「いにしへの‟恋ふ”」を想う ―「愛」や「性」の困難な時代に
- 2021年 7月 4日
- 時代をみる
- 万葉集池田祥子
コロナ禍の時代である。首都圏では、7月に向けて第5波の警告も出されている。しかし一方では、東京オリンピック・パラリンピックは、詳細は不確定なまま、ともかくも「決行」に向けて動いている。
「まずは、コロナを抑えよう!」と、一人ひとりが自粛生活に耐えているにもかかわらず、「観客1万人」を想定した大イベントの打ち上げ!・・・コロナって、本当は恐くないのだろうか、どこまで警戒すればいいのだろうか・・・「とりあえずワクチン!」のはずなのに、ワクチン接種のこの緩慢さ、計画性のなさはどうしたものか。
今の政治を眺めていると、庶民の大半が混乱するのは止むを得ないと思ってしまう。また、失業、生活破綻など、一刻を争う事態への対応も迫られているが、その他、今はまだよく見えていない多くの問題への対処が、今後じわじわと身に迫って来るのかもしれない。
その中の一つではあるが、これまでも顕著であった「非婚化」「少産化」は、さらに加速していると発表されている。もっとも、「少子化社会」を大げさに嘆いても始まらないし、これからは「少産・少子」が当たり前の社会として、もう一度、高齢化社会を支えながらの経済・福祉の新たな設計が求められているのかもしれない。
しかし、私には、「年甲斐もなく?」気になることがある。それは、職場(保育園・学童クラブ含めて)はもとより、学校や家庭内での「セクハラ」(1980年以降)という名の性犯罪・性暴力の増加、さらには「援助交際」(1990年代半ば)から始まり今や「パパ活」「兄活」「ママ活」などの名で広がる「素人売買春」(交際クラブ・デートクラブなど)の浸透である。(ただ「3蜜禁止」の現在、「パパ活」などは自粛されているかもしれないが、コロナ以降、その反動がやってきそうでもある。)
もっとも、人間の社会は、かなり早くから「人間丸ごと(働き手としての奴隷)」の売買を始め、やがて「女の性(性行為)」の売買を当然視し、社会の中に組み込んできた。もちろん、それらは、西欧から始まる近代の人権思想によって、批判され、運動化され、改善されてきた部分もある。しかし、身近な生活の場面での「強制性交=セクハラ」の日常化、あるいはスマホ片手に、「安易な稼ぎの場」としての「パパ活」などが浸透していく現状は、私にはやはり、人間のどこか深い所の「崩れ」のように思えてしまう。
道学者めいた批判も鬱陶しいだけだろうし、「買う人がいるから売る人もいる→それで何か?」・・・と冷笑されるだけかもしれないが、どこかで、もう一度「人と人との関わり」を、じっくり考えてみることが必要なのかもしれない、と私は思う。
ずいぶんと大げさなテーマを掲げながら、これまたずいぶんと遠回りの道を探っていくようではあるが、人間の原点としての「素直さ」「人恋しさ」を確認するためにも、改めて「いにしへの‟恋ふ”」のあり様を思い出してみよう。
ピーター・J・マクミランの「詩歌翻遊」よりー「万葉集」の歌紹介
偶々、先日6月27日、朝日新聞日曜文化欄でピーター・J・マクミランが、「性別に囚われない愛の形」として万葉集から次の二つの歌を引用していた。
我が背子(せこ)は玉にももがなほととぎす声にあへ貫(ぬ)き手に巻きて行(ゆ)
かむ(大伴家持)
うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む(大伴池主)
(現代語訳)
1首目・貴方が玉だったらいいのに。それなら時鳥(ホトトギス)の声と一緒に糸に
通して手に巻いて行こう。
2首目・恋しい貴方様が撫子の花だったらいいのに。それなら毎朝見よう。
その上で、マクミランは次のように解説している。
「天平19(747)年5月、越中(今の富山県)の国守だった大伴家持は奈良の都へ出張した。この歌は出発直前に大伴池主に贈った歌と、池主からの返歌である。池主は越中の家持の部下だが、彼らは公私にわたって大変親密だったようだ。」
「呼称や発想に見られる恋歌の様式は、一介の上司と部下に留まらない男同士の深い絆を表現するためにあえて採られたものだろう。実際に恋人だったかはともかく、単なる戯れではない二人の愛の深さの黙示である。」
「『万葉集』に限らず、日本の古典文学では、性別に囚われない愛の形がしばしば表現されてきた。それほど性に寛容だった日本であるが・・・」
そして、最後に次のように結んでいる。
「家持と池主が交わした文通のように、人間が人間を愛おしく思い、愛するときの情愛は、いつの世でも美しい。」
さらに「万葉集」から ― いくつかの相聞の歌
『万葉集』といえば、多くの人にとっては、中学・高校の「国語」の時間に習った額田王や柿本人麻呂の和歌など、今でも耳に残っているかもしれない。ここでは、ウイキペディアに紹介されている程度に、簡単におさらいしておこう。
日本最古の和歌集で、成立は奈良時代末期。7世紀前半から759(天平宝字3)年、約130年間に渡っての皇族、貴族、防人、大道芸人、農民、などの和歌が集められている。全20巻。和歌はすべて漢字(万葉仮名含む)で記され、大伴家持が編纂に携わったと言われる。
中でも、巻四は、全巻「相聞」の歌という。当時の「逢瀬」や「床入り」「婚姻」が「妻問い」(男が女の家を訪ねる)という形を取っていたために、互いの気持ちを「和歌」を通して伝えあい確認しあうことが不可欠だったのであろう。「愛おしい」という気持ちは「恋」「恋する」「恋ふ」という言葉で表されているが、「愛し」は「かなし」と読まれることが通常のようである(万葉集全体で、「愛(かな)し」は114語とのことだ)。
ある人を見初め、「恋しい」と思ったからといって、相手もそれに応えてくれるとは限らない。片想いに終わることも多いし、「相思相愛」になったからといって、いつも会えるわけでもなく、長い別れもあるし、「恋」自体が終わってしまうこともある。「恋」や「愛」は、基本的に「かなし」であり、それがいつしか「悲し」「哀し」へと転化したとも言われる。いや、そうではなくて、ひょっとして、初めから「かなし=愛」は「かなし=悲・哀」を含みこんでいたのかもしれない。
全巻「相聞」の歌という巻四には、大伴家持の父旅人の妹・大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)や家持自身の相聞歌、その相手の笠女郎(かさのいらつめ)の家持に贈った歌なども有名であるが、ここでは巻十四「東歌(あずまうた)」から、より素朴な相聞歌を拾ってみよう。
信濃道(しなのぢ)は今の懇道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましなむ沓履け
我が背
(現代語訳)信濃道は新しく切り開いた道です。きっと切り株に足を踏み貫いたりな
さるでしょう。沓を履いていらっしゃい、あなた。
信濃なる知具麻(ちぐま)の川の細石(さざれし)も君し踏みてば玉と拾はむ
(現代語訳)信濃の千曲川の河原の小石でも、いとしいあなたが踏んだものなら、玉
と思って拾います。
多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛(かな)しき
(現代語訳)多摩川にさらす手作りの布、そのさらにさらにどうしてこの子がこんな
にいとしいのだろう。
上毛野(かみつけの)安蘇(あそ)のま麻群(そむら)かき抱(むだ)き寝(ぬ)れ
ど飽かぬをあどか我(あ)がせむ
(現代語訳)上野の安蘇の麻群を抱きかかえるように、しっかりと抱いて寝るけれど
飽きないのだが、わたしはいったいどうしたらいいのだろうか。
子持山若かへるでのもみつまで寝もと我(わ)は思(も)ふ汝(な)はあどか思(も)
ふ
(現代語訳)子持山の若い楓の葉が紅葉するまで、ずっと一緒に寝ていたいとわたし
は思う。おまえはどう思うかね。
以上の五首。それぞれの和歌に込められている「心配り」の細やかなことよ。市古貞次・小田切進編『万葉集三』(ほるぷ出版、1987)では、それぞれに短いながらもひとこと感想が記されている。
第二首目・・・確かなのは、女の男への純情である。それが美しい。
第三首目・・・「さらさらに何そこの児のここだ愛しき」とは、まことに手ばなしの愛の公開である。
第四種目・・・「安蘇のま麻群」から「かき抱く」の連想は、麻とともに暮らす人々にとって自然なものだろう。性のよろこびを手離しで、率直に歌って、これ以上のものはない。
第五首目・・・子持山の楓の若葉の頃、彼女と愛の時を過ごした若者は、この若葉がもみじするまでこのままこうして愛し合っていたいと思う。愛の讃歌である。
ごくごく日常的に、男と女、男と男(女と女は殆ど出て来ないが・・・)の間での情愛や睦み合い(スキンシップ)の喜びや悲しみが、なんと素朴に正直に表されていることだろう。現代の「愛」や「性」を考える際に、これら、遠い昔の「万葉集」の相聞歌が、私たちの胸に響き訴えるものを大切にし、重要な手がかりにしたいと思うのだが・・・。
あまりに遠回りに過ぎるだろうか。
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