「今、労働組合運動のあり方を再考する」
- 2021年 11月 15日
- スタディルーム
- 労働組合運動合澤 清
参考資料:『労働組合とは何か』木下武男著(岩波新書2021)。但し、引用文は勝手に省略し、言葉も変えている。
先日、大先輩のKさんから電話がかかってきて、木下武男著『労働組合とは何か』(岩波新書2021)がなかなか面白いので、読んで感想を聞かせてほしい。特に第8章で実例としてあげられている「関西生コン」の労働運動が興味深いので、その部分だけでも読んでみてくれ、といわれた。
若いころ10年ぐらい、当時の総評全国金属労働組合の某支部で組合活動をやった経験があったこと、また、1993年頃かと思うが、雑誌『情況』の編集のために、Kさんと一緒に、かつての総評事務局長・岩井章氏を訪ねてインタビューをやったことがあった。こういうことを思いだして、私に感想を聞かせろといってきたものと思われる。
正直なところ、私は労働組合が社会変革の主軸になり得るかどうかについて、このところかなり疑問を持っている。労働組合は、どこまで行っても体制内的存在であり、資本主義社会に絡め取られていて、企業経営の補完物でしかないのではないだろうか、という疑念や懸念がどうしてもぬぐいきれないからである。
労働組合に代わるものとしてイメージしているのは、漠然とした構想でしかないのだが、労働組合の「連合体」(かつての総評や今の連合など)ではなく、恒常的な「闘争委員会」=共闘会議を創り、参加者資格や闘争資金を組合依存から切り離して、全労働者・市民の共同闘争態勢(ある種の自治態勢)を構築していく以外に今日の労働運動の低迷、(今回の衆議院選挙結果に顕著なような)市民運動の沈滞・逼塞状況を打開し、現体制を変革する運動の現実化はないのではないだろうか、と考えている。どうすればそれは可能になるだろうか、などと四苦八苦している。
今、この本を読んでみて、考え方が同じというわけではないが、なかなか興味深い問題提起がなされているように感じた。問題意識を対質しながら考えてみたい。
以下、「第8章 分析編3 日本でユニオニズムを創れるのか」を中心にこの本の内容を紹介しながら検討してみたい。
≫バブル崩壊後の現象:貧困、過酷な労働、「これまで見たこともない」雇用不安=若者の雇用不安/就職氷河期、高卒無業者、新卒パート・派遣、フリーター、ニート、パラサイト・シングル、1998年以来正社員に対する非正規雇用の比率が急上昇≪
率直にいって、著者がイメージするこのような現象は、今に始まったことではないのではないか。これまでも「大学は出たけれど」の時代や、57,8年の「鍋底景気」、60年代半ばの就職難の時代など、長短の周期はあるが、過去に何度もこういう不況は経験されてきている。むしろ、今日の現象を理解するためには、それらの時代のものとの質的な違いはどこにあるのかをはっきりさせる必要があるのではないのか。そしてポイントは、今日の景気循環をもたらす根拠とそれに伴う産業構造の再編成にあるかと思う。今日的には、「新自由主義」という露骨な利潤追求社会の到来、AIとかITとかいわれる新たな技術革新による産業構造全体の再編成(当然、ジョブのAI化などが含まれる)と、世界経済情勢の変化-従来のアメリカ中心から中国の台頭(アメリカの相対的な衰退)へとシフトしてきていること、などにあるように思う。特に、世界が狭くなっている今日では、視座を国内ばかりでなく、世界的な動向に密接に関連づけて考えることが益々重視されてきているように思う。
また格差問題に関しては、本書のp.266以下でも触れられているが、日本の産業構造は従来から二重構造(大手親会社と中小下請け会社、それに伴う従業員の労働条件格差)をもって成り立っていたこと。この二重構造が、現在、新たな労働条件下で「正社員と非正規雇用」という形で焼き直されて出されてきているとも考えられる。こうした産業構造の変化につれて、≫日本的労使関係の崩壊(年功賃金、終身雇用、企業別組合)⇒日本的雇用慣行の廃棄と、それに伴い、過労からのウツ、死、自死、パワハラ、セクハラ、人格攻撃などが激増≪という今日的な現象が現われてきたといえるだろう。
従来の組合論的考えでは、このような労働者の悲惨さをくみとり、闘争(労働争議や対政府要求など)によって労働者側の要求、社会的な保障などを相手側に呑ませて行くのが労働組合ないしその連合体としての総評(あるいは、社会党、共産党などの労働者政党)の役割だと考えられてきた。しかし、今やこういう期待は全くない。それが連合や単組の組織率の低さや今回の衆議院議員選挙の投票率の驚くほどの低さ(55.93%で戦後下から3番目)に現われているのではないだろうか。これらの実態を踏まえた上で、著者(木下武男)は次のように問題提起する。
≫「ユニオニズムの不在」が問われなければならない≪のではないのか、と。つまり、労働組合の再強化に期待をかけ、そのためにはどうすべきかを再考しようというわけである。
≫希望退職というリストラが2000年代以降増加し続けている。しかし、従来の企業別組合は閉鎖的(企業内的)であり、労働市場問題には無関心である≪ため、こうした社会問題には目を向けようとしない。それ故、「ユニオニズム」が必要である。
そして著者が「ユニオニズム」の源流(原型)と考えているのは、中世ヨーロッパのギルドである。
≫第1章 歴史篇1 ルーツを探る―「本当の労働組合」の源流は中世のギルドにある≪の中で次のように述べている。
≫ギルドは「国家全体から完全に分離」され、「諸社会」として「社会」を構成していた。ギルド=「諸社会」の集合体が中世の市民社会であり、それは国家とも分離されていたという意味だ。分離されていたからこそ、「諸社会」のことは自ら決定することができたことになる。…後に見る近代市民社会も国家から分離された領域であり、そこでの「諸社会」は労働組合や経営者団体である。この「国家全体から完全に分離」された労使自治の空間で約束事を取り交わす。ここが近代的な労働組合の主戦場となる。自由都市の市民社会は国家から分離されていても、政治的な性格をもっていた。都市の市民は自治的な政治の担い手でもあり、政治に責任を負っていた。それは都市が裁判権や徴税権を有し、市長と市参事会員を選ぶ選挙権を持っていたことによる。市民は城壁を築き、民兵組織を設け、民兵として都市防衛の義務を負った。外敵や領主に対して武装して立ち向かった。≪
「本当の労働組合」という言い方にはかなり抵抗がある。「本当」かどうかには、かなり主観的な(好みの)判断が加わるからだ。ギルドを基準にするにしても、どの時代の、どこのギルドなのか、が問題になる。結局は抽象的な自己流の規定に頼ることになりかねないのではないか。
また、「ユニオニズム」という場合、なぜ総評はそうなりえなかったのか? また、連合は? 企業別(内)組合の閉鎖性は、それだけではなく、組合内部の官僚統制(上下関係など)にもある。これらのことは、原型としてのギルドに対しても言いうる。なぜギルドは消滅したのか(例えば、ハンザ同盟。あるいは組合として残ったというのかもしれないが)。労働組合、あるいはギルドをとりまく世界の変化がそれらの衰亡にどうかかわって来たか。こういう点の問題が残るが、ここでは「都市の市民は自治的な政治の担い手でもあり、政治に責任を負っていた」という点に注意しながら次に進んでゆきたい。
≫日本の雇用保障は国家でもなく、労働組合でもなく、ひたすら企業によって支えられてきた。それが長く日本に根付いていた日本的雇用慣行だ。定期一括採用方式の下で男性は正社員として新規学卒採用され、その後は内部昇進性の出世の階段を登り、やがて定年に至る。終身雇用制の下で従業員は定年まで働き続けることを期待することができ、企業もよほどのことがない限り解雇せず、雇用し続ける。…ところが2000年代に入ると経営側は、終身雇用制の規範を捨てた。新規採用を抑え、また雇用している従業員も解雇しても構わないと考えるようになった。希望退職という名目で従業員の大リストラがなされた。他方ではいつでも人員削減できるように、経営者は雇用期間を定めた非正社員を大々的に活用した。…これは「19世紀型の野蛮な労働市場」である。絶対主義の時代には国家が労働者を統制し保護していたが、資本主義の確立と共に国家は手を引いた。そこに現われたのが、自由放任で弱肉強食の労働市場だ。≪
「大量解雇時代の到来」ということも、これまで繰り返し論議されてきている。例えば、ジェレミー・リフキン著『大失業時代』(TBSブリタニカ1996)など。
そして、「雇用慣行(誓約)→法制化へ」という移行による労働者の権利保護が従来一般的には考えられてきた。しかし現実は、たとえ法的に規制されていたとしても、それは資本側の都合で絶えず破られてきた。これがこれまでの労働運動の実態であり歴史である(罰金を払いながらも労基法違反が繰り返されている現状を見る必要がある。また国労、全金プリンス、益田哲夫の日産争議、などの実例)。労働慣行を守れ、法律を守れ、というだけの闘いでは「勝ち目はない」。大リストラ攻撃は、2000年代以降の特徴ではない。戦後、幾度も行われた数万人の首切り合理化、三井三池の争議や、国労の大合理化(民営化)も、産業構造の転換時点では常にそういうものとしてあったはずだ。
≫絶対主義の時代には国家が労働者を統制し保護していたが、資本主義の確立と共に国家は手を引いた。そこに現われたのが、自由放任で弱肉強食の労働市場だ。≪これはマルクスが労働者階級について述べたこと(奴隷と賃金労働者の違い)の矮小な焼き直しでしかない。絶対主義の時代とは、戦乱に明け暮れて、破壊や略奪が日常茶飯事だった時代である。更に飢饉や疫病(ペスト)が襲い、庶民の主流だった農民たちの生活状況は、奴隷状態か、農奴化(再版農奴制)であり、夜逃げ、集団脱走、一家離散などが多発していた。彼らはそのような苦役に耐えて「食」にありつけたにすぎない。しかも国家が直接彼らを養ったわけではなく、地主に仕えていた(『中世ヨーロッパ』堀米庸三責任編集「世界の歴史」3中央公論社1976)。
≫年功賃金/①賃金の決定基準は企業を超えた職種・職務基準ではなく、企業ごとの属人的要素に基づいている。②賃金の上り方は年齢や勤続の要素が重視されるので、年齢別の賃金上昇カーブを描く。③賃金水準は上がり方に対応して、単身者賃金(初任給)から世帯主賃金へ上昇する。≪
≫春闘の終焉は、年功賃金の特性①の決定基準によるものだ。年功賃金は、属人的な要素を組み合わせて作る企業内賃金だから、企業を超えた賃金決定の規準になりえない。つまり年功賃金は「共通規則」になれない。企業別組合は企業横断的な「集合取引」を行えない。ユニオニズムの不在こそが日本の賃金下落を惹き起こしているのである。≪
ここで見落とせないのは、基本給と諸手当の関係である。企業は基本給をあげることを嫌う。退職金に影響するからだ。その分を諸手当でごまかそうとする。「家族手当」「勤務手当」「福祉手当」など。年功序列すらそこに組み込まれることがある。基本給を決定する要因は、企業利益のほかには、同業他社との比較や世間の物価動向なども考慮されている。「コストプッシュ・インフレ」論などが唱えられる一要因でもある。
もっと重要だと思えるのは、賃金に重点を置いた組合運動論は、例えば「電力労連」のように、自己の利益(会社の利益)を中心に考えるため、原発推進派になるというような危険性を持っている。そしてこういうことが「新自由主義」政策に関わってくる。
戦後の「産別組合」の一定の成果は認めるにせよ、それだけでは(社会変革のための)制度要求は必ずしも十分ではなかったし、産業再編成の流れに抗して行くことは不可能だったのではないだろうか。
高野実の『日本の労働運動』や清水慎三の『日本の社会民主主義』が問題にした観点への検討が欠落しているように思えるのだが? 「春闘の終焉」に関しては、例えば戸塚秀夫の1970年代の問題提起をどう考えるか?
≫ユニオニズムの創造は、ジョブに基づいた転職可能な労働市場をつくることで、(ブラック企業のような)加害システムを打ち壊すことになるだろう。またユニオンの政策制度の要求の中心に労働時間の短縮をおき、残業と休日出勤を含めて週48時間未満というEU基準を日本にも適用することが必要とされる。≪
今日、コロナ禍を利用して、日本の経営者が、合理化の一環として大幅の「時間短縮」「自宅での作業」を奨励している現状をどう見るのか? またドイツの労働条件は必ずしも理想的ではない。低賃金ゆえに、いくつもの副業をしているし、有休も、確かに「バカンス」では長期休暇を楽しんではいるが、日常生活ではその分働かされている。居酒屋や小売り店舗などでは、労働条件は日本とそう変わっていない。
≫戦後の未組織労働者の組織化は「合同労組」運動として始まった。総評が1955年に提起して拡がるが、60年代後半には先細りになる。合同労組は、特定の産業・業種を軸とせずに地域を基盤にしたこと、また企業別組織が組合権限を持っていたことなど産業別労働組合の視点からすれば組織上の欠陥をもっていた。1973年に建設一般が、79年に化学一般が結成され、関生支部が加盟していた全自運(全国自動車運輸労働組合)も77年に運輸一般に移行した。≪
≫ウェッブの理論では、労働組合の機能は労働者間競争を規制することであり、その機能は、労働条件を等しく「共通規則」にそろえることによって実現される。その「共通規則」の下で規制する方法の中心が「集合取引」だ。≪
先述したが、ウェッブ理論における労働組合論は、所詮は体制内的なものであり、その行きつくところは先行する資本の追いかけにすぎず、どこまで行っても「組合の敗北」という結果しか出てこないゆえ、あまり評価できない。資本と労働の競争(闘い)において、どちらを選択するかの「二者択一」では「永遠の敗北」でしかない。要は対立そのものの「止揚」にある。
≫関生支部の前身は、1960年に結成された全自運傘下の「大阪生コン輸送労組共闘会議」であり、それは企業別組合の意見交換・交流の共闘組織として創られた。関生支部は既に結成時において、この共闘組織から、交渉権・スト権・妥結権の権限を支部執行部に集中する組織体制に移行した。関生支部は産業別組合の組織的な特質を結成時にすでに身に着けていたのである。≪
例えば、「工業用バルブ労働組合協議会」(同業種の企業別労働組合の交流・懇談会)という団体があったが、それに類似したようなものが関生だ。しかし、関生がうまくいった要因の一つには、「業種」がある。「工業用バルブ」という業種では取引先は大手メーカー(三菱重工、東芝、日本鋼管、石川島播磨重工など)であり、組合運動への露骨な介入があった。本山製作所(全金本山支部の分裂)などがその一例。組合による自主管理闘争にまで進んだとしても、「兵糧攻め」(注文ストップ)で責められる。その点、生コンは、ある程度、取引先と独立した小さな企業(ミキサー車一台の自家営業)間での組織化(協同組合方式)や、やり取り(「共通規則」と「集合取引」=団体交渉)がうまくいった例だったのかもしれない。具体的にはよくわからない。
≫労働条件・労働コストを企業間競争の「らち外に置く」ことによって労働者間競争を規制することができた。…賃金・労働時間に基づく労働コストが平準化すれば、企業間競争は緩和される。それは企業によってもメリットになる。≪
見通しが甘いのではないだろうか。というのは、資本主義社会は本質的に利潤追求社会であり、企業間の競争は恒常的に起こる。実際に、今日の建築業界は値引き競争(不動産屋は別かもしれないが)で、建設労働者の労働条件はますます切り下げられているといわれている。それにつれて、今後は生コン(関生)に対する企業側の圧力、切り崩しが激しくなるだろうし、大手企業は代替案(完全な子会社としての生コン会社などの設立。p.241以下で触れられている「セメント資本は専属の生コン企業を創り、工場で生産を増やす」)をも考え出す。実際にバルブ業界では、バルブの外注を韓国や東南アジアの企業を使うほどにまで拡張したため、日本の主要バルブ会社、当然労働組合も「じり貧」になっている。ウェッブ理論ではせいぜいが戦闘的「組合主義」止まりだろうと思う。P.235以下で武建一の実体験がこのことを如実に語っているが、ここに大手企業と権力が絡んできたら、抑圧は「法制化」され、合法的に潰されることになる(塩路天皇体制が形成される過程での日産争議、三井三池争議など)。
協同組合運動については、例えば大阪の高槻市にある生活協同組合などが一定の成果を出しているといわれているが、これも詳しくは知らない。
p.239以下の「兵糧攻め」への闘い-「大手セメントメーカー」と「大手建設企業=ゼネコン」(資材メーカー、及び大手元受からの圧力)-は今後も一層熾烈を極めることになるだろう。根性論だけではもたなくなる。世代交代、組合員の老齢化による減少、なども考慮する必要がある(資本の側は資金的にそれだけのゆとりをもっている)。
「中小企業と労働組合の連携/協同組合方式」について
≫「個人取引」ではなく「集合」による「取引」によって価格を維持する-価格を統制する価格協定は、カルテルとして独占禁止法によって禁止されている。しかし事業協同組合だけは、中小企業等協同組合法によって適用除外なのである。この法律の下で生コン協同組合は共同受注・共同販売を事業として展開した。≪
≫品質改善運動≪という形での闘争戦術は、当面の戦術としては誠に見事なものだと思うが、これでは敵からの攻撃に対する「防御」でしかない。「防御」だけでは「長期戦」に耐え得ないのではないだろうか。また、このやり方をすべての業種に対して普遍化(一般化)することはできないだろう。
さらに大きな問題は「一括受注、加盟企業への割り振り」の段階で起こりうる。「平等」(平準な平等主義による「悪平等」も含めて)という名の「不平等」が起きる可能性と、利潤があがりはじめた時の「分捕り」が大いに問題になる。多くの組合の自主管理による企業再開闘争がこれで挫折している。
また協同組合と大手セメント会社(その背後では銀行をはじめ、日本資本主義そのものが立ちはだかる)の買い取り合戦では、おそらく話にならない。-「総資本対総労働」の闘いが臨在している、のである。
≫この関生型運動の広がりは経営者を震撼させた。三菱鉱業セメントの社長であり、日経連会長・大槻文平は、「関西生コンの運動は資本主義の根幹にかかわるような運動をしている」と批判した。大手セメント資本は「箱根の山を越えさせるな」として関東に広がることを恐れた。≪
≫国家権力の弾圧・露骨な介入に対して、組合(運輸一般)中央本部が組織防衛として、「下部組織」(東京生コン支部)の切り捨て=「トカゲのしっぽ切り」をやり始め、しかもそれに日本共産党が相乗りした。≪
「社会に支配的なイデオロギーは支配者階級のイデオロギーである」こと、資本主義社会に蔓延する下劣な「せこい」自己防衛意識が、実際には左翼党派や労働組合本部にまで浸透していることの証左といえる。p.245~はその点を触れている。
しかしインフォーマル組織=「フラクション」は否定すべきではないし、否定できないのではないだろうか。特に、労働組合の運動がウェッブの組合論を超えて進む、つまり社会変革(実際にはそうしなければ、組合活動はいつまでも資本の補完物で終わりかねない)を目指す限りはそうだといえる。しかも、資本の側がインフォーマル組織を作り、無数にスパイ網を張り巡らせていることは周知の事実である。
p.247~の個所は留意すべきである。社会全体の大きな流れ、景気変動などによって当然ながら労働運動の浮沈も大きく左右されることがある。バブル経済の崩壊、生コン業界の動向、などが関生の運動に大きな影響を与えた点。社会変革の一環としての組合運動へとこの流れを取り込めないものだろうか。たしか、清水慎三が「社会運動としての労働運動」という内容の本を書いていたように思う。
≫「労働者類型」(職人のギルドと非熟練者の組合のそれぞれの類型のような)と「組合機能」は相即的に在りながら、しかも矛盾し、対立している。相即性から考えれば、両者の合一は「必然」である。しかしそれは「自動的になる」ものではない。そこに意識性が介在しなければ、両者の関係は枯渇し、魅力のない干からびたものとなりかねない(イギリスやアメリカの組合のごとく)。≪これが本書で木下が提起する問題の核心である。
≫これまで日本的雇用慣行を土台にして「従業員」類型が存在し、その類型を基盤にして企業別組合が成り立っていた。そのおおもとの日本的雇用慣行が終息した。そこに姿を現したのが流動的労働市場だ。ところが企業別組合はこの流動的労働市場を規制できない。つまり企業別組合は、日本的雇用慣行の終焉という「新しい条件をその機能によって吸収しえなかった」のである。「労働者類型」と「組合機能」「組織形態」との新しい整合関係が構築されなければならない。労働組合の改革の時期に入った。≪
「労働者類型」を考えるとき、当然ながら新たな産業編制(技術革新)が大きく影響してくるだろうし、また業種によっても大いに異なってくるだろう。更に、外国人労働者の問題をどう考えるか。
「新しいユニオンの外部構築」ということで、未組織労働者や非正規雇用、派遣社員などに注目するのは当然であるが、正規雇用労働者が、なぜ企業内労働組合しかつくれなかったのか、その枠組みを食い破ることがなぜできなかったのか、かつての「反戦派労働者」の闘いがなぜ敗北したのか、これらの点の総括が必要ではないだろうか。岩井章はいみじくも言っていたが、「下からのそういう運動には気がつかず、注意を払わなかった」(25年ほど前の『情況』でのインタビュー)と。既成の行き詰まりの総括と展開(Entwicklung)が主体でなければ、真の前進はないと思う。
例えば、労働組合による工場の自主管理、自主運営について言えば、業種によってはうまくいくものもある(食品や日用品などのメーカーの自主管理では、地域住民などの購買力もあてにしうるから)。そういう場合には協同組合方式は一定程度うまく機能しうる。しかし、その場合にも、企業化して、利潤が出るに従って、かつての組合執行部が役職に就き、労働者内部に上下の格差が生じてくることが間々ある。
もう一つの問題は、「同一労働同一賃金制」に関わってくるのであるが、これでは業種・職種間格差は残る。「下層部」の底上げ程度の運動では、繰り返し同様の問題が起こりうる。しかもユニオンの主力は、圧倒的に多数のこれら「下層部」である。格差問題は、官僚制度の中で「キャリア官僚」と「ノンキャリア」の格差が固定されるのと同じではないだろうか。
日本の産業の二重構造の問題、さらには新自由主義の問題も触れられてはいるが、残念ながらほんのわずかなページしか割かれていない。しかしこの問題は非常に大きなものだと思う。ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』(岩波書店刊)によれば、新自由主義は、金もうけのために為政者が採用した国の政策というだけにとどまっていない。国家との商取引を活用しながら、併せて国家による他国の隷属化、従って自企業の拡大をも図っていくという、「帝国主義」という政策をさらに一段と露骨にし、前進させた、資本主義の究極の「利潤追求」といってもよいほど、強力な破壊力をもっている。その政策が、「貿易の自由化」「民営化」などである。
結論めいたことを幾つか述べさせていただくなら…。(1)ウェッブの「労働組合論」は結局のところ資本主義社会の補完物としての労働組合を位置づけたにすぎず、イギリス労働党のような「労働政策」要求でしかない。その一番の例が、イギリスで20世紀初頭に戦われた幾度かの「ゼネスト」が、ことごとく敗北させられたこと。(2)特に賃金闘争を主にした闘いは、労働者間の格差を拡大することだけではなく、先にも電機労連の例で述べたように、「企業との運命共同体」に置かれている労働組合では、反公害闘争に参加もできず(反原発、脱炭素問題など)、市民運動との間に溝が生ずることになりかねない。(3)労働組合運動がその枠を超えて戦うための闘争委員会方式を考える必要があるのではないだろうか。(4)われわれの闘いは、目先の事柄のみを追いかけるだけではなく、ブルジョア社会に代わる「新たな社会」の構想、生産手段の共有化を唱えるだけですませるのではなく、格差や分業による不利益のない、等々、今日の社会的な矛盾を対自化し、理念化(目標化)しつつそれに向かって進む運動を構築する必要があるのではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1192:211115〕
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