「ワクチンと医療危機 全ての鍵は<人間>である 我々は 次の社会を考えるべきだ」
- 2021年 8月 30日
- 評論・紹介・意見
- 小島四郎
はじめに
8月8日、人々の予想した通り、オリンピックはデルタ株の感染爆発を残して閉会した。加えて終了時には隠されていたペルー発の変異株=ラムダ株まで土産として残した。今や遠い昔に思える7月初めに、政府は4度目の緊急事態宣言を決める際に「東京都を起点とする感染拡大は絶対に避ける」と断言していた。この約束は守られなかった。デルタ株と<命>を賭けて格闘しているのは、バッハや菅でもなく、ましてや小池でもない。患者であり医療従事者であり、自粛という行動制限を強要されている「国民」である。医療危機は、緊急事態宣言の初期(20年5月)から今日まで指摘され続けてきたが、第5波の中で事態はより悪化し、一部新聞では医療「放棄」がまことしやかに囁かれている。実際、既に悲しい出来事も起きている。8月17日に千葉県柏市で新コロナ感染の軽症と診断されて「自宅療養」中の妊婦女性が、余儀なく医師不在のまま自宅出産をし、新生児は病院へ搬送されたが死亡した。
オリンピックから半月も過ぎずに、デルタ株による第5波が首都圏を中心に列島全体を襲い、感染症患者の7万人以上が「自宅療養」という医療放棄-自己責任に陥った。日本の医療体制は崩壊したと言える。今、我々の眼前で進む医療崩壊・或は放棄は、病院で助かるはずの命を自宅で落す事であり、この「国」が世界に誇る「早期発見・早期治療」を可能にして来た国民皆保険制度の破産を意味し、医療体制の抜本的革命的改革を不可避とする事態の到来を告げている。
新コロナ狂騒劇から人々は目を覚ます時期が来た。この先にあるものは、衛生と治安の為の緊急事態の常態化と膨れ上がった財政赤字解消を理由にした大幅消費増税なのか、国民皆保険制度と人権を守り、新たな社会制度を創っていくのかの闘いである。
ワクチンは未完成 医療体制は危機から崩壊へ(1)
ワクチンは新コロナ対策の「切り札」(菅)だと政府は、位置付けて来た。確かに米・EU諸国やニュージーランドやイスラエルでは新規感染者数は減り死者も減った。しかし、一時的な事であった。英国の公衆衛生庁は、7月11日に6万人以上の観客を集めた欧州選手権決勝の試合会場とその周辺で、3404人が新コロナに感染したと発表したように、この日を境に一日平均3万人以上の新規感染者を記録している。米国でも4月28日にバイデン大統領が施政演説の中で、新コロナ対策について「我が国がなし遂げた史上最大の成果だ」と誇り、7月4日の独立記念日までに「(コロナ)前の日常に近づける」と語り、感染規制を緩めた。それから今日まで一日の新規感染者が10万人を大きく上回っている。つまり、ワクチン接種したから免疫が出来た、と安心は出来ないなのだ。ワクチンの種類は、英国がアストロゼネカ、米国が7月以前まではファィザーとモデルナの二種で、今はJ&Jも加わり三種であるが、どれもデルタ株の爆発に効果ある対応を果たし得ていない。この大きな原因は、ワクチンによる免疫抗体の期限が明確になっておらず個々人によって期限が異なる点にある。
これは賞味期限を明記していない食品を買う様なもので、現在使われているワクチンは未完成品=開発中の薬であり、それを承知で多くの国はメーカーに発売・使用許可を出している。未完成品のワクチンが商品化流通に乗り、貧困国や貧困地域を除く多くの国・地域での接種が進んでいるのだ。しかも、デルタ株という強力なウィルスやラムダ株が発見されたり、ウィルスの新しい変異株が次々と現れ、メーカーも政府も対応しきれず混乱している。だからこそ、二種混合だとか三種混合のワクチンだと騒ぎ慌てる前に、今使っているワクチンの性質を考え限界を見切るべきなのだ。
安心安全から考えると、コロナワクチンには不可解なことが多すぎる。遺伝子操作によるこれらのワクチンを称して「ワクチンプラットホーム」と呼ぶそうだが、ホームの歴史は浅く解明されていない部分も多い。①ワクチンの長期安定性や②現に米・EUやワクチン先進国のイスラエル等で起きている免疫抗体の有効性⓷また免疫衰退期に感染した場合の有効性、等は未解決であり今後に委ねられている。更に、製造方法と治験者数と対象年齢とエリア、その結果の詳細な情報公開もしないまま、ファィザーなどのワクチンは、新コロナパンディミックを理由に日本を含め各国政府が政治判断による「特例承認」品として承認し流通させているのだ。こうした政治の臭いがプンプンするのがこれらのワクチンである。実際、7月にはファィザーの米国での正式承認は2022年春と予想されていたが、バイデン政権の意向を<忖度>してかFDA(米国食品医薬品局)は、年明けを待たずに8月23日に正式認可をしている。
厚労省のワクチン認可の条件 医療危機(2)
この「国」でのワクチン認可はどうか。世界の流れと違うのか。それとも同じなのか。採用し使用しているのは主にファィザーとモデルナとアストロゼネカの三種である。これらのワクチン認可に際して厚生労働省は、次のような条件を付けているのか。ワクチン「効果の持続等を確認するために、臨床試験が継続されています」と。つまり、認可したワクチンはフェーズ3段階ではあるが、臨床試験中である未完成品であると述べているのだ。厚労省の薬品審査管理課の公式文章では、もっとわかりやすく直截的表現になっている。
新コロナ用のワクチンは、医薬品医療器等法第14条の3第一項の規定に基づき承認された特例承認品目であり、「承認時において長期安定性に係わる情報は限られているため、・・・製造販売後も引き続き情報を収集し、報告すること」。また「現時点での知見が限られている」から「安全性に関するデーターを・・早期に収集するとともに必要な措置を講じること」。この文章は、許可した政府、また推薦した感染症専門家たちでさえ、ワクチンの安全に自信がなく、何かあれば情報を「収集」せよ、副作用への「必要な措置」は現場で「講じろ」と、手前勝手な姿勢に貫かれている。せめて、これまでのワクチンでは想定しなかった事態が発生するかもしれないが、最終責任は国が取るというぐらいの覚悟を示して欲しかった。
これだけを読んでも腹が立つのは、ワクチンの「長期安定性に係わる情報は限られている」と危惧を表して将来への危険を排除できないと認知している政府や専門家が、新規感染者が若者の間で増大しているのを理由づけにして、意図的に若者への接種を声高に叫んでいる事である。若者の未来を犠牲にしつつ、政府は人々に接種率のアップによる社会的抗体の形成という神話を振りまき、新コロナ対策批判を封じ込めていこうとしているのだ。これは国家的詐欺行為である。接種から長期期間が過ぎて副作用が現れても、その時は政府や官僚のお決まりの逃げ口上である<因果関係が証明されない>と言いつつ逃げ切るつもりなのだろう。しかし、随分と人の命を舐めた態度だし、許されない。若者よ、怒れ。
医療体制危機は第4期 皆保険制度の解体へ
話を元に戻そう。この厚労省の「報告」の縛りは、新コロナ対策特措法の14条にも「病状の程度その他の必要な情報の報告」と書き込まれているように、ワクチンの打ち手だけでなく、PCR検査を受け付け検診を行った医師や病院も対象となる。ましてや治療を行った所は絶対的である。結局、「収集」「報告」をスムーズに運ぶには、保健所経由という細くて唯一といっても良い道を選択せざるを得ないのである。この事が、当時から現在に至る医療危機の基底的原因になっているのだ。というのも1995年に保険法が地域保健法に変わり、以来保健所の統廃合は大々的に行われ続け95年時には845か所あった保健所は、2020年には469か所へと縮小されていた。当然、人員も17千人体制だったものが12千人体制へと削減されていたのである。そして今も、削減・縮小の方向は変わっていない。言わば、脆弱化した組織に過剰な負担を押し付けているのだ。保健所の危機は、医療危機が叫ばれる前に指摘され対策の必要が問われていたのに放置したままなのだ。これでは、医療危機を医療ベッドの確保だとか、酸素ステーションの設置とかいろいろアイデアを出しても、肝心なパイプが中継点が指揮所が詰まっているのでは全てが動かないし、危機は崩壊へと向かわざるを得ない。
新コロナと医療の2年を少し振り返る。2020年3月に成立した「新コロナ対策特措法」は、新コロナを「指定感染症」1類型から3類型と指定している。それに基づき、医師が新コロナ感染患者や無症状陽性者を診断した場合は保険所に届け報告し、保健所はそれらを定式(HRSYS)に沿って入力し上部(最終的には厚労省)の行政組織へ送ることが義務付けられている。しかも、保健所の仕事は、これ以外に患者の実際的な入院手配も行う指揮所であり中継点でもあった。
新コロナ対策特措法の国会審議過程での論議がもう少し時間をかけ丁寧に積み重ねられていれば、またワクチン認可の際に「情報収集」「報告」の義務について様々な事態を想定していたならば、新コロナのデーター収集の簡略化と診断・治療・接種のオープン化が考えらえただろう。また、20年5月に当時の加藤厚労相が「37・5℃以上4日以上続いた場合」発言は、あくまで受診の「目安」という無様な言い訳も無かっただろう。
少なくとも、新コロナが3類型までの指定感染症であった時に、保険所の過剰な仕事量を軽減すべく、医師・医療関係者の広くて実務的協力を取り付け、PCR検査の大胆な導入による「早期発見、早期治療」の医療体制作り目指されていれば、今日の様な深刻な医療危機は回避できた筈である。
しかし、オープン化する機会はこれ以降もあった。いわば最後の機会だったと思えるのは、21年の特措法改正時であった。この改正は、「まん防重点制度」の導入で知られているが、実は特措法では新コロナを「指定感染症」という1類型から3類型を対象とした広い枠であったのに、1類型に限定することで、診断希望する人々を診断・治療する病院を一層特定化した。これが「Go toトラベル」という感染緩和策による新規感染者の急増によって受診希望者が感染症指定病院という限られた窓口に殺到し診療不能状態を生み、第2次医療危機を生んだ。同時に保健所でも累積した業務が過剰となり破綻的事態をも引き起こした。
第3期は、ワクチン接種の本格化によって生まれた。22年に入り欧米各国がワクチン接種を始めたのに続いてこの「国」でもワクチン接種の体制作りが急がれた。だが新コロナ患者の場合と同様に、保健所経由でのワクチン「情報の収集」に拘り改善されることもないまま推移していった。これでは、スピード感ある欧米のワクチン接種に比べ、接種の遅れ接種率の低さが出てきて当然なのだ。
今、起きている医療体制の糞詰まり状態による「医療危機」は、新コロナ特措法以来のものであり、それがここにきてワクチン接種の増加によって完全に破綻し、遂に「自宅療養」という医者の治療放棄に至った。
推測ではあるが、診察・治療・ワクチン接種その度毎の「報告」の義務は、医療崩壊を救いたいと意欲があっても感染症担当経験者以外の医師・医療関係者には荷が重く腰が引けるだろう。大型集団ワクチン接種や職域接種の場合では、「報告」をどうしているのか分からない点もあるが、従来通りに医者や医療関係者が保健所への「報告」義務を果たそうとすれば、例え実際には保健所の人に書いてもらうとしても、書式や内容や勘所を知らないと時間だけが食われ、肝心な受信希望者や感染者への診断・治療の時間が減ってしまう。
今からでも、医師による保健所への「報告」、保健所の報告文の完成・送付の「義務」を一時的(特措法の期限は一回2年であり、それを過ぎれば拘束性も失われるし、せめて今の緊急事態宣言に限定しても)に解除し、1類から3類までの指定感染症に戻さないと、一日1万~2.5万人以上の新規感染者に対応できない。コロナ感染症医療だけでなく通常医療も連鎖崩壊する可能性が高くなる。既に、起きている。
ほんの少しでも立ち止まるべきだ。何故、厚労省は「データー」と「報告」に拘り現場に要求するのかを考えて欲しい。理由は簡単なのだ。ワクチンが未完成品だ。だから、政府は独自情報を得たいし、またどこまで共有するのか分からないがメーカーとの情報共有の約束があるからだ。
8月17日に政府は、今の緊急事態宣言を8月末から2日から9月12日までの延長を明らかにした。緊急事態地域を新たに7府県を加え13都府県に広げ、まん延防止措置対象も増やすと述べた。その舌の根が乾かない24日には、菅は25日に更に緊急事態地域に北海道・愛知など8県を加え、まん延防止地域に佐賀、宮崎、長崎と高知の4県を加え閣議決定を行うと加えた。
しかし、デルタ株を主力にした感染の大流行は収まる気配はない。7月末の緊急事態宣言の際には、8月中にはワクチンの二度接種率を40%台にのせて社会的抗体を作ると超楽観的な数字を掲げたていたが、政府の支持率が低落する中では、若者たちが接種に喜んで応じる気配がない。デルタ株が主流という状況では免疫の有効性と期限の問題もあって、現状の様な接種率40%では社会的抗体は出来ない。
同時に7月の緊急事態宣言時に、政府は議会の審議・議決もないまま、国民皆保険の土台を壊した。自宅療養と偽り「動脈血液ガス分析」検査を自宅待機者に強制したり、「戦時療養」と称して緊急処置だけで自宅待機者を放置している。「自宅療養 首都圏18人死亡」(朝日新聞)という見出しに、気が潰れるのは私一人だろうか。
ここまで医療が壊れてくると、医療体制の再編より、PCR検査を徹底的に推し進めるべきである。あの<ぼったくりバッハ>でさえオリンピック中にPCR検査をもっとしてくれ叫んでいたそうだ。そうして感染者の「早期発見、早期治療」の原則を直ちに復活すべきなのだ。かつては「新型コロナ・ウィルス感染症対策分科会長」を務めている尾身茂も感染拡大を抑えるには「PCR検査の徹底」しかないと叫んでいたのだが、不思議にも現在はPCR検査について一言も喋らない。とにかく、何をどう政府等が屁理屈をつけようが、事実上の自宅療養という医療放棄は即刻<止める>べきだ。
全てが行き詰まり状態の政府や行政にとって次なる手立てとして囁かれているのはロックダウンである。しかし、これが成功した例は中国以外にほとんどない。ロックダウン好きの英国ジョンソン首相でさえ「あまり効果がない」と言っている。政府は新コロナを抑え込む目的ではなく、戒厳令の行使のサンプルとして経験したい黒い野望のために、隙あれば大規模なロックダウンを実験したいのだ。そのためには、憲法の尊重を重視する20年の特措法の抜本的改定=改悪が必要であり、国会再開となれば菅政権が火だるまになり退陣へと追い込まれる危険があり、踏み出せないのだ。
ワクチンについて、政府が未完成品を承認したのは許しがたいと力むつもりはない。問題は、政府はその事をキチンと説明せず、効果のみを声高に伝えて来たことである。まるで東電が福島の住民に原子力の安全・安心の神話を説いてきたように。ツケを払わされるのは、いつも「国民」と呼ばれる我々自身なのだということである。
医療崩壊・放棄が現実となっている。しかも、幾度も宣言される緊急事態の中で、「国民」の命に関る問題を国会で討議していく慣習も、二年間ですっかり希薄になってしまった。二年間で分かったことは、政府は情報を独占し河野に象徴されるようにふんぞり返って断言調で喋るが、実は中味の少ない数字合わせのホラばかりであったこと。むしろ政府は、新コロナの早期収束より、<命と暮らしを守る>というスローガンの下に緊急事態宣言の長期化による憲法外体制への「慣れ」(アガンベン)を通じて、立憲主義の放棄と危機管理型政府独裁体制つくろうとしている事だ。
ワクチンは万能ではないー社会的免疫力は作れない 限界を意識すべき
英国のジョンソン首相は新コロナ対策で最重要視して頼ったのはワクチンであった。一時、ワクチン効果は英国を初め米・EUそしてワクチン先進諸国において新規感染者死者数は大きく減少し死者数も減った。しかし、英国は新規感染者数が急増し死者数も6月の一桁から三桁に増加している。三度目の接種(ブースター接種)も始めている状況だ。これに対して、菅首相はこの間、一億回以上の接種をしたと得意げに報告したが、既存ワクチンの三回目の接種が欧米諸国で始まる中では、ワクチンへの危機感の無さを露呈しただけであった。人々も何を今更寝ぼけたことをほざいているのか、という冷ややかな反応であった。
ドイツのワクチン事情を知れば、政府への信頼が接種率向上の絶対的基礎であることが分る。最近での首都圏の新感染者数の爆発的上昇やオリンピックによる人流の増加をよそに菅が「人流は減少している」と、見え透いた嘘をついたのが忘れられない。また、政府肝いりのオリンピック組織員会も弁当4000個投棄(投棄は、数は異なっても数度にわたり行われ、金額は1億円を軽く超える)といったコロナ禍での貧困者の心情を逆なでする行為をしたり、開会式組織過程で明らかになった障がい者差別や虐めという人権問題を個人責任に転嫁し辞任させることで通過しようとしたことも記憶に残っている。何よりも同委員会が人々に完璧な感染予防を約束しながら、選手や関係者が同行者なしでオリンピック村を出歩いていたことは、約束違反・嘘つきと糾弾されて然るべきである。バブル式感染予防による安心安全は名前だけであった。
こうした事が重なっては、長期安定性に危惧のあるワクチンの接種率のアップは望めない。そこで政府は、オリパラ参加者や企業のために、欧州の「グリーンパスポート」と同じような接種終了証明書の発行検討を発表した。これは、ワクチン接種率のアップのために、自己のワクチン管理能力の無能さとワクチンの限界を棚に上げて、若者をコロナ無自覚者(悪者)に仕立てて批判すると同時に、接種しない人・出来ない人も批判し、人々からワクチン選択権を取り上げる仕掛けである。接種の可否で人々を差別・分断し、移動の自由を奪い、人権をも奪う、重大な民主主義への敵対行為であり、そのためにオリパラをも利用する質の悪さである。
新コロナ対策として社会的免疫を作ることは必要であるが、それにはまずワクチンの安全性に関わる情報の公開が不可欠であり、政府が-特にリーダーが人々に信頼されているか否かが要である。そして何よりも大事なことは、一人一人が人類というか人間の歴史と経験の中で蓄積した自己免疫力に依拠し、ウィルスの動きに「人間」(フーコー)を解体されない様にせねばならない。強制的に接種率を上げようとすれば、先に示したようにワクチン自体の信頼性への限界もあるし、一方で、人々をいよいよワクチン接種から遠ざけ、何時か来るフェィドアウトまで待機させることになるか、他方EU諸国での接種反対行動の爆発に促されて、<選択する自由を守れ、行動の自由を分断するな、行動の自由を守れ>との大衆行動へと進むだろう。
はっきりしている事は、三回目の接種(ブースター接種)に際して、二種混合だ、三種混合だと騒いでいるが、そのワクチン効果は不明であり、むしろ既存ワクチンのひ弱さと医療の短見と混乱を露呈しているだけだ。また、このコロナ禍で亡くなった430万人の殆どが、生死を巡る医者と患者の<相互的>主導性を近代以前へと戻し、患者の命を医者の独占支配へと委ねることに回帰させたことへの反省がない限り、実効性のある社会的免疫は作れないだろう。国民の40%以上のワクチン接種があれば社会的免疫は形成できるという現時点での常識は、医者及び政府と患者(人々)との間に人の命のリスペクトがあって初めて可能になる数字のマジックではないのか。
鍵は「人間」である
そこで我々自身、もう一度ウィルスとは何かという問いに立ち戻り、ウィルスを「正しく恐れ・理解せよ」(西村秀一)との提起を受けとめていく必要がある。
例えばペストだ。ペストは地上から消滅したのではない。一部の地域では毎年のように発生している。しかし伝染力は格段に抑えられている。それは、各種抗菌剤の発明による成果に負う所が多い。しかしそれだけでなくペストとの攻防の歴史で人間自身に自己防衛の免疫がつくられてきた為でもある。これに習えば、二年以上わたり二億人以上の感染者を生み、死者も430万人に上っている新コロナ感染状況も、現在の主流がインド型デルタ株という強力な感染力を持つタイプへ変わり、一部の地域や国で爆発的な新規感染者数を記録していると大騒ぎをしているが、それでも21年4月18日に米国単独で87万人を超えた様な爆発的増加の局面ではないし、死者数も数字に高低の波がありつつも平均するとほぼ横ばいの状態と言える。勿論、これからピークを迎える国や地域もあるかもしれないし、この列島がその一員なのかもしれない。世界は新コロナの<峠>を迎えつつあると判断しても良いのではないか。<峠>まで来た最大の要因はワクチンであるが、今そのワクチンの限界も明らかになってきている。<峠>を超えるには、人間が持つ免疫力に依拠した自己力が問われているのではないか。ワクチン接種が新規感染者数の増大や死者数を抑えていると考えるワクチン主義者には、いささか奇異に思えるかもしれない。しかし、免疫を自己力でアップさせ新コロナに向かい合うのは、「奇異」な事でも、精神主義でもない。
イスラエルやNZの様に、いち早くワクチン接種をした国の人々の多くが免疫有効期間切れの為か、形成した免疫が新種のデボラ株に対し非力の為か、新コロナが再流行し、ブースター接種が行われているのは何故か。それは、繰り返し述べて来た現行ワクチンの構造的問題なのだ。ワクチン研究の進捗は著しいと聞くが、いつ現行ワクチンの超えるワクチンが出来るのか。その保障はない。それまで既存のワクチン接種者は、免疫がいつ切れるのかの不安に怯え、かつ新たな変異株が発見される度に恐れ、その都度ワクチンを接種するのか。数年間はそうした生活を続けねばならないのか。かかる生活の継続は、不可避的にワクチンの副作用などを検討し接種に慎重な人々や疾患があって接種できない人や遺伝子組み換えワクチンを意志的に拒否する人々に対して不寛容になり、反ワクチン派として区別し排除して社会を動かしていこうとする傾向を強める。しかし、本当にそれで良いのかと問わざるを得ない。明らかな民主主義の否定であり、憲法25条の否定であり、一人一人の生きる権利への敵対ではないのかと。
ワクチン効果の強調はウィルスとの「共生」という人類史以来の関係に不可逆的な対立を持ち込み、「戦争」「闘争」といった概念を煽り、危険な遺伝子操作ウィルスを人体に植え付けていく事になる。実際の所、ファイザーやモデルナのⅿRNAワクチン(mメッセンジャー)やアストラゼネカのウィルスベクターは、共に比較的新しいウィルス研究の成果である。ⅿRNAが自然免疫が活性化するために抗原たんぱく質の人為的産出を促すのに、ベクターは遺伝子組み換えウィルスでありヒトゲノムに介入して、免疫能力を高めていく、違いがあるという。共通しているのは免疫力を高めていく事である。しかし、それはどのくらいの有効期間なのか、その後はどうなるのかは不明であり、むしろ一定期間を過ぎると免疫力を弱めたり、がん発生を促したりするのではとの意見もある。私は、人間体内に存在しないまたは消化できないウィルスは、将来的に必ず体の異物排除の動きと対立し、人間に負の作用をもたらすと考える。
既成ワクチンの構造的限界も分かりはじめ、公衆衛生学的ルールもどこまで合理的なのかも分かりにくくなっている。だからこそ、我々は人類がウィルスを体内に取り込みながら免疫力を形成し生き抜いてきたことを忘れてはならない。人々は多様な免疫細胞を体内に持ち、それらが免疫原性としてガン細胞等の進攻を阻止している。新コロナに直面しても、類的存在でありかつ歴史的な個体であることを自覚し、免疫力という自己防衛システムを最大限活かすように務めねばならないだろう。
どう免疫力を高めるのか。ウィルス学を別にして、生理学的栄養学的話は山ほどある。適度な運動、十分な睡眠、栄養のバランス、入浴などが数え上げられる。しかし、我々が出会う人たちは、栄養不足で睡眠できる場所もない、入浴など忘れている。連帯したい遠く海外にすむ人々にとって、生理学的栄養学的な指標はほとんど絶望的である。我々の免疫力アップは、現在の免疫学から見捨てられた人々とのネットでの情報交換や共同行動であったりする。社会的免疫力は、一人一人やり方は違うかもしれないが、人々の繋がりであり連帯であり共に喜び笑い泣き嘆くという体験の共同作業によって高まるものだ。二億人以上の感染者の周囲にはその数倍の人々がおり体験を共有していると言える。我々は歴史的社会的存在者であり、社会関係の豊かさや人との繋がり連帯の広がり、他者との触れ合いや社会的共助への取り組み等による自―他の共振に依って社会的免疫力をアップさせていくのだ。ドイツのメルケルは人々に正直に要求し正直に謝ることで信頼を得ており、他方フランスのマクロンは「接種済みパス」を発行し、人々の分断と移動の自由の取り上げて「かつての日常を取り戻す」事は、若者を中心に激しい抗議行動巻き起こし一層の社会的混乱を生み、信頼を失い、社会的免疫力のアップを困難にしている。
繰り返すが、二年間に二億人以上も感染した新コロナ・ウィルスが人類の歴史的に蓄積してきた種としての防衛生命力を引き出し、感染者の周囲にいた個々人の免疫力をいつの間にか強化し社会的免疫力のアップに寄与していると考えるは、不思議なことではない。未完成なワクチンに依存しきらず、勿論軽視はせずに、身体の自己防御力―免疫力にもっと注目すべきである。
新コロナと新自由主義
同時に考えねばならない事は、新コロナが新自由主義的「儲け第一主義」によって資源の乱開発が起こした人為的災害であり資本主義ゆえの災害であることだ。それは、医学界を金儲け主義に走らせ「命の軽重」を金で計る策が重用され、感染症医療資源をとことん枯渇させたイタリアやスペインからパンデミックが起きたことは必然であった。忘れてはいけない事は、新コロナが集中的に貧しい人々と基礎疾患者をリンクさせて襲い、また労働者権利の弱い非正規・現場労働者の多数を犠牲者にし、貧困と差別と分断を拡大していったことだ。また「金儲け第一主義」が地球環境を破壊し、気候変動を要因とする大洪水や山火事等の災害や、農水産業での資源枯渇を誘発している。つまり、新コロナは感染を通じて資本主義の残虐ぶりと核心的矛盾をくっきりと描き出したと言える。新コロナによる資本主義批判だ。
だからこそポスト・新コロナに備え、新コロナ禍と資本主義批判を結び付け、自分なりにかみ砕き、己のものとして実践すべき時期が来ていると言える。宣伝会社を手先にして危機を煽るだけの政権の言葉を打ち捨てねばならない。
次の社会を考えるべきだ
新コロナが世界を覆いパンデミックと認定された時に、ニューデリーからヒマラヤが見えると報告した記者がいた。人々が日頃から無意識的に地球環境を酷く痛めつけていることに気づかされた瞬間であった。それは、福島第一原発爆発が東京人に使用電力の源を教えた時と同じような衝撃でもあった。
普段、自分が何者であるのか、どう生きているのか、を考える余裕もなく、日常生活を過ごしている。そして、地球に何が起きているのかも気が付かない。新コロナを含め原発事故や激発する大災害が起きてようやく気付かされる。「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」(ゴーギャン)と。
衝撃の原因は資本主義の過剰生産・大量消費にあり、その体制的転換が問われているのであるが、と同時に一人一人が自らの足下の日常的価値観・生活観・行動様式を見つめ直す機会を与えたとも言える。新コロナに学んだ事を生活・生産の具体過程に適応させていくのだ。その核心的ポイントは、資本主義生産様式の核心であり産業エネルギーの源である化石燃料を止めて、エネルギーを地球に優しいクリーンで再生可能なエネルギーへと転換を図ることである。第二は、資本主義がもつ近代的価値観との決別を可能な限り具体的に推し進めていく事である。
1970年代にポスト近代とか脱構築という歴史及び社会観の改革運動が起きた。今では多くが忘れられているがミッシェル・フーコーの仕事は今も健在である。彼は自力で生権力論にたどり着き、それを軸に医療体制の生支配を問題化し、医者と患者の相方向を可能とする医療体制への転換を提起した、と同時に社会運動にも深くかかわった。彼が果たした仕事は資本主義支配の皮を最後の甘皮まで剝がしていく事であった。新コロナ禍は、国家と資本の感染症への態度と治療過程での専門家たちの生権力行使の独善性に、拝跪するか慎重になるか拒否するかは一人一人の判断によるとして、誰しもが気づいた。医療体制の改革から近代的価値観批判が本格化するのかもしれない。学校教育も近代の偏差値能力主義から、生と性を重視し誰にも生きる権利はあるという教育への転換が、具体的には学校授業の見直しとクラス人数の25人以下へ進むはずだ。
この国の近代以来の資本主義がつくり上げて来た制度・組織の改革は、欧米諸国に比べて大きく立ち遅れており、戦後改革も大きな成果とほぼ手つかずに法制度特に刑法など未改革のまま放置された諸領域も多くある。また戦後解体された軍事組織も復活し今や24万人の常備軍を抱く一大軍事組織にまで膨張しており、警察も各都道府県に属しながら警察庁・警視庁に統括され、民事不介入もいつの間にか崩れ、治安維持法に加え共謀罪法・秘密保護法・土地収用法など人民弾圧の武器も整えている。これら組織をどう再編するのかは資本主義批判の重大事でもあり、近代民主主義が英米仏諸国らの暴力的世界支配によって支えられて成立し普遍化し継続してきた世界史的な構造的矛盾をどう解消していくのかとの課題でもある。詰まる所は、憲法前文の目標をどう実態化していくのかということだ。全国レスキュー部隊へ分割や縮小・解体など様々な意見・プランがある。
既に二年間で、多くの人が新たな生活様式の為のアイデアを持ち、実践している。ここで、あれこれ細かく書くこともない。要は、新たな生活様式をいろいろ実践する中で社会の連携・共同性を強め広げていくのである。こうした目的意識性がなくては、新らしい生活規律は達成できないだろう。それは、ポスト・コロナはコロナ前の世界の再現・発展であってはならない。我々がなすべきことは、資本主義の生活様式を批判的に改革-脱構築しつつ、資本主義に終止符を打つための極めてリアルな諸行動を積み重ねていくことである。経済を動かす為の新コロナとの<共生>なら、それは資本主義に我が身をゆだね灼熱地獄へ堕ちる道であると断言する。
(了)
2021.08.24
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion11252:210830〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。