なものへといかに転化するかに関しては、ここでは論じない)。
また、確かに特定の歴史観(例えば、「唯物史観」の公式的適用による発展史観ないし必然性史観など)を前提し、強制することが、とんでもない結果を生み出したことは事実である(「ブハーリン裁判」で見られたような歴史の必然的な発展史観からの逸脱=反革命的裏切り者として死刑)。これなどは、まさに中世の「異端審問」といえる。トロツキーへの弾劾・追放・暗殺もこの異端審問の結果だったとも考えられるのではないだろうか。
池田は次のように述べている。「ロシア革命で滅びたもの、何よりもそれは臨時政府である。言論の自由、人身の不可侵、私的所有権…同時代の西洋がともかくも備えていたものをロシアにも揃えようという臨時政府の試みの挫折、…今日に至るまで、深い影響を残している。…もう一つは、同時代、20世紀という横軸と同程度の重みを、ロシア史という縦軸も持っている。…『なぜ臨時政府は挫折したのか』『なぜボリシェヴィキは成功したのか』…ロシアの民衆に臨時政府の言葉は届かなかったのであり、ボリシェヴィキの言葉は届いたのである。…しかし、破局の8ヶ月は、ただ臨時政府にとってのみの破局であったのだろうか」
この指摘の反面には「レーニンが掲げたのは、ロシアで直ちに社会主義の実現に着手するという途方もない目標」であり、「そして、根本において誤っていた展望に促されて起こったのが、十月革命である」という池田の独自的な見解がある。しかし、当時のヨーロッパ情勢(そのロシアとの関係)、また戦争、国内の疲弊などの条件を勘案した時に、レーニンやトロツキーの発想を「時期尚早」あるいは「間違い」と切り捨てることが可能であったかどうか…。この辺が評者のこの小論での素朴な反問である。
私のまことに勝手な読み方ではあるが、この池田の思考法は、かつて柴田三千雄が提唱した「比較史」(変革に抵抗する保守勢力、変革を推進する政治指導集団、第三の勢力としての民衆、これら三者の関係の中で、民衆の世界が如何に解体ないし変容するかの考察)の側に立っているように思われる(和田春樹も同様な立場に立つと思うのだが)。
確かに、評者のような素人目からみても、こういう発想の歴史観〈民衆史観〉は、従来のような権力の交替をめぐる抗争を主軸にしたものに比べてはるかに斬新な考え方であり、大いに興味をそそられるものがある。こういう立場から、トロツキーの『ロシア革命史』を「『十月革命クライマックス史観』のお手本」と指弾するのも一応うなずける。
しかし、先ほどの問題がこれですべて片が付いたとは思えない。
歴史は一方で、修正のきかない完結態である。歴史を考えるうえで難しいのは、「あの時、こうすればよかったのに」式の「if」を考えることができないといわれる。過去の歴史は、当然ながら、ある完結された結果としてわれわれの眼前にあるからだ。
だがまた他方で、歴史上の事件を全て必然的な流れであるとして無批判的に受容することもできない。こんなことをすれば、歴史上のありとあらゆる事件が、「当時の事情からすれば、やむをえなかったのだ」として、合理化、正当化されかねないからだ。すでに完結している「歴史事件」への評価は、何によってなされるのであろうか。この難問に対して如何に処するべきだろうか。・・・この問題にあまり深入りすれば、「歴史」ではなく「歴史哲学」プロパーの問題に入ることになり、肝心の主題にはたどり着けなくなる恐れがある。それゆえ、ここではこの問題にはそっと触れる程度で留めたいと思う。
「歴史的事実とは何か?」19世紀の歴史家ランケのように「事実尊重主義」で押し通すことには無理がある。「事実」は必ず「対他的事実」とならざるを得ないからだ。
E.H.カーによれば、「ルビコン河」を渡河したのは、何もシーザーだけではない。その前にもすでに何百万人もの人たちが越えているはずだ。しかし、歴史として残っているのは彼の渡河である。
一つの考え方は、「歴史的現在」という立場からのものである。全て歴史は「現在」という視座から反省され造られたものであるという考え方であり、ある意味で真っ当な思考法である。しかし、「現在」といっても、それで何か定まった視座が得られるものではない。そこには無数の「現在(差違)」が考えられる。その時代に主潮流の考え方を採用するとして、果たしてその立場の正当性はどう証明されうるかがまた問題になる。そういうやり方では、自分たち以外の視座を排除する悪しき「権威主義」に陥る危険性がある。
それではすべての考え方を認めて、歴史は一つの考えかただけで整序されるものではない。いろんな見方があって当然なのだ、とすればよいのか。これでは全くの「相対主義」に陥り、結局は何一つ語れないということになりかねない。
再びE.H.カーを持ち出せば、歴史観には「意識的にせよ、無意識的にせよ、私たちの時代的な立ち位置(our own position)が反映」されていることは確かである。シーザーがルビコン河を越えたという事実と、それが「歴史的事実」として取り上げられるということの間には大変な懸隔がある。ヘーゲルは「事物(Sache)は判断である」という。「判断Urteil」には、主観的な契機と客観的な妥当性の契機が備わっている。なぜなら、判断とは、関係態としてのEtwasが対象とその知に自己分割する場面において成立するからだ。
以下の小論においては、横軸としての時代性を、つまり激動の20年間と「ロシア革命」との関連に焦点を当てつつ、同時にそれを「知の変化」の中で検討することで、トロツキーの「ロシア革命論」を如何に歴史相対的に位置づけることができるかということを検討したいと思う。
そのための検討項目としては、
1.激動の時代を三つの事例によって再考してみた。その三つとは、第一は、1931年のイギリス海軍における反乱事件(インヴァーゴードン事件)、第二は、1929年の大恐慌、そして第三は1918年11月から5年間に亘るドイツ革命、である。「世界革命論」という構想の現実性を探りたいと考えたからだ。
2.『ロシア革命史』におけるトロツキーの総括視点はいかなるものだったのか。確かにそれは、池田嘉郎が指摘するように「十月革命クライマックス史観」であることは間違いないだろう。しかし、革命の積極的な担い手の一人たるトロツキー(あるいはレーニンでも同じだろうが)にすれば、「社会主義政権樹立」(十月革命)が目的であったことは否定しようもないのではないだろうか。
「健康を増進しようという意図が医学を生むことになり、橋を作るという目標が工学を生み出すことになる。政治団体の病弊を治療しようという強い願望が、政治の研究を刺激して政治学を起すことになった。われわれが意識するとしないとに関わりなく、目標を立てることが、考えるという行為の条件となる。思惟のための思惟などということは、蓄財のための蓄財のように、異常であり、虚しいことである。『願望は思考の父である』というのは、正常な人間思惟の根源を的確に表明している言葉である」(『危機の二十年』E.H.カー著 井上 茂訳 岩波文庫1939/1996)
出来上がった結果をどう評価するかは、後世の歴史家の価値観に委ねられているが、その「価値観」を更にどう評価するか、このことは「世界史の裁定」(人間理性の永続革命)に期待するしかないのだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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