「歴史の墓堀人」色川大吉さん逝く 民衆史という研究分野を確立した歴史家
- 2021年 9月 25日
- 評論・紹介・意見
- 岩垂 弘色川大吉
歴史家であり社会運動家でもあった色川大吉さんが9月7日、山梨県・八ヶ岳山麓の自宅で亡くなった。96歳だった。学問と社会運動という二つの分野で多彩な足跡を残した色川さんだが、日本社会への最大の貢献は、歴史研究の面で「民衆史」という分野を確立したことだろう、と私は思う。そこに流れているのは、歴史をつくるのは英雄=ヒーローやエリートではなく、一般の名もなき民衆である、という視点である。
千葉県佐原市生まれ。仙台の旧制第二高等学校を経て1943年、東京帝国大学文学部国史学科へ進学。が、戦況急迫とあって学徒出陣となり、土浦海軍航空隊へ入隊。そこから、三重県・答志島の特攻基地に配属された。
そこで敗戦を迎えると、東京帝国大学文学部国史学科に復学し、そこを1948年に卒業する。文学部卒では就職できない時代。で、ブ・ナロード(人民の中へ)を目指して栃木県の足尾銅山の隣の粕尾という山村の新制中学の教員となるが、1年で挫折。上京して新協劇団の演出研究生に。やがて小松方正らと新しい劇団を結成するが結核にかかり、演劇への夢はついえる。その後、失業対策労働者などを経験したあと、歴史研究の道を歩む。
最初に取り組んだのが明治の文学者・北村透谷。北村は東京の多摩地区を放浪していたことがあり、色川さんはその足跡を求めて何度も多摩地区へ足を運んだ。「いっそ多摩に住んだら」と地元の人に勧められ、八王子市に住み着く。1965年のことだ。1967年から東京経済大学教授。
自由民権運動の研究へ
多摩地区の旧家を訪ね歩き、土蔵を開けてもらう。そこに収蔵されている古文書をみせてもらうためだ。色川さんによれば、土蔵という土蔵はほとんど開けてみたという。「当時の私は、いうなれば“歴史の墓堀人”だった」。色川さんが自著でそう書いていたのを読んだ記憶がある。
そうした作業を繰り返すうちに、思いがけない史料に出くわす。自由民権運動に関するものだった。自由民権運動とは、明治7年(1874年)から始まった、国会開設、地租軽減、条約改正を政府に要求する全国的な運動である。それは、当時の政府首脳が「革命前夜」ともらしたほどの盛り上がりをみせた大衆運動だった。
こうして、それまで歴史の暗い闇の中に埋もれていた多摩地区の自由民権運動の実像が、色川さんや色川さんの周辺に結集した人たちの手で次々と明らかにされていった。色川さんらが発掘した民権運動関係の史料で大きな反響を巻き起こしたものと言えば、なんと言っても「五日市憲法」だろう。
これは、1968年8月、東京都西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)深沢地区の山村の土蔵から見つかった「日本帝国憲法」の草案で、発見者は、色川さんと東京経済大学色川ゼミの学生・新井勝紘さん(元専修大学教授、現高麗博物館館長)。
自由民権運動では、全国各地の民権結社によって私儀憲法草案の起草が行われ、これまでに分かっているだけでも100編を超える。五日市憲法は、深沢地区の青年たちの集団討議を母胎に五日市の小学校の助教員・千葉卓三郎が起草したもので、民権期の他の憲法草案に比べて人権に関する規定が多く、極めて民主的内容をもつ憲法草案とされる。
土蔵の奥深くに眠っていたこの憲法草案が色川さんらによって偶然発見されたのは、くしくも「明治百年」に当たる1968年。起草から実に87年たっていた。
それから、もう一つ、民権動研究での色川さんの業績を挙げておきたい。須長漣造(すなが・れんぞう)の発見である。
関東における民権運動といえば、埼玉県秩父の農民らからなる「秩父困民党」が借金の据え置きなどを求めてほう起した秩父事件がよく知られているが、武相(東京都南多摩地域から神奈川県相模原市周辺にかけての地域)でも、銀行や高利貸に「借金の10年据え置き」を求める農民による請願運動があった。時には、数千人の農民が集結するという大規模なもので、彼らは「武相困民党」と名乗った。政府による激しい弾圧で運動は敗北するが、この運動の指導者が南多摩郡谷野村(現八王子市)の豪農、須長漣造だった。
多摩地区で古文書を探索していた色川さんは1960年、武相にこうした農民の運動があったことを突き止め、歴史に埋もれていた須長漣造を日本近代史に登場させた。
色川さんの民権運動に関する著作は数え切れない。中でも『明治精神史』(黄河書房)、『困民党と自由党』(揺籃社)は名著と言われる。
色川さんと民権運動との関係を紹介するとなると、色川さんが自由民権百年全国集会実行委員会の代表委員を務めたことも挙げなくてはなるまい。この実行委は、民権運動が最高潮に達した1881年(明治14年)から100年にあたる1981年(昭和56年)に記念の全国集会を開こうという狙いで発足した学者・研究者の集まりで、81年に横浜市で、84年には早稲田大学で、87年には高知市で、それぞれ全国的規模の集会を開いた。これには、秩父事件の遺族、学者・研究者、一般市民が多数つめかけた。
歴史を動かすのは底辺の民衆
それにしても、歴史家の色川さんを民権運動の研究にかりたてたものは何だったのだろうか。色川さんが、私にこう語ったことがある。
「60年安保闘争が私の研究に決定的な影響を与えた。闘争は前衛の裏切りもあって敗北したものの、無名の未組織大衆はすごいエネルギーを発揮した。それをこの目で見てから、私は民権運動についても底辺の民衆の視点から見直すようになった」
日米安保条約改定阻止闘争に参加した経験が、色川さんをしてより一層民権運動の研究に傾倒させ、その研究を深めるなかで、歴史を動かす原動力は底辺の民衆であるという「色川史学」に到達したということだろう。
「水俣」「チベット」、そして「日市連」
ところで、色川さんは自由民権運動の研究ばかりをやっていたわけではない。他にも実に多面的な研究活動と社会運動に足跡を残している。
研究活動では、戦後日本最大の公害とされる水俣病の実態を解明しようと尽力したことを強調しておきたい。1976年に「不知火海総合学術調査団」を発足させ、自らその団長を務め、10年間もの長きにわたって調査を進めた。その成果は『水俣の啓示』上下二巻(筑摩書房、1983年)にまとめられている。
1986年には、東北大学西蔵(チベット)学術登山隊学術班の班長として、中国青海省西寧からネパールのカトマンズまでのチベット高原を探検車で踏破し、学術調査を行った。
これは、色川さんがかねてから抱いていた仮説「もう一つのシルクロード」を検証するための調査だった。シルクロードとは、太古以来、アジアとヨーロッパを結んでいた東西交通路のことで、一般的には、中国の北西部からタリム盆地を通り、ロシア、中国、インド、パキスタン、アフガニスタンが国境を接するパミール高原を越える道を指すが、色川さんは、これとは別に中国――チベット――インドを結ぶ文明交流路があったのでは、と考えた。
高山病にかかりながら、途中、ヒマラヤ山脈の標高5000メートルの峠を越える、延長6200キロに及ぶ42日間の旅だったが、当時全国紙の記者だった私は、これに同行して取材する機会に恵まれた。
そのほか、色川さんはユーラシア大陸を往来する旅に何度も挑戦している。
社会運動面での活動では、1980年に作家・小田実さん、文芸評論家・西田勝さんらと結成した「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)が特筆に値する。色川さん自身が「反戦、反核、反天皇制の運動をになう日市連」と著作に書いていることでも分かるように、「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)が解散した後の、市民を中心とする平和運動のとりでとなった。
言論の自由を守る活動にも熱心だった。権力による言論統制の動きには反対の論陣を張った。1995年に、「平和」と「協同」の推進のためにペンをとるジャーナリストを顕彰するための「平和・協同ジャーナリスト基金」が発足した時、色川さんはその代表委員を引き受け、亡くなるまでそのポストにあった。
山梨県北杜市の八ヶ岳山麓で過ごす色川大吉さん(右)=2009年6月25日撮影
心臓弁膜症と肝臓病の治療のため、1998年、標高1000メートルの八ヶ岳山麓の北杜市に移住し、そこで波乱の生涯を閉じた。
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