アフガニスタンと付き合った私の42年間(2) よく売れた親友ラシッドの「タリバン」邦訳
- 2021年 7月 12日
- 評論・紹介・意見
- アフガニスタン坂井定雄
1980年から、アフガニスタンはソ連軍が支援するカブールの親ソ派政権と米国が支援する反政府武装勢力が内戦状態になった。反政府勢力をアラブ諸国も支持して、次第に優勢となり、89年、ソ連軍が撤退。
90年8月、フセイン政権下のイラク軍がクエートに侵攻。湾岸危機・湾岸戦争。91年1月、米軍がイラク爆撃を開始。50万人の多国籍軍がイラク攻撃を展開して、2月28日にブッシュ米大統領が勝利宣言をした。
私は93年、共同通信社を退職、京都の龍谷大学法学部政治学科に転職した。95年から大学院では「民族・国家論研究」を担当。共同通信外信時代に最も関心を持った中央アジア・中東を主な研究地域にしようと、京都の専門書店の助けを借りて、アフガニスタンに関する書物を捜した。さすが、京都の書店で、欧米で出版されている最新の図書のリストを持ってきてくれた。そのなかでただ1冊、眼を引いたのは、英国、米国、パキスタンで94年に同時刊行されたばかりのAhmed Rashid 「イスラムか民族主義かー中央アジアの復活」だった。
すぐ、以前に別本を出版したことがある講談社の担当者に相談。出版元のロンドンのZed Books社と交渉してもらい、快諾を得て共同外信部の同僚、ロシア・ソ連専門家の岡崎哲也さんと翻訳にとりかかかった。著者のパキスタンのジャーナリスト、アハメド・ラシッドと親交を持つのは、後のことだ。日本語版「よみがえるシルクロード国家」は96年9月に発売となったが、5千部しか売れなかった。それでも、講談社の担当者は出版記念会で「次回はもっと売れる本をだしてください」と励ましてくれた。
しかし、何よりよかったのは、著者ラシッドと親密になったことだった。当時彼はアジア随一の経済・政治専門「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」と英紙「デイリー・テレグラフ」のパキスタン・アフガニスタン・中央アジア支局長をしていた。出版後、さっそくイスラムバードの彼を訪ねて歓迎してもらった。
そして、ラシッドは2000年1月に「タリバン」をやはりロンドンで出版したとき、真っ先に私に知らせてくれた。私は直ちに講談社の担当者に連絡、まもなく訳書「タリバン」の出版が決まった。翻訳は共同通信外信部の先輩でフランス語圏専門の伊藤力司さんとの共同作業だった。訳書「タリバン」は同年10月、講談社から出版された。01年3月、友人たちが出版記念会を開いてくれたとき、講談社の担当者はやはり「次回はもっと売れる本を出してください」と励ましてくれた。だが、売れ行きは次回とまったくちがった。
01年9月11日、米同時多発テロ事件が発生。翌10月、米国はタリバン支配下のアフガニスタンに大規模戦争を開始した。同12月、米軍が勝利、タリバンは壊滅的な敗北をして、パキスタンに逃亡した。講談社によると、「タリバン」の売れ行きが激増。10月末までに4万部売れたという。
その後、ラシッドとの付き合いは続いた。彼が住むイスラマバードには2回訪ね、歓迎してもらった。ラシッドは、アフガニスタン情勢を見ながら、危険をできるだけ避けて、時々、首都カブールを訪ねていた。ラシッドは日本に何回も来た。外務省の招待で訪日し、私の大学がある京都での学会にきて、講演してもらったこともある。現在は夫人の生まれ故郷のスペインのマドリードにいることが多いようだ。
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