日本の家族法の中での「共同親権」の不整合? ― 宗像充『共同親権』を読んで ―
- 2022年 3月 3日
- 時代をみる
- 共同親権池田祥子
早くも2年前になってしまうが、私は、かつて「ちきゅう座(時代をみる)」に次のようなタイトルの文章をアップしてもらっている。
「親権」とは何か?― 「家族」「親子」を考えるための基礎作業(11)(離婚後の「共同親権」を考える)2020年4月2日
今回、改めて宗像充『共同親権』(社会評論社、2021.12.10)を読んでみた。
タイトルそのまま、本書は、「共同親権」を強力に主張するものである。宗像氏は離婚によって子どもと引き離された2017年の翌年から、「共同親権」を提唱し、メルマガを発行し、ついには2019年11月22日、12人の親たち(父親が多数)と東京地方裁判所に共同親権訴訟を提起している。この訴訟は、「親子を引き離す単独親権制度は、憲法14条に規定された平等原則に違反している」とするものである。
宗像氏は言う。「親が子どもの面倒を見るということは、当たり前のことと世間では受け止められている。だから本来、親権が子どもの養育・教育への権利義務なら、共同親権が当たり前だ」(p.⒙)。「単独親権制度は非婚(未婚・離婚)時には一方の親から親権を剥奪し、養育を否定する。その制度を廃止することが、共同親権だ」(p.24)。
主張は「もっともだ」と私は思う。
ただし、いくつかのネック=検討課題があることも事実である。
一つは、民法に規定されている日本の「親権」とは何か?という問題がある。
昨今、世界では、「単独親権」から「共同親権」へ移行する国々が多くなっている。G20では、日本、トルコ、インドが単独親権のままである。その他、アフリカ諸国、イスラム諸国、北朝鮮も、また韓国でも1990年から条文上では「共同親権」である(裁判所の共同親権の決定は2012年以降)。さらに、これらの国々では、「Parental Authority」(親権)が「Joint Custody」(共同監護)さらには「Shared Parental Responsibility」(分担親責任)という言葉に移行されている(オーストラリア「家族法」)。同様に、英米では「子どもを世話する・ケア・養育」という意味で「Parenting」が用いられ、これらをシェアする「Shared Parenting」(共同養育)という言葉が通用している。子どもの権利や幸福のためにも、「フレンドリーペアレントルール」は、親たちの規範たろうとする動向の現れなのだと思われる。
ただ、このような世界の動向を示すと、「他の国は他の国、日本は日本!」と、あたかもこちらの「同調的な、右へ倣え」主義を非難するような意見も耳にする。しかしあえてここで言っておこう。「共同親権」の主張は、どこまでも「親子とは?」を考える理論の問題であり、思想・哲学の問題なのである。
したがって、それに照らして、日本の「親権」規定はどうなっているのか、戦前の「家」制度を意識的かつ無意識的に引き継ぐ「親権」規定は、はたしてどのように真摯に検討されなおしているのだろうか。その問題は抜きにはできない。
いま一つは、日本の離婚の実態がどのようなものなのか、という問題がある。
現実の離婚の多くが、夫からのDVのために、そこから避難するため、というケースが多いからだろう。「夫から離れること・逃げること・身を隠すこと」が何よりも最優先されるケースでは、元妻や子どもの命の危険も孕まれていて、ともかく元夫との関係は一切シャットアウト!と、求められる場合も少なくはない。
その意味では、シングルマザーサポート団体全国協議会が、2020年2月28日、共同親権の法制化に反対する署名1万708筆を、当時の森法務大臣に提出したこと、またNPO法人「しんぐるまざーず・ふぉーらむ」が共同親権に「慎重であるべき」と意見を提出していることも、理解はできる。目の前の「シングルマザー」たちの生命と生活と子どもたちを守るための切羽詰まった要求であり行動でもあることは明らかだからである。しかし、だからといって、「親権」とは何か、子どもにとって「親」とは何か、のテーマについての議論に蓋をしていいことにはならないだろう。
諸外国では、少しずつ、「子どもの権利」のための「家族」のあり方、「親」のあり方、多様な結婚のあり方、あるいはまた、離婚後の親子のあり方が、少なくとも真摯に議論され、少しずつ改革されている時に、日本では、「シングルマザーを守れ!」と目前の課題ゆえに、議論そのものをシャットアウトしていい、ということにはならないと私は思う。
改めて、「日本の民法上の親権」を考える
日本の戦後の民法が、確かに欧米の民主主義に倣って、父権的な「家」制度を廃して、「男女平等」の理念に基づく「一夫一婦婚」を規定したことは事実である。しかし、根深い家族の生活と習俗に関わる部分であるために、政治家も法学者も、ましてや一般庶民もまた気づかぬままに、多くの「家」制度が残されてきたことも事実である。
「親権」に限って、もう一度振り返ってみよう。
明治民法(1898・明治31・年)882条1項(現代文改め):親権を行う父または母は必要なる範囲内において、自らその子を懲戒し、又は裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。
(戦後)民法822条1項:親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。
驚くほどに「同一の」視角であり内容である。したがって、戦後も又、「家」を継承していくための「親子関係」および「親権」という性格が、民法上そのままに受け継がれたことがよく分かる。だからこそ、親の子に関する「居所指定権」(821条)、「懲戒権」(822条)、「職業許可権」(823条)、「財産管理権」(824条)と列挙されるのであろう。
ただし、この後、世界的には女性・障害者に次いで、「子ども(児童)」の権利にもスポットが当てられ、1989年「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」が第44回国連総会で採択された。
それを日本が批准するのは1994(平成6)年4月、民法が改正されるのはさらに遅れて2011(平成23)年になってからである。ただし、条文中に「子の利益のために」が挿入されたものの、「親権」のあり様そのものには、ほとんど手はつけられていない。
さすがに実態が不明の「懲戒場」は削除されたものの、「親による子の懲戒(権)」は残されたままである。
・ 民法820条:親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し義務を負う。
・ 同822条:親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。
また、日本の「養子縁組」における「親権」のあり様も複雑である。緻密な検討はここでは省略するが、やはり、「家」や家業を継がせていくための「養子縁組」が起点になっているためであろうか、今でも、養親に親権が所属し、実親の親権は「消滅」する(813条第2項。「普通養子縁組」の場合の多数説。「特別養子縁組」の場合は、実親子関係の「切断」により、実親の親権は「消滅」)。
さらに、偶々目に入った最新情報(3月1日朝日新聞)によると、
男性から性別を変えた40代女性と、自身の凍結精子を使って、現在の女性パートナーとの間に生まれた子どもとの親子関係は、「現行の法制度とは整合せず」、「法的な親子関係を認めることはできない」という判決が下されたという(東京家庭裁判所、小河原寧裁判長、2022年2月28日)。
この判決の中では、元男性(現在女性)と子どもとの「血縁上の親子関係」は認めたものの「法律上の親子関係」と認めることはできない。なぜなら「法制度との整合性を考えて決めざるを得ないからだ」との説明だったという。さらに「民法が想定する父は男性を前提としている」とのことだ。
ジェンダーが問題にされ、性自認やカップルの多様性が問題にされている時代、日本の民法上の「親権」は、あまりに旧態依然であることは明らかである。また、離婚の際に取り決められるのが当然とされる元父親への「養育費」の請求も(民法766条、2012年4月施行)、考えて見れば、社会の「性別役割」の観念と実情を安易に前提にしているにすぎない。社会的な子ども手当の充実、シングル家庭へのさまざまな手当てや控除など、必要な施策は後回しである。このような余りにも形式的な「民法上の親権」の捉え直しと民法の再度の改正を抜きにしては、実親の「養育権」としての「共同親権」は、まともな議論にすらならないのではないだろうか。問題はまだまだ残されている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye4893:220303〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。