那須川天心と武尊の対決――日本神話から考える――
- 2022年 1月 12日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征格闘技
那須川天心対武尊(たける)の試合決行が決まった。大晦日のフジテレビ、RIZIN33中継で二人の対決が見られると多くの格闘技好きは期待していたものだが、結局実現しないことが早々にわかってしまった。ところが思いがけず、年末になって、今年6月に二人がたたかふことになったと発表された。
「現代の英雄」である二人を傷付けたくないと言う気持ちとそれにからむ利害計算を両者の背後にある格闘技界諸団体は抑制して、この対決を実現してくれた。何万円も、あるいは十万円も払って会場(未定)で見物出来ない左翼市隠である私にとっても、年末の明るいニュースであった。四十連勝と四十勝一敗がたてをかはし、ほこをかはすのだ。水無月が待遠しい。
天武なる二人すさのをほこかはす
すくねは誰(だれ)かけはやは誰か 誰(たれ)かみかづち誰かみなかた
水無月に二人すさのをたてかはす
そのひとときは五輪越えなむ
日本神話に三つの一対一のたたかひ、決闘がある。第一は建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)対建御名方神(たけみなかたのかみ)。第二は、當摩蹶速(たぎまのくゑはや)対野見宿禰(のみのすくね)。第三は、倭建命(やまとたけるのみこと、古事記の表記、日本書紀では日本武尊)対出雲建(いづもたける)。
第三の例は、格闘技ではなく、倭建の真剣と出雲建の木刀の卑怯なたたかひであって、令和4年水無月の先例にならない。
第一の例では、建御雷が建御名方を「つかみひしぎて投げ離ちたまへば、すなはち逃げ去(い)にき。」(古事記)まさしく、格闘技。
第二の例では、宿禰が蹶速の「脇骨を蹶(ふ)み折(さ)く。亦基の腰を蹈(ふ)み折(くじ)きて殺しつ。」(日本書紀)踏みつけやサッカーボールキックが許されている現代格闘技そのものである。但し、今日は「殺」は無し。
私=岩田としては、第一のケース、すなわち敗者さえ諏訪大社の祭神となって民衆から尊敬されるケースのような結末を天心(てんしん)対武尊(たける)の試合に切に切に期待したい。両者ともに勝て!!
令和4年1月6日
上述の小文を書き送ってから、厭なニュースが入った。大晦日のRIZIN33のリングで不正があったと言う。シバターと久保優太の試合、シバターがあざやかな体術、腕十字固めで勝った。試合前にシバターが一方的に久保に電話して、試合のシナリオ作りを誘い掛け、それに断固たる対応が出来ぬまま、リングに立ち、勝負に集中出来ない久保を一挙に制したのだ。プロレス出身者がK1出身者に心理作戦勝ちした。汚ない勝ちでも勝ちは勝ちだと言う訳だ。
八百長とまでは言えないにせよ、6月の勝負にもマイナスの影がさすかも知れない。30歳台後半に入ろうとする扇久保博正が優勝候補の20歳台の気鋭二人、井上直樹と朝倉海を気迫で連破優勝し、リング上から彼の総合格闘技選手人生を支え続けた女性にプロポーズした明朗愉快なシーンさえ曇らせよう。残念だ。
総合格闘技MMA界がこの問題の処理を誤ると、「最終戦績=240戦231勝5敗4分、227KO勝ち」(細田昌志著『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝』新潮社 p.482)なる沢村忠の如き「超々人」が再び出現する時代が来るかも知れない。そんなの御免だ。
但し、私=岩田は、この件に関する朝倉未来と昇侍の説明に納得している。私流に要約すればかくの如し。申し合せ格闘技―形容矛盾だ!―の時代は来ないであろう。格闘技とは、各人の身体にきたえこまれた矛と盾を瞬速に繰り出し合うことだ。申し合せとは正反対の世界だ。
令和4年1月8日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion11657:220112〕
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