激動の20年‐「ロシア革命」-トロツキー(その2)
- 2021年 6月 27日
- カルチャー
- 合澤 清
主な参考文献:『ロシア革命史 帝政の転落』(1)レフ・トロツキー著 山西英一訳(角川文庫1930,11.14/1972)*出版年度は1931‐33で、プリンキポで書かれて出版されたもの。『ロシア革命-破局の8か月』池田嘉郎著(岩波新書2017)
*下線やゴチック体は評者のもの。また、引用文に勝手に手を加え、(…)で評註を施した。
激動の時代とロシア革命-「世界革命論」の背景
この論文(『ロシア革命史』)はトロツキーにとっては回顧録ではない、中間総括である。論文のポイントは、あくまで西欧社会における社会主義運動の高まりとロシアでの運動の遂行を結びつけることにあったと思う。
それ故、この論文の内容に触れる前に、一当たりこの激動の20年間(1914年の第一次大戦からの危機の20年間)にヨーロッパで何が起きていたかについて、簡単に振り返ってみる必要があると思う。
叙述の順序は「時系列」からいえば逆になっている点にご注意願いたい。この論文執筆時のトロツキーの総括視点ということを考えてみたいと思ったからだ。すでに1914年の第一次大戦勃発、1917年のロシア革命、1918年のドイツ革命、1919年1月のローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの虐殺、また1926年のイギリス炭坑労働者が中心のゼネスト、そして1929年の大恐慌などが経験されている。このような「危機の20年」の経験を踏まえて、この時期のトロツキーは、どのように総括しようとしたのであろうか、この点に評者の関心がある。
(1)イギリス海軍「インヴァーゴードンの反乱」
最初に、この本の翻訳者・山西英一が「あとがき」(『ロシア革命史』を邦訳するまで)で、触れている1931年のイギリス海軍水兵の反乱事件について考えてみたい。
実はこのショッキングな事件については、恥ずかしいことに私自身、今回初めて記憶にインプットした次第で、今まで知らずに見過ごしてきた可能性がある。
早速手元にある何冊かのイギリス労働運動史などに当ってみた。有名なG.D.H.コールの『イギリス労働運動史』などもチェックしてみたのだが、この事件についてはどこにも触れられていなかった。記憶頼りだが、E.H.カーの『危機の20年』にも取り上げられていなかったように思う。
それでは取るに足りない事件だったのか? とんでもない話で、実際には公にしたくないほど、当時の大英帝国にとっては「肝を冷やす」大スキャンダルだったのではないかと思われる。資料としては、1970年にデーヴィド・ディヴァイン著『インヴァーゴードンの反乱』という本が出版されているようだが、残念ながらまだ見ていない。それゆえ、ここではあくまでも山西英一の「あとがき」とウィキペディアの記事とからの抜粋によっている。
ウィキペディアによれば、「インヴァーゴードン反乱(英:Invergordon Mutiny)は1931年9月15〜16日の2日間にわたって発生した大英帝国大西洋艦隊の水兵たちのストライキ」であり、「インヴァーゴードン軍港に向かっていたイギリス艦隊内で起きた約千人の水兵による公然たる反乱」であったという。
この反乱の原因となったのは、1929年の大恐慌から発した「政府による支出削減のための新計画である」「削減対象には海軍も含まれていて、上級兵士や士官の削減率が10パーセントだったのに対し、下級兵士が25パーセントとなっていた。これは、最低限の給与しか支払われていなかった最底辺の水兵たちにとって受け入れられるものではなく、9月12日に海軍省が削減案を認めて大西洋艦隊司令部に正式通知を出した事から、水兵たちの間で反乱の機運が高まった」。
「9月15日、事態はさらに深刻さを増していた。ネルソンとロドネーを含めた3隻の戦艦と1隻の巡洋戦艦の乗員が、以前より予定されていた演習参加命令を拒否したのだ。もはや士官たちによる状況収拾は不可能となり、艦隊司令部は海軍省に水兵たちの不満解消を強く働きかけた。特に強く働きかけたのは、25パーセントという削減率の早急な見直しである。この時点でストライキは他の艦艇にも拡大していた」。
「9月16日、各艦艇は海軍省命令により拠点港へ戻った。政府は階級にかかわらず一律10パーセントとする事に同意した。9月21日には反乱で経済が混乱したことから英国政府は金本位制を放棄した。こうしてこの事件は終わったが、400名ほどの水兵は除隊処分とされ、投獄された首謀者のレン・ウィンコットは後にイギリス共産党党員となってソ連に亡命し、首謀者のもう一人フレッド・コペマンはスペイン内戦の国際旅団に義勇兵となって英国を離れた」。
以上はウィキペディアからの摘録である。
もう少し山西英一によって補足しておく。山西は、ちょうどこの時期(1931年)にロンドンに滞在している。
「彼(レン・ウィンコット)は水兵宣言の起草者で、12日の日曜日に初めてインヴァゴードンでアジ演説をし、反乱に点火した。全水兵は給与切り下げの全面撤回を要求し、大挙完全武装して上陸し、首都ロンドンに向かって大行進を開始するという、強硬な最後通牒を政府に突き付けた。この衝撃のニュースは、国際的金融恐慌に揺れていたイギリス全国を震撼し、ヨーロッパ中に大衝撃を与えた。…陸軍は無にも等しい英国では、大武装水兵団の首都行進を阻止する力は完全に絶無であるばかりか、250万に失業労働者が勇躍してこれに合流することは火を見るよりも明らかであり、イギリス全労働者のゼネストに発展することも予想されたからである。東洋艦隊からもいち早く共同闘争を表明する宣言が打電されてきた。…イギリス海軍本部委員会と政府閣僚は、各艦の動静に怯え、茫然自失、為すところを知らなかった。このパニックと麻痺の情況は、海軍本部委員会に保存されている。…蔵相スノーデンは反乱水兵の最後通牒を全面的にのみ、艦隊は北海での予定の演習を中止して、直ちに各所属軍港に帰航することにした。…この海軍本部委員会の極秘記録に基づいて1970年、『インヴァゴードンの反乱』を発表したデーヴィド・ディヴァイン氏はこれについて、『艦隊が帰着した時、各基地軍港、ことにプリマス軍港での機密情報活動がもし外部に洩れたりしたら、世界の世論にどんな影響を与えたか予想もつかない。インヴァゴードンの静かな反乱の脅威でさえ、ポンドの大崩壊を引き起こしたほどだから、もしそのようなことが起こったら、それこそどんなことになったか、全く想像もできない』と言っている。この史上未曽有の反乱の三日間とその前後数日、イギリスの死活は反乱水兵の手中に握られていたといっていいだろう。だが彼らの意識は彼らの反乱の内包した力の次元に達せず、彼らの要求は素朴な純経済問題に限られていたため、政府はそれを丸呑みにしてこの危機を切り抜けた。…海相チェンバレンは下院で、処分すべきではないと訴えた…イギリス共産党は、数人の党員が岸壁から湾内に集結している反乱の艦隊に向かって赤旗を振っているだけだったとその日の新聞記事が報道」
長文の抜粋、引用で恐縮に思うのだが、この時代の雰囲気を理解するうえで非常に興味深い。
イギリスの労働運動は、第一次大戦後の不況期以来(大失業時代の賃金切り下げなどを受けて)1920年代を通じて頻繁にストライキ闘争などで戦ってきた経験をもつ。とくに有名なのは、1926年5月4日から12日までの9日間にわたるTUC総評議会指導の炭鉱労働者のゼネスト(参加人員275万人)であり、詩人バイロンの有名な表現を借りて、「国民は一夜明ければ鉄道が停止し、バスが街頭から姿を消し、新聞が出なくなり、生活が止まったのを見出した」といわれている。イギリスの労働運動は「敗北の歴史」の連続であるが、それでも1931年にはまだこういう戦いの余力が社会的には残っていたのであろう。
トロツキーがこの原稿を書いたのは1930年頃、地中海トルコ側の孤島プリンキポでのことである。彼は、歴史学者・ミリュコーフと違って、歴史書を書くつもりではなく、あくまでヨーロッパ革命としての「ロシア革命」を中間総括し、両者の統合による「世界革命」を構想していたと考えるのが妥当ではないだろうか。
そして、当時の緊迫した情勢(大戦終結後の世情の不安定と、経済的窮迫)は、まさに「革命かファシズムか」の二者択一を世界中(少なくともヨーロッパ世界)に否応なく迫っていた。
引き続いて29年のアメリカ発大恐慌をざっとお浚いし、また1918年11月から5年間にわたるドイツ革命の顛末について手元の資料で簡単に振り返ってみたい。トロツキーのこの論文に込めた気持ちが多少とも理解できるかと思う。
(2)1929年のアメリカ発世界第恐慌について
1929年10月24日、アメリカの株価は歴史的な大暴落を記録した(「暗黒の木曜日」)。そして、29日には再び株価の暴落が起き、アメリカ経済は破綻状態に追い込まれた。当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「株式史上最悪の暴落が昨日、金融街を襲った」(10月25日付)「株価は事実上、崩壊した」(10月30日付)と報じている。
会社倒産と自殺者が続出したといわれ、ニューヨークの然る一流ホテルでは、宿泊を申し込んできた客に「お泊りのためですか、それとも自殺のためですか」と質問したという逸話すらも残っている。
この29年の大恐慌は、当然ながら世界中を一気に席捲した。ヨーロッパに大影響をもたらしたのは、以下のように1931年である(「インヴァーゴードンの反乱」がその影響を受けて発生したことは既にみた)。経済学者・ガルブレイスはその最晩年に至っても、この時の大恐慌は「ニューディール政策」や第二次大戦によっても解決されていないといっていた。
歴史においてはしばしば意図せざる出来事が起きることがある。宇野弘蔵も『恐慌論』の中で書いていたが、この頃のアメリカは「フーバー景気」に沸いていたそうだ。
G.トマス/M.モーガン=ウィッツの『ウォール街の崩壊―ドキュメント世界恐慌・1929年』
(常盤新平訳 講談社学術文庫)によればこうだ。
「1928年は株式市場の二大事件―空前の出来高と高値―が新聞の第一面を賑わした。6月と12月に市況後退があったが、すぐに忘れられてしまった。毎日そして毎月、相場は上昇し、人気株は天井知らずだった。RCAは一年間に85ドルから420ドルという信じられないような上昇ぶりで、間もなく株式分割が行われるころ合いだった。ウェスタン倉庫という無名の会社も同様の飛躍をみせた。これらをはじめ、何百という会社の株が値上がりしたのは。クロフォード(ニューヨーク株式取引所の機械部長)に言わせると、主として『大物相場師たちが値上がりを望んだから』である」
それがたちまち予期しえない方向に一転する。その余波は世界中をたちまち駆け巡る。
「グローバル金融システムの観点からは、最も危険な局面は1931年春から夏にかけてであった。―金融パニックは、5月にウィーンのクレディト・アンシュタルト銀行が同行の資本を吹き飛ばすほどの損失を発表したことから始まった―その後数週間で、銀行パニックがヨーロッパ全土に広がり、オーストリア、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビアで銀行閉鎖が宣言された―ドイツは対外債務(第一次大戦の賠償金)返済を停止、・・・パニックはイギリスに波及、1931年7月には大量の金の流出が始まっていた―イギリスの主要銀行は、短期借り入れで資金を調達し、それを流動性の低い資産に投資…外国の債権者たちはイギリス・ポンドの債権を金に換え、その金はイギリスからアメリカ、フランス、あるいはまだ危機の影響外にある金大国に向かった―1931年9月21日、イギリスは金本位制から離脱、イギリス・ポンドはドルに対して急落(数か月で30%下落)」…「ヨーロッパの金融パニックはアメリカに移った―1931年、ポンドや他の通貨が米ドルに対して下落したことで、グローバルなデフレと不況の重荷がのしかかる―1932年、失業率は20%台に達し、投資・生産・物価水準の全てが二ケタ台の落ち込み。銀行の破たんや取り付け騒ぎが全米で発生」(『通貨戦争』ジェームズ・リカーズ著 藤井清美訳 朝日新聞出版2012)
(3)1918年11月のドイツ革命―その始末記(概略)
1918年のドイツの11月革命は、Umsturzだったと言われる。なぜこの革命がUmsturzであってEinsturzではないのか。
日本語では同じように「崩壊」と訳すにせよ、そこに込められた語義は全く違っている。一方のEinsturzには自然崩壊、自滅という意味があるが、他方のUmsturzには、何らかの圧力による崩壊、(抵抗による)政権の転覆という意味が込められている。
実際に、このドイツの11月革命は、ドイツ社会民主党が政権をとると同時にある圧力によって転覆Umsturzさせられている、ドイツ社会民主党(SPD)の官僚が旧「ドイツ参謀本部」と結託して、革命を簒奪したのがこの革命のUmsturzに他ならない。
以下、概略のみ述べるにとどめたい。
「第一次大戦は、1918年のアメリカ軍の参戦で事態が急変、8月、アミアンでイギリス軍により決定的な敗北。9月28日、ドイツ参謀本部は休戦を決定し、和平交渉の前提条件として政府の民主的改造を要求することにした。10月4日、マックス・フォン・バーデンを宰相とし、議会多数派(進歩人民党、中央党、多数派SPD)からなる政府が組織され、ルーデンドルフに促されてウィルソンに平和締結の申し入れを行った」。(上からの体制変革)(『ドイツ革命史序説―革命におけるエリートと大衆―』篠原 一著(岩波書店1965))
ところが、新内閣が連合国と講和の実現を打診しているにもかかわらず、他方の海軍では「出撃作戦」が強行されようとしたため、水兵の反乱が勃発する。
「10月29,30日、ヴィルヘルムスハーフェンのシリッヒ埠頭での水兵反乱(出撃命令拒否)→キールに帰航した第三艦隊によって陸上へ伝播される、3日、兵士協議会(レーテ)が、4日、労働者協議会(レーテ)が選出され、キールは彼らに掌握される(ただし、要求された14項目には、政治要求はなく、勤務条件の改正要求のみ)」(篠原:上掲書)
注:<レーテRäteとは、ドイツ語のRat(ラート:相談、協議)の複数形で、「革命協議会(評議会)」の意味>
1918年11月3日にキールで初めて「兵士レーテ」が、翌日4日に「労働者・兵士レーテ」が生まれた。その後の詳細な反乱の経過は省くが、レーテ運動は一気に全国化する。
以後の主な事件を時系列で年表のように示すと以下のようになる・・・
1918年11月8日、バイエルン(ミュンヘン)で、クルト・アイスナー(独立社民USPD)を首班とする州政府が成立。(アイスナーは、1919年、2月21日右翼により暗殺)。
11月9日、革命的オプロイテとスパルタクス・ブントの「帝政打倒、社会主義共和国建設」、「9日行動開始」の呼びかけに応じて、ベルリンでは、圧倒的な労働者大衆と兵士らが立ち上がり、警視庁、中央電報局、市役所などを占拠。革命的な状況に包まれる。首相マックス・フォン・バーデンは、皇帝の退位、皇太子の帝位継承権放棄、憲法制定国民議会の選挙を予告、後継首相に社民党(SPD)議長のエーベルトを指名。彼らはそれまで戦争に協力している。つまり、革命をブルジョア民主主義の改革の枠内にとどめ、旧体制との調和を図りたいというのがその狙いであった。エーベルトは、フォン・バーデンから「首相の座を譲られた」ことを得意げに語ったという。エーベルトは終始「レーテ」運動を無視してかかっている。彼の念頭には旧体制擁護しかない。
実際に、6日、ベルリンにおいて、SPD幹部および労働組合総委員会代表者と参謀本部次長グレーナーとの間で、この数日間はストライキやデモをしないとの内容の会見が行われていたし、グレーナーは後に「(この会見の際に)革命のために努力していると思われるような言葉は誰からも一言も発せられず、反対にいかにしたならば王政を維持しうるかということが話題になりました」と証言している。
上記のような取決めにもかかわらず、「首都ベルリンは11月9日に革命の大波に包まれた。皇帝は逃亡した。議会にも軍部にも収拾の力量はなかった」。(『ドキュメント現代史2 ドイツ革命』野村修編 平凡社1972)
先の旧体制とSPD幹部間の連合工作に対して、レーテを権力の基盤にしようとする運動があり、主として革命的オプロイテとスパルタクス・ブントによって推進された。
9日、SPDのもう一人の議長シャイデマンはリープクネヒト(スパルタクス・ブント)が王宮の露台から社会主義共和国の宣言をするということを聴いて、直ちに国会議事堂で共和国の宣言を発した。これが「ヴァイマール共和国」である。
これに対してリープクネヒトは次のように呼びかけている。
「旧体制は打倒されたとはいえ、われわれは、われわれの課題がすでに果たされたと思ってはならない。われわれは総力を挙げて、労働者と兵士の政権を築き、プロレタリアートの新しい国家秩序を、ドイツと全世界にいるわれわれの兄弟の平和と幸福と自由の秩序を、創出しなくてはならない。われわれは彼らに手を差し伸べ、世界革命の完成を目指して、彼らに呼びかけよう」(野村:上掲書)
12月16日、ベルリンで、第一回の労働者・兵士レーテ全国大会が開催される。代議員489名中SPD 291名、USP 90名(スパルタクス・ブント10名を含む)
「全国労兵協議会においては、SPDが圧倒的優位を占め、彼らは協議会制を廃棄して国民議会選挙を翌1月19日と決定した」(篠原:上掲書)。
12月29日、SPDが軍部と癒着していることを理由にUSPは政府(人民委員協議会)から脱退。政府はSPDの単独政権となる。
12月30日-1月1日、KPD(ドイツ共産党=旧スパルタクス・ブント)創立大会。ローザ・ルクセンブルク起草の綱領を確定。但し、ローザらの意向に反して、国民議会選挙ボイコットを決定。
1919年1月4日-15日、ベルリンの一月闘争、6日のゼネストには労働者・兵士50万人が参加。
この間の事情及びベルリンの一月闘争について、長文であるが、篠原一から引用する。
「12月6日以来、SPDと独立社民党の対立は深刻化し、12月中旬の全国労兵協議会・中央協議会の権限をめぐって、両者間に激しい論戦があり、結局、独立社民党は中央協議会への参加を拒否-12月24日、参謀本部の命令および政府におけるSPDの要請に応じて、将校によって統率された前線部隊が独立社民党色の強い『人民海兵団』を攻撃した。-独立社民党は政府から下野(1月3日)-両陣営のそれぞれを支持する労働者大衆の対立も深刻化し、二つのデモが起きた。…独立社民党左派のアイヒホルンは、革命勃発以来ベルリン警視総監の地位にあり、その保安隊の存在はSPDの大きな障害であった。このアイヒホルンを、12月24日の事件で水兵の活動を援助したという理由で、また国民議会招集に反対したということ、 『フォアヴェルツVorwärts』(SPDの機関誌:『前進』)占拠事件後に発見された武器を彼が押収したという理由で、1月4日に彼を罷免した。
共産党と革命的オプロイテも独立社民党ベルリン支部に連帯して、政府への抗議デモを組織(1月5日)-ただしこれは政府打倒の目的のものではなかった。この時期での政権奪取は、2週間とはもたないとの判断-しかし、5日のデモは、その指導者が予期した以上に大規模なものとなった。…指導部には明確な方針がなく、協議を重ねるのみ。周辺からは、武装蜂起による政府打倒の檄が飛び交う。リープクネヒトとピークは、党の方針に反してこれに同調。…革命委員会樹立(レーデブーア、リープクネヒト、ショルツェを議長に選出)」
「政府はノスケを総司令官とする義勇軍による力での制圧を決意。しかし、当時ベルリンに存在していた約2万名の武装隊のうち、政府が信頼できたのは100名足らずだったといわれる。時の経過とともに、革命派が予定していた兵力は、中立を宣言し、逆に政府側は次第に兵力を結集することになる」。
「『一月闘争』の期間中、リープクネヒトは常に戦闘員の隊伍にあった。ローザ・ルクセンブルクは政府打倒のスローガンには反対であったが、実際に闘争が始まったのであれば、これに反対することはできないとして、この闘争を防衛闘争と規定。彼女の見解では、エーベルト政府打倒は、革命的プロレタリア結集の宣伝的スローガンにはなりうるが、革命闘争そのものでない。最大によくいっても、ベルリン・コミューンの成立を可能にする程度であろう。それ故、この闘争は反革命からの防御である。彼女のスローガンは、アイヒホルンの警視総監復活、ベルリンの革命的プロレタリアを弾圧した軍隊の武装解除、プロレタリアの武装、分隊における指揮権の革命代表への移管、労兵協議会の改選等。この諸要求実現のためには、協議をするのではなく、行動をすべし、という」。(以上、篠原上掲書)
1月15日、SPDのノスケが率いる義勇軍によって、ローザ・ルクセンブルクとリープクネヒト虐殺さる。
この二人のドイツ革命(ヨーロッパ革命)の卓越したリーダーを失ったことで、KPDとUSPに嚮導された以後の闘いは散発的なものとなる。と同時にSPDも旧支配「秩序」の走狗となったことで、大衆の信頼を一層失っていく。その結果、旧支配階級が再び台頭する。
1月10日、「ブレーメン・レーテ社会主義共和国」が宣言さる(KPD、USP、兵士レーテが中軸)。2月4日、反革命との武装闘争で敗北。
2月6日、ヴァイマールで国民議会開催。エーベルトを臨時大統領に選出。シャイデマンを首班とするSPD・民主党・中央党の三党(ヴァイマル連合)による連立内閣発足。
2-4月、各地で大規模なストライキが続発。その主な要求は、社会化の実施、レーテの権利の擁護、義勇軍の解散など。
7月31日、ヴァイマール憲法採択。
1920年3月13日-4月上旬、カップ暴動。諸労働組合を中心とするゼネストが全国規模で起き、1200万人の労働者・職員が参加。カップは3月17日、国外逃亡。
1921年3月16日-4月1日、中部ドイツ(ザクセン、テューリンゲン)での労働運動弾圧に抗しての三月行動。多数の労働者が自主的に武器をとって蜂起したのはこれが最後となる。
1923年11月23日、KPD非合法化。
「こうして、不発の武装蜂起と『労働者政権』の短命な実験を最後に、5年にわたったドイツの革命的激動期は幕を下ろした。ドイツ革命と、それを主要な一環とするはずだった世界革命は、歴史の日程から消えた。やがて後続する『相対的安定期』の中で、革命の記憶の風化と『革命党』の変質が始まる」(野村:前掲書)
このドイツ革命を通じて、SPD傘下の労働組合は、ほとんど組織的な動きをやっていない。組合幹部は、労働者の革命的なうねりに対して、むしろ党幹部と一緒になってそれを留めることに躍起になっている。そして、先に触れた1918年12月16日のベルリンで開催された、第一回の労働者・兵士レーテ全国大会では、ローザもリープクネヒトも代議員に選ばれていないのである。第一次大戦がはじまったとたんに、スパルタクス・ブントなどの小数部分を除き、すべてのヨーロッパの「社会主義政党」(第二インターナショナル)が、こぞって自己の民族(国家)擁護の立場に立って戦争に賛成したこと、このことをどう考えるべきか。とりあえず、ここでは以下のシュトルムタールの言葉を引いて小括としておきたい。
「アメリカの組合と比較した場合、ヨーロッパの労働諸組織は、一見すると政治行動に深入りしているように見えるであろう。ヨーロッパの指導的な労働組織は政党なのである。その大部分は社会主義政党であり、小部分は共産主義政党である。それらは選挙にも参加したし、官職にもついたし、内閣をも形成した。それは単に産業労働者のための完全な参政権や、より高い物質的・文化的生活水準を要求するだけでなく、社会の完全な社会主義的再組織をも要求するような政綱を掲げたのである。
しかしながら、それらすべては、大部分表面だけの行動なのである。その下を掘り返してみると、われわれは、アメリカの労働運動の特徴であったものと同様なプレッシュア・グループ的意識が、政治的行動の迷路のうちに巧みにかくれながらも、しかし政治的行動の内容を規定しているのを発見するはずである。大多数の社会主義者にとっては両大戦間の全期間にわたって、そして共産主義者にとっても1923年以来、社会主義なるものは、日常行動に対して僅かの影響しか持たないような遠い目標となってしまった。彼らの実際の目的は、アメリカの組合がその成員の利益を代表するのと全く同様に、産業労働者の諸利益を擁護することであったのである。彼らは自分たちの社会主義綱領は、労働運動が完全な権力を掌握した後でなければ実現できないと考えていた。こうして彼らの日常の行動は、次のような二つの型に分類しうる目先の諸要求に限定されることになった。すなわち労働組合によって労働組合のために主張される類の社会的要求と、労働者、ブルジョアを含めての全民主的分子によって主張される類の民主的諸要求である。彼らがその手中に完全な権力を収めて、社会主義社会を創造しうる日が来るまでは、それらの諸要求こそが彼らの真の目的なのであった」(『ヨーロッパ労働運動の悲劇』上A.シュトルムタール著 神川信彦、神谷不二訳 岩波現代叢書1967)
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