二十世紀文学の名作に触れる(16) 『車輪の下』のヘルマン・ヘッセ――詩人肌の真摯な求道者
- 2021年 11月 3日
- カルチャー
- 『車輪の下』ヘルマン・ヘッセ文学横田 喬
<ちきゅう座からのお知らせ:昨日掲載の「二十世紀文学の名作に触れる(15)」の内容が本稿と入れ替わっておりました。 読者の皆さまには、ここで謹んでお詫び申し上げるとともに、昨日掲載の「二十世紀文学の名作に触れる(15)」から再度ご覧いただきたく存じ上げます>
近代ドイツの作家ヘッセは、私にとって「懐かしい人」であり、且つ「難儀な人」だった。作風が前期と後期でがらりと変わり、別人のような感さえある。前編にも記したように私は十代の終わり頃、取り憑かれたように彼の小説に熱中し、主要な作品はほとんど読了している。当時を思い起こすと、そうなるにはなるだけの私なりに切羽詰まった事情が潜んでいた。
ヘッセは1877年、ドイツ南西部のカルプという小さな町に生まれた。スイスとの国境に
近いシュバルツバルト(黒い森)地方の森林地帯に属し、自然が豊かで風景も美しい。この
町にはナゴルト川という清流が存在し、『車輪の下』には水浴や釣りなど川にまつわる記述が頻出する。父も母もキリスト教の伝道に携わり、祖父や叔父も同じ道を歩んでいた。
少年ヘルマンは13歳の頃から「詩人になりたい」という強い願望を抱く一方、伝道者の
跡取りとして家族の期待を一身に背負った。学校の成績も良かったため14歳の時に州の試験に合格し、『車輪の下』のハンス同様にマウルブロンの神学校へ進む。しかし、翌年春に神学校を脱走し、五月には退学。ノイローゼの治療を受け、自殺を試みるが未遂に終わる。一連の経緯は『車輪の下』の展開そのままで、この物語が自伝的作品であることを示す。
だが、作中に登場する神学校当時の詩人肌の個性的友人ヘルマン・ハイルナーに該当する級友は存在しない。ヘッセ自身の姿は、作中ではハンスとヘルマンの双方に投影されている。
周囲の期待に応えられず、神経を病んでいくハンス。そして、ヘルマンの天才詩人ぶりや学校での反抗的な態度と、神学校を脱走~大騒ぎを起こして退学に至る顛末も、事実と重なる。
帰郷後のヘッセは92年秋に近くの高校へ入るが、ここも一年で退学。街の書店に勤めるが、すぐに辞める。翌々年、時計工場に勤め、歯車を磨く仕事に就く。95年、近くの大学都市チュービンゲンの書店に勤め始める。99年に最初の詩集と散文集を出版し、勤務先をスイスの都市バーゼルの書店に移す。1904年、小説『ペーター・カーメンツィント(新潮文庫版:高橋健二訳だと題名は『郷愁』)を著して脚光を浴び、一躍有名作家となる。
当時二十七歳だったこの年に結婚し、以後三人の子に恵まれる。これ以降の彼の足取りは、大まかに二分できよう。前期は18年頃までで、主な小説作品は06年の『車輪の下』、10年の『春の嵐』、16年の『青春は美わし』など。青春期特有の若者の苦悩と故郷への思慕の念が叙情あふれる筆致で綴られ、読む者の胸に沁みる。後期は19年の『デミアン』に始まり、22年の『シッダールタ』、27年の『荒野のおおかみ』、43年の『ガラス玉演戯』などが並ぶ。
ヘッセは12年からスイスのベルンに移り住んだ。翌々年、第一次世界大戦が始まり、彼は18年の大戦終結までドイツの捕虜救援機関やベルンにあるドイツ人捕虜救援局で働いた。前期から作風が一変するのは、この第一次大戦による深刻な影響に基づく。彼はドイツやフランスなど欧州一帯が被った戦禍の酷さに強い衝撃を受け、深い精神的危機を経験する。スイスの小さな村で精神分析家ユングの弟子たちの助けを借り、精神の平衡回復に努めた。その過程で自らの深い精神世界の在り様を点検した記念碑的作品が『デミアン』である。
この『デミアン』は過渡的な作品でまだしも分かり易いが、『シッダールダ』以降の三作は当時十代の私には内容が深遠で難解だった。私はほとんど義務感でページをめくったが、読書の楽しみと言うには程遠く、読後感は芳しくなかった。だが、46年のノーベル文学賞授与に際しては、『ガラス玉演戯』など後期の作品の文学的価値が評価された、と聞く。
十代の私はなぜヘッセの作品(例えば『車輪の下』)に魅かれたのか。答は、主人公の身の上への共感ゆえ。ハンスの不幸せな境遇に自身を重ね、束の間の慰藉を求めようとした節が強い。当時、私は苛烈な受験戦争に後れを取り、辛い浪人生活を強いられていた。
私の蹉跌は、在学した富山の県立高校三年の春に発する。修学旅行で隣の長野県野尻湖に一泊旅行へ。何のはずみか級友数人と羽目を外し、生まれて初めて酒を口にして乱酔。あろうことか引率の教師に食ってかかり、手を焼かせたらしい(何しろ記憶が全くない始末)。
当然大問題になり、私ともう一人の都合二名が首謀者扱いで「停学二週間」処分となった。
保守的風土の北陸にあって、未成年の身で飲酒し、おまけに教師に刃向かうとは「言語道断」。聖者面(実は狸)の校長から「人間の屑!」「ろくな将来はないぞ」と散々絞られ、厳しいお仕置きに。私は学業成績優等の方だったが、この一件から「不登校」に陥り、受験勉強もほぼ放棄。街の映画館に入り浸るなど道を踏み外し、翌春の大学受験にも見事失敗した。
ドイツのヘッセ研究家によると、『車輪の下』は日本ではドイツの十倍も読まれている(1972~82年の間の売り上げ数比較)、という。その理由として、彼は「日本の学校での厳しい競争原理」を挙げている。私も、全く同感だ。引っ込み思案で夢見がちなハンスや反抗がちな詩人肌のヘルマンの同類が、日本のどこかに居ようと少しもおかしくない。
本題のヘッセに戻る。33年にナチスが政権を握って以降、平和主義を唱えるヘッセは「時代に好ましくない」と敵視され、国内では著書に対する用紙の割り当てが禁止された。第二次大戦終結後の46年、69歳の折にノーベル文学賞とフランクフルト市ゲーテ賞を同時受賞。翌年には生まれ故郷のカルフ市の名誉市民として表彰され、この年フランスの高名な作家アンドレ・ジッドの表敬訪問を受けている。彼は62年、85歳で亡くなった。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture1026:211103〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。