二十世紀文学の名作に触れる(12) 『魔の山』のトーマス・マン――反ファシズムを貫いた文学精神
- 2021年 9月 10日
- カルチャー
- トーマス・マン文学横田 喬
近代ドイツが生んだ大作家トーマス・マンは、戦後の日本の作家たちに少なからぬ影響を及ぼした。私は新聞記者当時にそれを北杜夫さんや辻邦生さんらから直接耳にしているが、それ以外にも愛好者は多かったようだ。マンの文学作品の主人公は、人間愛とヒューマニズムへの道を愚直に模索し、理不尽なものに対し懸命に抗おうとする。その姿勢が日本の作家たちに強い共感を呼んだのでは、と私は推察する。
彼は1875年、北ドイツの商業都市リューベックの豪商の家の次男に生まれた。マン家は18世紀以来、この地で家柄として知られ、祖父も父も市の要人として通る名望家だった。両親とも読書家で、彼は国内外の小説など多くの書物に触れて育ち、早くから詩作を始める。16歳の時に父が死去し、彼は高校を中退。一家は豪邸を処分し、南部のミュンヘンに移る。
その辺の顛末は彼の自伝的作品『トニオ・クレエゲル』(1903年発表)に詳しい。「クレエゲルの古い一門は、次第に脱落崩壊という状態に陥ってしまった。(中略)人々がトニオ自身の性行をも、同じくこの状態の徴候に数えたのは、もっともなことだった。」(実吉
捷郎訳・岩波文庫)とある。
1893年から彼は火災保険会社で働く傍ら、小説の執筆を始める。三年後、自身の家柄を小説化しようと構想。数多くの親戚を訪ね歩き、証言を集め始める。二年半の執筆期間を経て1901年、『ブッデンブローグ家の人々(副題:ある一家の没落)』を完成。翌年に出版されると、広く読者を集めて一躍ベストセラーとなる。近隣のデンマークやスウェーデン、オランダ、チェコでも翻訳される人気ぶりだった。後の29年にノーベル文学賞を授与される際にも、この著作が理由に挙げられている。
ちなみに私は新聞記者当時、作家の北杜夫さんからこんな述懐に接している。
――私が作家を志したのは、戦後すぐの旧制高校当時に『ブッデンブローグ家の人々』を読んだ感動から。後年その向こうを張ろうと、私の一族(祖父・斎藤紀一<山形県出身、東京・青山での精神病院創立者・代議士;作中では「典型的俗物」と記述>~長女・輝子の夫で養嗣子の父・茂吉<精神科医・歌人>~その次男の自分)を念頭に『楡家の人々』を書き上げました。
かの三島由紀夫は、この作品をこう絶賛した。「戦後に書かれた最も重要な小説の一つ。日本文学は真に市民的な作品を初めて持った」
本題に戻る。前述したように03年、代表作の一つの中編『トニオ・クレエゲル』を発表。マンの若き日の自画像であり、ほろ苦い味わいを湛えた「青春の書」だ。「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」と彼は述懐する。主人公トニオは文学や芸術への限りない憧れを抱く一方で、世間と打ち解けている人々への羨望を断ち切ることができない。北杜夫さんは私に、こう呟いた。「この本の内容に共感する余り、ペンネームを「杜二夫(後に『二』は脱落)」とした位です」。
05年、マンはカタリーナ夫人と結婚する。彼は10年にミュンヘンでグスタフ・マーラーの「交響曲第八番」初演に接して強い感銘を受け、マーラーと交友を結ぶ。翌年に彼が死去するとヴェネツィアを訪ね、その死に触発されて記した中編『ヴェニスに死す』を翌々年に発表。これを基にルキノ・ヴィスコンティが映画化した『ベニスに死す』(71年公開)はマーラーの交響曲をテーマ曲とし、かの音楽家を主人公に擬したことで話題を呼んだ。
この12年、夫人が肺病を患ったため、スイスのダヴォスにあるサナトリウムで療養生活を送る運びとなる。同年夏、マンは見舞いに訪れ、三か月をここで過ごす。夫人から耳にした体験談や挿話を基に小説執筆を構想。以後なんと十二年にわたって延々と書き継ぎ、24年に長編小説『魔の山』として発表する。
前回つぶさに記したように、『魔の山』には大変な論客が二人登場し、古今東西の思想や学術をめぐって博学ぶりを披歴する。実は、マン自身も思想的遍歴を重ねていた。国家主義的・右派的な思考に傾いた一時期もあったらしい。が、同じく文学者で革新的な思想の持主だった兄ハインリヒの影響もあって、軌道を修正。マルクスの原典などにも学んでいる。
マンの博学ぶりと言えば、『魔の山』に登場する「王者的存在」ペーペルコルンにフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの影響を指摘する識者もいる。ベルクソンは19世紀末から20世紀前半にかけて活動。理性を強調する合理主義の哲学に対し、知性だけではなく情意的なものも含む人間の「精神的な生に基づく哲学」を説いた。私は大学(仏文科)の卒論のテーマにベルクソンを選んだ因縁もあり、この件のマンの筆致に懐かしさを感じた。
マン自身は『魔の山』に至るまでの作品を二つに大別。『ブッデンブローグ家の人々』と『トニオ・クレエゲル』とを一組の作品と考え、『ヴェニスに死す』と『魔の山』とを他の一組と見なしている。彼は29年にノーベル文学賞を授与されるが、受賞理由に挙げられたのは『ブッデンブローグ家の人々』の文学的価値だった。私個人は、『魔の山』の思想性の方に惹かれる思いが強い。
30年頃からナチスが台頭すると、マンは正面から批判する。ベルリンで「理性に訴える」と題して講演し、ナチズムの危険性を訴えた。労働者階級による抵抗を呼びかけ、社会主義や共産主義への共感が増している、と表明。33年にヒトラーが政権を握ると、ドイツ・アカデミーを脱退する。夫人と共にスイスへ赴き、講演旅行中にベルリンで国会炎上事件が勃発。そのままスイスに留まろうとチューリヒに居を定め、反ナチスの論陣を張った。
38年にはアメリカへ移住し、プリンストン大学客員教授に就任(後に名誉教授)。第二次大戦中のアメリカでは、ドイツやオーストリアからの亡命者を支援した。50年、アメリカでマッカーシズム(赤狩り:反共産主義のヒステリックな魔女狩り)が吹き荒れ、その風潮を避けるように翌々年、彼はチューリヒ郊外へ移住する。三年後、八十歳で死去した。
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