「不敬」という言葉を社会から駆逐しよう
- 2021年 7月 12日
- 評論・紹介・意見
- 澤藤統一郎
(2021年7月11日)
私は、強権的な言葉狩りには反対の立場だ。しかし、差別用語の横行が差別を助長する効果をもたらすことは否定しようがない。人から発せられる言葉が、人々に働きかけ人々の意識を変える力をもっているのだ。差別用語を駆逐したい。ただし、強権的にではなく。
同じことは、逆差別にも当てはまる。差別用語と同じ発想で、「不敬」という言葉をこの社会から駆逐したいと思う。「陛下」も、「殿下」も、「今上」もやめよう。主権者として、余りに情けなくもあり、バカバカしくもある。
差別用語が社会に差別を蔓延させて被害者を作る如く、「不敬」や「陛下」は社会の権威化を助長し自由な発言の桎梏となる。民主主義や表現の自由を依拠すべき価値と標榜する人が、中国における共産党の神聖性は揶揄しながら、天皇の神聖性を傷付けてはならないと気苦労する図は滑稽でしかない。
ところが、ときに思いがけない人から、「不敬」や「陛下」の言葉が発せられて戸惑うことがある。最近刊の週刊朝日(7月16日号)に掲載された、室井佑月「不敬よな」(連載コラム「しがみつく女」)もその一つ。普段のあっけらかんとした室井の発言に好感をもっていただけに、驚かざるを得ない。
この記事のリードは、「宮内庁長官の『陛下が五輪で感染拡大を懸念と拝察』発言を、意に介さない菅首相や閣僚。作家・室井佑月氏は、『不敬』と憤る。」というもの。これだけで、察しはつく。室井の文章(抜粋)は、次のようなもの。
陛下はコロナ対策分科会の尾身会長から何度か説明を受けているようだし、真っ当にあたしたち国民の心配をしてくださっただけだ。そして、長官の口を借り、メッセージを出された。
しかし、この事実を認めたくない輩(やから)もいる。菅義偉首相は25日、
「長官ご本人の見解を述べたと、このように理解している」
加藤勝信官房長官も25日の記者会見で、
「宮内庁長官自身の考え方を述べられた」
といった。五輪開会式での陛下の宣言については、まだ関係者間で調整中だとも。
はぁ? 陛下のメッセージさえなかったことにしてしまえってか。
結局、この人たちの頭の中は、自分たちのことしかない。菅首相は東京五輪で国威発揚を狙い、その勢いで秋までに行われる衆議院選挙に臨みたい。あたしたち国民の命や健康を差し出した大博打(ばくち)をやりたい。
感染症の専門家の意見でさえ、聞くつもりはない。なので、陛下が見るに見かねて、メッセージを出したんでしょ。今の政府とは違って、国民のことを考えていると。メッセージを出さずとも、開会式の宣言がいまだ調整中ってことでも、わかれってものだ。
でも、このことをツイッターでちょっとつぶやいたら、「天皇の政治利用。不敬」といってくる輩がわらわら湧いてきて。
ちょっと待て。自民党政権が、平和の祭典を政治利用し、天皇陛下でさえ政治利用しようとし、それがうまくいかなかった、てのが今回の真相だろ。国民に寄り添ってくれた陛下のお気持ちを、そのまま受け取れない方が不敬だと思うけど。
結局室井の頭の中は、「国民を思いやる英邁な陛下」「その意を体することのない不敬な君側」という構造。「国民に寄り添ってくれた陛下のお気持ち」「そのまま受け取れない方が不敬」という締めくくり方は最悪ではないか。誰にも恐れ入らないリベラルな感性の持ち主というイメージのある室井にして、天皇の権威は別のようだ。あらためて、この社会の人々の意識の奥まで侵蝕している、天皇制の逆差別構造の根深さを見る思いである。だから、「不敬」や「陛下」という言葉を駆逐しよう。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.7.11より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=17193
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〔opinion11097:210712〕
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