二十世紀文学の名作に触れる(10) 詩聖タゴールの横顔― ―インドの民衆を詩歌で鼓舞した愛国者
- 2021年 8月 7日
- カルチャー
- タゴール文学横田 喬
タゴールは日本と縁が深く、生涯に五回も日本を訪問している。五十代半ばの頃の1916(大正5)年から六十代後半の1929(昭和4)年にかけてで、美術界のリーダー岡倉天心や仏教学者の河口慧海らとの親交が元だ。日本人の自然を愛する美意識を高く評価する親日家だったが、戦前日本の軍国主義は厳しく批判。1924(大正13)年の三度目の来日の際は、第一次大戦下の「対華21カ条要求」などの行動を「西欧文明に毒された行為」と咎めた。
タゴールは1861年、インドのベンガル州コルカタの名門タゴール家に七人きょうだいの末っ子として生まれた。同家は祖父の代にコルカタ有数の大商人として成長を遂げ、父は宗教家としても著名で、ヒンドゥ―教改革運動の一派のトップを務めた。タゴールは幼少の頃から自分の家の家柄を承知していたが、その活動は一部のエリート層に限られ、一般大衆の宗教心とは乖離していると自覚していた。
幼少期から詩作を能くしたが、イギリス流の厳格な教育にはなじめず、三つの学校で落第を味わう。1878年、17歳でロンドンの大学に留学して一年半を過ごすが、卒業には失敗する。留学ではこれという収穫は得られず、家庭内にあってもあまりパッとしない存在だった。父親は早く所帯を持たせようと、22歳の折の83年に当時10歳の幼妻ムリナリニと娶せる。
90年、父の計らいで郡部にあったタゴール家の領地管理の仕事に就く。初めて農村生活を経験し、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒の最下層の人々と知り合う。彼らが馴染むベンガル地方の芸能・修行者集団バウルの伝説的リーダーと出会い、バウルの歌曲から絶大な影響を受ける。タゴールは生涯に二千六百曲余りの歌を残したが、バングラデシュの国歌「我が黄金のベンガルよ」を始めバウルの旋律をそのまま流用した歌が少なくない。
詩作や文筆活動では社会の最下層の人々の知恵や文化を語り、とりわけバウルの豊潤さを世間に紹介した。自らの考えに基づく学園を創立する構想を抱き、父親が宗教の道場を開いていたコルカタ北西の郊外に1901年、野外学校を設立する。ここは21年に大学となり、さらに51年にはインド国立大学となっている。
私生活では、中年期を迎えた二十世紀初頭の十年間に相次ぐ悲劇に見舞われる。1902年に妻ムリナリニが二十九歳の若さで逝き、九か月後には十三歳の次女レヌカが、さらに四か月後に愛弟子ショティシュ・ロイが夭折する。そして、1905年には敬愛する父親が、その翌々年には末子のショミンドロナトが次々と他界した。
タゴールは「悲しみに次ぐ悲しみの中」で、詩神の我が身への降臨を待ち受ける。後年のかのアインシュタインとの対談で、彼はこう述懐している。
――人間がこの世に存在しなかったら、神は存在しないも同然。神の愛は、注ぐ相手すなわち人間があって初めて完成する。人間は世界に背を向けるのではなく、世俗の塵の中で神を愛さなければならない。
現世を神の愛の表出、と彼は見なした。仏教の「山川草木悉皆成仏」を信じ、人間一人一人の魂にアートマン(真我)即ち宇宙的な真実であるブラフマンが宿っている、と観想した。世界の多民族に見られる肌色や言語や習慣の違いも、単なる表現の「多」に過ぎない。そうした相違の奥に内在する「一」なる中心において世界の人々は出会い、結び付かなければならない、と彼は考えた。
現世肯定の精神に立脚するタゴールのヒューマニズムや社会観は、彼を現実の政治・社会問題にも積極的に立ち向かわせた。1905年、ヒンドゥーとムスリムの両教徒を二分し、民族運動の盛り上がりを阻止しようと図った英国政府のベンガル分割統治に反対。大衆運動の先頭に立ち、自治・国産品愛用運動を指導した。この当時、彼は数々の愛国歌を作詞・作曲するが、それらはどんなに民衆の心を鼓舞したことか。
タゴールはマハトマ・ガンディーらのインド独立運動を支持した。ガンディーに『マハトマ(「偉大なる魂」の意)』の尊称を贈ったのはタゴールだ、と言われる。彼はまた、フランスの文豪ロマン・ロランやアインシュタインら世界の知識人との親交も深かった。
私は五十代半ばの頃の三十年ほど前、正月休みを利用して北インドの各地を十日余り旅行している。旅行社などに厄介にならず、ガイド本「地球の歩き方(インド編)」一冊を頼りに出たとこ勝負を決め込む無茶な独り旅だった。タゴールの故郷コルカタからデリーまでの乗降自由(二週間以内)というインド国鉄の乗車券一枚を手にしてである。
仏教へのかねての関心から、利用する鉄道沿線の近くにあるブッダガヤとサルナートの聖地二カ所を覗いてみたかった。サルナートの傍のベナレスはヒンドゥー教の聖地だし、デリーの手前のアグラにはイスラム文化の世界遺産タージ・マハルがある。仏教とヒンドゥー教・イスラム教との文化的相違を肌で感じてみたいという強い思いがあった。
結果は、ほぼ予想していた通り。ブッダガヤでは数々の仏教遺跡などから強い感銘を受け、「その昔、釈迦はこの世に間違いなく実在した」という確信を抱いた。バックパッカーなど庶民が利用する安宿を泊り歩き、インドの下層の人々の暮らしに間近に接することもできた。この貴重な体験を通じ、私はインドの風土と民衆の素顔が好ましく思えるようになった。
タゴールに戻る。1941年、彼は八十歳で死去した。生誕百年に当たる61年、東京のタゴール記念会が文集『タゴールと日本』を出版。生誕百二十年に当たる80年には学者や出版人有志により、長野県軽井沢町碓氷峠の見晴台に「タゴール像」(作:高田博厚)が建立された。背後の壁に「人類不戦」の四文字が刻まれている。
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