あの遠い赤い空~東京大空襲とウクライナと
- 2022年 3月 11日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
池袋の生家が空襲で焼け出されたのは、1945年3月10日の「東京大空襲」ではなく、4月13日から14日未明にかけての「城北大空襲」であった。私は、母の実家があった千葉県の佐原に母と次兄の三人で疎開をしていた。池袋では、父が薬屋を続けていたし、長兄は、薬専を1945年9月の繰り上げ卒業と召集を前に「軍事教練」のために通学していたはずである。
私には、母に抱かれながら「東京の空が赤い」と指さされた夜のかすかな記憶がある。それが、3月10日であったのか、4月の城北大空襲の遠い炎であったのか、尋ねた記憶もない。
そして、4月の大空襲の数日後だったのだろう、父と長兄を、佐原駅頭で迎えたときの記憶がかすかによぎる。後で聞かされた話と重ねてのことなのだが、私は父に、東京からの土産をねだったそうだ。それまで、父がたまに疎開先を訪ねてきたときの森永キャラメルだったり、ビスケットだったり、なにがしかの土産を楽しみにしていたらしい。父は、隅に焼け焦げの残った、小さな肩掛けかばんを指して、逃げるのが精一杯で、何もないんだよ、諭したそうだ。
家は燃え、防空壕の周りも火の海で、父と長兄は、手拭いで手をつなぎ、焼夷弾が燃え盛る中を、川越街道をひたすら走り、板橋の知り合いの農家に駆け込んだという。
かすかながら、私にはもう一つの記憶がある。まだ、疎開前だったから、1944年のことだと思う。やはり空襲警報が鳴り、家族で防空壕に逃げようとしたとき、ちょうど風邪でもひいていていたのだろうか、母は、家の中の床下の暗い物入の中で、布団にくるまっていた。私たちに早く防空壕へ「逃げて」という声と顔がよみがえるのである。そして、これは母から何度か聞いた話なのだが、やはり、真夜中に空襲警報が鳴り、寝ている私をたたき起こすものの、くずっている私に、母は、防空壕に逃げないと死んじゃうよ、と必死だったらしい。そのとき、「シンデモイイ」と泣き叫んだそうだ。
いずれもどこかで、すでに書いたりしているかもしれないが、やはり今日という日に、書きとどめておきたい。いま、ロシアのウクライナ侵攻の爆撃や避難する市民たちの映像と重なる。
いま、いったい私に何ができるのだろう。
初出:「内野光子のブログ」2022.3.10より許可を得て転載
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