激動の20年‐「ロシア革命」-トロツキー(その3)
- 2021年 7月 11日
- カルチャー
- 合澤 清
主な参考文献:『ロシア革命史 帝政の転落』(1)レフ・トロツキー著 山西英一訳(角川文庫1930,11.14/1972)*出版年度は1931‐33で、プリンキポで書かれて出版されたもの。『ロシア革命-破局の8か月』池田嘉郎著(岩波新書2017)
*下線やゴチック体は評者のもの。また、引用文に勝手に手を加え、(…)で評註を施した。
『ロシア革命史』におけるトロツキーの総括視点―「革命と展望」
ここで再度『ロシア革命史』に話を戻したい。
歴史学者である池田は、トロツキーのこの本を「『十月革命クライマックス史観』のお手本」と批評したが、レーニンとともにこの時期の運動を主体的に担ったトロツキーにとってはどうであったろうか。さらに、略述した如き当時の激動のヨーロッパ状況(危機の20年の時代)にあって、たとえ孤島に追放の身とはいえ、まだ「命ある限り」自分の信念である「ヨーロッパ革命と連携しながらロシア革命を完遂したい」との一心で、現状の分析と過去の総括に取り組んでいる「革命家」にとって、この時代状況はどう映ったであろうか、…。
更に重要なのは、1917年当時に、レーニンやトロツキーたちの方針以外のやり方で、果たして当時の情勢を乗り切ること(ひいては「ロシア革命」)は可能であっただろうか(われわれが後から反省すれば、農業問題への無理解などによるクロンシュタットやマフノ運動弾圧の悲惨さ、スターリンの強権・独裁体制や「社会ファシズム論」のような専断によって、せっかく構築されつつあった革命的な統一戦線がずたずたに切り裂かれてしまったことなど、の要因になったことは確かである―ここで「要因」と言ったのは、かくかくの原因があれば必ずしかじかの結果になるという式の「因果論」に陥りたくないからだ)。
この論文執筆当時のトロツキーの頭に、これらのことがどこまで、またどのように思念され、構想されたであろうか。
ローザ・ルクセンブルクは、かつてかなり早い時期に、ボリシェヴィキの組織論の誤り(職業的革命家による党運営と大衆嚮導のやり方が、結果としてプロレタリア大衆からの党の遊離に繋がり、また「エキス」などのギャングもどきの資金集めをすることなど)を批判して、「レーニンやトロツキーといった優秀な頭脳の同志がいながら…」と慨嘆している。
もちろん、「ローザはあまりにも運動の自然発生性に依拠し、それを拝跪しているのではないか」という反論がボリシェヴィキから投げかけられていたことも承知している。
しかし、「運動の自然発生性」とは無媒介・直接的に何かが生み出されたことではない。実生活の困窮とか、労働条件の劣悪さ、戦場での塗炭の苦しみ、等々の要因によって媒介されて、それにたいする抵抗が生み出されるのである。しかしその本質的なものはまだ本人たちにとっては十分自覚されていない。だからその抵抗は個人的感情の域を越え出ていない潜在意識(直接反発)にとどまっているのである。運動の潜在性(即自性An- sich)と意識性(Für- sich)との意識的な(an und für sich)統一が今後の運動にとっても絶えず問題となる。
もう一つ注意すべきは、先に29年恐慌のところでも触れたのであるが、これまでの歴史において、当事主体たちの意識通りにことが進むというよりも、むしろ当初の計画(意図)から外れて「意図せざる結果」に帰着することが多く見受けられるということは、E.H.カーが『歴史とは何か』ですでに指摘しているとおりである。ヘーゲルの「理性の狡知die List der Vernunft」にも通じているように思う。
このような前置きを述べたうえで、先述した「その1」「その2」に関連する問題点をいくつかまとめて再提起したい。
1.西欧、特にドイツの労働運動との連繋による「世界革命」完遂の構想。この点では、レーニンもローザもリープクネヒト(先に引用した、1918年11月9日の演説)も同様な考えをしている。少なくともこの段階では「一国社会主義革命」での完結などは考えられていない。
2.「協議会(評議会)運動」(ソヴィエト、レーテ)/社会主義政党/労働組合の特性とこれら相互の関係。1918年のキール反乱(14項目の要求)も1931年のインヴァーゴードン反乱も、1926年のイギリスの炭労のゼネストも、更には1918年12月16日のベルリンでの第一回労働者・兵士レーテ全国大会なども、「改善要求」(その限りでは自然発生的な直接要求)が主で、必ずしも「社会主義革命」へ向けた要求ではない。また、「すべての権力をソヴィエトへ!」のスローガンは、レーニンにとってさえ、必ずしも一貫して評価されていたわけではない。
3.臨時政府の挫折によって失われた西欧的価値観(言論の自由、人身の不可侵、私的所有権、など)の意味するところのものと、ボリシェヴィキの社会主義革命のめざすもの。
4.ロシアにおいてなぜ臨時政府は挫折し、ボリシェヴィキの運動(考え方)は民衆に届いたのか(成功したのか)。ロシアにおける「いきなりの社会主義革命」着手と、そのための展望(革命方針)は、無謀だったのだろうか。なぜ、民衆はそれを選んだのか。
5.社会主義革命という「目的」をもった運動の担い手の一人として、その運動の総括をしようとする場合、「十月革命クライマックス史観」は、大いにあり得たと思う。ただ、トロツキーがそのことを自己の知として(その後にわたって)どのように対自化したのかは、彼とロシア革命を考えるうえで大きな問題となる。時代はますます「革命かファシズムか」の二者択一を迫る局面に近づいていた。
6.知的反省という場合、農民問題、クロンシュタットの武力鎮圧、マフノ運動の弾圧、「社会ファシズム論」による市民・労働運動の圧殺、更にスターリン体制出現問題、それらすべてに関連するボリシェヴィキの組織論問題、これらのことをトロツキーはどのように総括しようとしたのであろうか。「ロシア革命とは何だったのか」が問われる大問題である。
7.民衆が主体であるべき革命運動にとって、「前衛党」の役割、必要性は? 自然発生性(潜在性、個別レベルの反抗)から、組織的な革命運動にまで自己を止揚する運動の可能性が、ロシア革命という場面で意識の経験として問われる必要がある。レーニン主義の強引さが問題視される時に、同時にSPDのエーベルトの旧軍部と癒着した強引な反革命が、結局のところ1933年のヒトラー政権を生む要因になったことも併せて問題視されなければならない。
8.第一次大戦勃発と同時に、西欧の社会主義政党のほとんどが(一部の例外はあるが)、また労働組合も、それまでの反戦・平和、国際主義(インターナショナル)を捨てて、民族主義(愛国主義)に転換している。民族自決の問題と階級の問題とをどのように考えるべきか。ヒトラーのNAZIS〈民族=国家社会主義党)が突きだした問題点は何だったのか。
9.歴史における「発展史観」「歴史決定論(必然性)」にどう向き合うのか。歴史の考察においてifは通用しない。全ては動かしがたい結果としてある。しかし、それらの結果を全て「それ以外にありえなかった必然的な結果だ」として合理化し、承認することはできない。
同時にそれを批判する立場が必要である。
ここに例示した9項目がすべてトロツキーの中間総括の視点に含まれていたわけではない。むしろ、トロツキーの総括視点を包括する後世のわれわれの視点という方が正確であろう。しかし興味深いのは、『近代世界システム論』などを書いた、歴史家のイマニュエル・ウォーラステインや、ある時期のメルロー=ポンティが「トロツキスト」と「レッテル張り」されていたことである。このことを安易に笑い話ですますわけにはいかないように思う。
周知のようにメルロー=ポンティは『ヒューマニズムとテロル』(1947)を書いて急速に共産主義へと接近したが、それから数年後に『弁証法の冒険』(1955)を書いて、それまでの固定的な考え方を「前衛党神話」「プロレタリア神話」として遠ざけている。
その際の彼の思考の中心が、歴史の「発展史観」「歴史決定論(必然性論)」に起因する「道徳的責任と歴史的責任」の問題にあったことは、ミシェル・フーコーなども指摘する通りであろう。しかしルカーチはなお、『ヒューマニズムとテロル』の中に、「依然としてその精神に影響し続けているトロツキズム」を見ているのであるが。
正直なところ、上に例示した9項目は、いずれの項もまともに取り扱うには大きすぎる問題であり、この小論の中で、要約的にすら全てを網羅することは到底出来かねる。ここでは便宜上、表題に掲げた「危機の時代=危機の20年」に関わる項目と、池田嘉郎の指摘とトロツキーのこの書での総括(想起=Erinnerung)とを対照させながら、まとめる程度に留めたいと思う。
未整理、未着手のままペンディングされた問題に対しては、またあらためて意見を述べる機会を得たいと思う。
危機の20年の中で「ロシア革命」はどう位置づけられるのか
池田の前掲書によれば「根本において誤っていた展望に促されて起こったのが、十月革命である」といわれる。
この「根本において誤っていた展望」とはどういう意味であろうか? ミリュコーフとトロツキーの「ロシア革命論」に触れた個所から推し測れば、「社会主義や労働者階級の優位を前提とする」トロツキーの「図式的」議論と、「ロシアで直ちに社会主義の実現に着手するという途方もない目標」を掲げて、強引に「プロレタリア革命」にもっていったレーニンのやり方に対する批判ということであろう。しかし、著者は他方で、「だが、1917年に民衆が発揮した破壊性は、単なるその愚昧や、個々の政治勢力の悪意や迂闊さだけで説明できるものではない」ともいう。これはある意味では、「臨時政府」の中途半端な態度への批判とも考えられる。
ここでは三つの面からこの問題に接近してみたい。第一は、この時期のロシアの置かれていた状況である。第二は、「前衛党」「社会主義」「プロレタリアート」への主にレーニンやトロツキーの関わり方(考え方)の問題。第三は、民衆の視点から、これらはどう捉えられるのか、である(「社会主義や労働者階級の優位を前提とする」トロツキーの「図式的」議論という指摘に関してはあえてふれない)。
第一の問題に対して、池田は二人のロシア史研究者の視点を次のように整理しながら自説を述べている。
ロシア革命を「総力戦体制の産物」であると捉える和田春樹は、20世紀を「世界戦争の時代」として把握し、「ロシア革命とソ連こそがそうした時代潮流を最もよく体現していたと論じた」。「石井規衛は、20世紀を大衆政治の時代と見たうえで、ロシア革命とソ連は、放っておけば混乱するばかりの大衆の要望を安定させるために、ソ連における共産党の独裁や、その他もろもろの権威主義的な体制が生まれたという」。
それに対して池田自身は、「ロシア革命で滅びたもの、何よりもそれは臨時政府である。言論の自由、人身の不可侵、私的所有権…同時代の西洋がともかくも備えていたものをロシアにも揃えようという臨時政府の試みの挫折、…今日に至るまで、深い影響を残している。…もう一つは、同時代、20世紀という横軸と同程度の重みを、ロシア史という縦軸も持っている。…『なぜ臨時政府は挫折したのか』『なぜボリシェヴィキは成功したのか』…ロシアの民衆に臨時政府の言葉は届かなかったのであり、ボリシェヴィキの言葉は届いたのである。…しかし、破局の8ヶ月は、ただ臨時政府にとってのみの破局であったのだろうか」。
池田の立脚点は、あるいはカール・コルシュ張りの「レーテ」運動論をとっていたとも考えられる(『レーテ運動と過渡期社会』カール・コルシュ 木村靖二・山本秀行訳 社会評論社1971)。
なるほど、第一次世界大戦はこれまでの歴史には類を見ない規模と質の戦争であった。徴兵制という形での成人男子の根こそぎ動員、国家をあげての戦争体制(非常事態、戦時経済体制など)、それ故に戦争が長期化すればするほど兵士の、また国内庶民生活の疲弊、軋みは極限にまで達してくる。
しかしこれは特殊ロシアだけの問題ではないはずだ、程度の差こそあれ参戦国のすべての国内で実際に起こったことである。それではなぜ、ロシアでこのような革命が起きたのか。ここに池田の言う「横軸」としての危機の20年に対して、「縦軸」としてのロシアの特殊性がある。
トロツキー本人はどのように総括していたのであろうか。
当然彼はこの革命を時代の横軸だけで見るのではなく、ロシアの特殊性として、その後進性(近代産業からはるかに遅れた農業国)と、時のロマノフ王朝の専制支配とそれ故の驕慢や腐敗という要因を捉えている。そして、ペトログラードやモスクワにある近代産業の多くが西欧資本がらみの殖産に拠っていた、という。この点に、自由主義者(ブルジョア体制派)が英・仏と連合して「戦争継続」に走った要因があったと喝破している。
「(ロシアという)後進国がプロレタリアートに政権を獲得させる最初の国となったという事実、この後進国の特殊性のうちに―つまり、この国と他の諸国との差異のうちに、この謎の解決を求めることがわれわれの義務となるのである」(トロツキー:上掲書)
戦場の塹壕の中で交わされる一般兵士の生の言葉をトロツキーは紹介している。『…ところで、もしわれわれがまた塹壕の中で腐らなくちゃならんとしたら、自由なんていったい何の役に立つのか?』
戦場や国内での厭戦気分の高まり。ボリシェヴィキがこれに「平和、パン」で応えたことは大きい、と同時にメンシェヴィキやエスエル党が、先に述べたような理由から「戦争継続」政策を取り続けたことが、民衆に与えた負の影響も計り知れないだろう。
トロツキーはその頃の様子を前掲書の中で簡潔に次のように書いている。
「1916年10月、ペトログラード州憲兵隊本部は、ゼムストヴォ連盟代表の報告に基づいて、次のように言明している、『軍隊の空気は不安をきわめている。士官と兵卒の関係は極端に険悪で、血なまぐさい衝突さえ発生しつつある。脱走兵はいたるところに何十万となく見出される。軍隊に近づくと人は誰でも、軍隊の徹底的な道徳的な崩壊について、完全な、確固たる信念を持って帰るに違いない』。…銃後の空気は前線の空気と一致していた。1916年10月、カデット党大会において、大多数の代表は、人民のあらゆる層、とくに農村や都市窮民の間に瀰漫している戦争の勝利的結末に対する冷淡と不信について語っている。1916年10月30日、警視総監はその報告を概括して、『いたるところに看取される戦争に対する倦怠、講和条約の如何を問わず、ただ急速な和平の待望』について書いている」。
実際の歴史の進行は思い描いた理想通りにはいかない。全ての起こりうる要因を読み取って、それに直ちに整合的に対処することは不可能である。特に戦争や革命闘争という場面では、瞬時の決断が絶えず迫られる。ヘーゲルがどこかで書いていたが、こういう場面では理性は黙する以外になく、すべては悟性的決断にかかっている、と。
後進国ロシアでの革命運動が背負わざるを得ないこの内患、外患とのまことに深刻な葛藤は、必然的にロシア革命をある方向(当事者意識とはかなり異なった「歪な方向」)へと押し流すことになる。その一例が、「和平」を貫こうとするレーニンやトロツキーの考え方と国内外の諸利益集団との軋轢であり、象徴的には「ブレスト・リトウスク条約」問題として現われる。万事がこのように意図せざる進行にならざるを得ないということを示すため、少々長い引用でもって、この問題に一応のけじめをつけておきたい。以下は、江口朴郎責任編集の『第一次大戦後の世界』 世界の歴史14 中公文庫1975)による。
「(フィンランドに再亡命中のレーニンは)『ボルシェヴィキがペトログラードとモスクワのソヴィエトで多数を獲得した以上、ボルシェヴィキは国家権力を手中にすることができるし、またしなければならない』とボルシェヴィキ中央委員会あてに蜂起を促していた。中央委員会が態度を決定できずに動揺を続けている中に、レーニンは10月20日、ひそかにペトログラードに帰還した。
やがてペトログラード・ソヴィエトの内部に軍事革命委員会が組織され、首都の全部隊を通じてソヴィエトの命令に従うことが決定された。蜂起は第二回ソヴィエト大会開催前日である11月6日に決行されることになった。このような動きは、政府や反革命派の人々にも察知されていた。党の中央委員会で蜂起に反対していたカーメネフとジノヴィエフとは、10月18日(露暦)、ゴーリキーらが編集していた『ノーヴァヤ・ジーズニ』紙上で、「成功するあてのない、したがって党とプロレタリアートと革命にとって破滅的結果をもたらすと考えられる武装蜂起のイニシアティヴをとることに反対する」と彼らの立場を述べたが、これはおのずからボリシェヴィキの蜂起計画を公表したことになった。
11月6日早朝、臨時政府は蜂起を未然に防ぐため、戦車の軍隊を首都に召還し、ボルシェヴィキの機関紙発行所を装甲車で急襲したので、それに対抗して軍事革命委員会は兵士・労働者に蜂起を指令し、武装蜂起が始まった」。
このボリシェヴィキの「武装蜂起説」はどうも「伝説」らしい。和田春樹の最新の研究によればこうだ。
「10月革命は、レーニンが望んだような武装蜂起で臨時政府を倒したものではない。ペトログラード・ソヴィエト議長であったトロツキーが中心となって、ソヴィエトの機構への攻撃に対して防衛体制を固めるという形で、臨時政府を浮き上がらせ無力化することで実現されたのである。10月25日の朝には、首都の全ての拠点は、ペトログラード・ソヴィエトの軍事委員会に忠誠を誓う部隊に握られていた」(和田:『ロシア革命-ペトログラード1917年2月』作品社2018)
もう一度江口朴郎の前掲書に戻る。
「革命の当初には、一般の市民でソヴィエト政権が永続すると信ずる者はなかった。…ケレンスキーはコサック部隊を首都の奪回に当らせようとしたし、メンシェヴィキやエスエル党右派も抵抗を指導し、政府と市の職員は、人民委員の命令を拒否してストライキ、サボタージュをつづけ、すべての銀行はボルシェヴィキへの支払いを拒否し、しかもストライキ中の職員には資金を供給していた。鉄道従業員、郵便、電信の従業員もボルシェヴィキの輸送を拒否し、その郵便、電信を取り扱わなかった。一般の新聞の論調は反ボルシェヴィキ的であり、農民の動向も予断を許さなかった。大衆もほとんどが革命に無関心であった。このような情勢により、ボルシェヴィキ内でも全社会主義政党の樹立を主張して、11月17日、5人の人民委員が辞職し、カーメネフ、ジノヴィエフらは党の中央委員会から去った。しかし、新政権にとっては、新しい局面が開け始めていた」
「1917年11月、ロシアにソヴィエト政権が生まれたことは世界戦争にも重大な影響を与えた。平和に関する布告に掲げられた無併合、無償金、民主的平和の原則、またそれに続いて11月11日に出された『ロシア諸民族の権利宣言』で声明された民族自決の原則は、帝国主義戦争そのものを否認するものであった」
「ソヴィエト政府は、1917年11月9日、平和に関する布告に基づいて、交戦諸国による講和を無電で呼び掛け、11月21日にはペトログラード駐在の連合国大公使を通じて正式の覚書を手渡した。…更に11月30日に連合国に通牒を送って、連合国がブレスト・リトウスクにおける講和会議に参加する意志があるか否かの最終的回答を求めた。かくて1918年のはじめ、連合国は戦争の目的や平和の原則を発表することを強要される。…1月5日、イギリス首相ロイド=ジョージは、議会の演説で『われわれは決してドイツ国民の分裂またはドイツ国家の崩壊を目的とするものではない』と述べ、ロシア革命に対抗してドイツ帝政を維持させる意図のあることをも表明した。…8日、米国大統領ウィルソンは議会への大統領教書において、『14カ条の綱領』を発表した」
「ブレスト・リトウスクにおける単独講和会議は、12月22日からソヴィエト政府とドイツ、オーストリア、ブルガリアとの間で進められた。ソヴィエト政府の提案していた無併合、無償金、民族自決の三原則は、ドイツ側から全面的に拒否された。1月18日、ドイツが提案する屈辱的な講和条件をそのまま受け入れるか、あるいは会談を決裂させて戦争を再開させるかの瀬戸際に立たされることになった。…レーニンらの講和派、ブハーリンらの開戦派、トロツキーらの中間派が対立した。1月21日の中央委員会拡大会議では開戦派の主張が圧倒的に勝利したが、レーニンは熱心に党内の説得を続け、1月24日の中央委員会では、取り敢えず講和会議の引き延ばし戦術が決定された。しかし、1月30日から再開された会談は、2月10日にいたってドイツ代表キュールマンの討議打ち切りの要求となり、これに対するソヴィエト代表トロツキーの有名な『平和でもない、戦争でもない、しかし動員は解除する』との声明による事実上の交渉破裂となった。このトロツキーの声明の内には、ドイツ労働者がドイツの戦争再開を黙視するはずがない、それは却ってドイツ革命の蜂起を早めるものである、という楽観的な見通しがあった。事実このころドイツにも、新しい革命運動の高まりがあった。1月28日にはベルリンで40万人の労働者がストライキに入り、全ドイツのストライキ参加者は100万人を超えていたが、その要求の中には、無併合、無償金、民族自決による講和などの事項が入っていた」
「2月16日ドイツが休戦協定の無効を宣言し、2月18日には東部戦線で全面的進撃に転じてからも、トロツキーはこの進撃がドイツ国民に与える『心理的効果』を見極める必要があると主張して、即時交渉再開を要求するレーニンに反対した。激しい論戦の末、2月28日の深夜にレーニンの主張が通り、直ちにドイツに対して講和の受諾が打電された。しかし、ドイツ軍の進撃はとどまらず、北部ではペトログラードに迫る様相を見せた。ここにおいてソヴィエト政府は『社会主義の祖国は危機に瀕す』の布告を発し、労農赤軍、パルチザン部隊の編成、橋梁の破壊、資材の疎開などに取り掛かり、ペトログラードでは4万、モスクワでは6万の労働者が直ちに赤軍に応募した。…トロツキーは『ピーテル(ペトログラード)、モスクワの失陥も辞せず』と言い、ブハーリンは『世界革命のためにはソヴィエト政権の消滅もやむを得ない』と述べたが、レーニンはなお即時講和を主張。…3月3日、歴史的なブレスト・リトウスク講和条約が調印された。レーニンはこの講和交渉について『これは講和ではない、単なる革命の息抜きである』と語る」
ロシア革命の特殊性への一考察
先に見た1918年のブレスト・リトウスク講和会議、特に2月10日のトロツキーの発言「平和でも戦争でもない…云々」が、ドイツ革命が必ず起きるであろうというレーニンやトロツキーの期待から発せられた声明であったことは間違いなかろう、そしてその年の11月にドイツで革命(敗北したのであるが)が起きたことは事実である。
しかし、(その2)でドイツ革命について概観したように、当時のドイツ民衆は、「反戦、平和、パン」そして旧態依然のドイツ帝国体制の解体は確かに求めていたであろうが、一気にロシア型の暴力革命、それに続く「プロレタリア独裁(実際には前衛党独裁)」を容認しえたであろうか。もし民衆の多くがこのことを期待していたとすれば、少なくともローザやリープクネヒトが「全国レーテ」で代議員になれなかったはずはなかったし、またその後の繰り返し起きた全国規模でのストライキや武装闘争が統一されなかったこともあり得ないはずであろう。
民衆がついてこない革命運動は、いずれにせよ「冒険主義」的色彩をもたざるを得ず、その目的は達成できないであろう。この点では池田の指摘は適切だと思う。
活きた歴史的現実の中では、必ずしも計算通りに事は運ばない。むしろ、われわれの思い描く構図を大きく外れた結果が次々に現れてくる。実現しようとする理念と実際との乖離の中にこそ歴史はあるといえる。
しかし、こういう考え方を強調しようとすれば、どうしても「見えざる手」を前提としたある種の神がかり的な「運命論的歴史観」(それの別のヴァージョンが、先にメルロー=ポンティのところで触れた「発展史観」や「歴史必然性(決定)論」に繋がっていると思うのだが)にならざるを得ないだろう。
これは歴史を考えるうえで突き当らざるを得ない大問題である。しかし、今これ以上この問題に深入りするにはこの小論の限度をはるかに超えざるを得ないだろうし、第一そういう準備も能力もない。ここでは、評者(私)の意見のみ述べて一応のけじめとしたい。
宗教者や公式的なマルクス主義者が理想とする「千年王国」の実現が歴史の結末だとは考えない。むしろ理性の実現を目指す永続的な人類の営為(刻苦勉励)の中にこそ歴史があると考えている。多少ヘーゲルにならっていうならば、理念的なもの(例えば共産主義社会の実現)と世俗的なものの対立が極限にまで達した後、両者の和解(Versöhnung)がもたらされることになるのではないだろうか。階級闘争は、そのための一過程にすぎないとも思えるのである。以下は、評者の勝手なヘーゲル解釈である。
「和解はどちらかの勝利、どちらかの敗北によってもたらされるのではない。対立の極において、相互媒介が始まるのである。理念的なものは自己を世俗化させるために下降し、世俗的なものは自己を理念化させようと努める」。
未だここまで達観した気持ちにはなれない。
追記:実際には、「前衛党」「協議会=評議会ソヴィエト、レーテ」「労働組合」の関係に少しでも触れたいと考えていたのだが、小論の枠を超えるため、ひとまずここで擱筆する。
2021年7月8日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture1003:210711〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。