ウクライナ戦争をめぐる論点(メモ風に)
- 2022年 3月 31日
- 評論・紹介・意見
- ウクライナ白川真澄
2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻が引き起こしている惨状に心が痛む日が続いています。それでも、ウクライナ市民の抵抗とロシア国内の反戦行動に強く共感し、これに連帯する行動に少しでも関わりたいと思ってきました。ウクライナの戦争をめぐってさまざまの議論が起こっています。ロシアやウクライナの現状や歴史、国際政治の理論に関しては素人であることを承知の上で、いくつかの論点について考えたことをメモ風に述べます。もう少し時間をかけて調べたり考察を深めたい事柄もあるのですが、とりあえず自分自身の考えを整理するための作業を文章化したものです。
Ⅰ ウクライナ戦争で最大の責任・罪を問われるべきは、プーチンである。
ウクライナ戦争をめぐって“ロシアも悪いが、米国やNATOも同じように悪い”といった言説もあるが、ロシアのウクライナ侵略とNATOの東方拡大を同列に並べて非難することは、結果的に戦争犯罪人・プーチンの罪一等を減じることになる。
(1)プーチンのウクライナ侵略の最大の口実とされているのは、NATOの東方拡大である(侵攻前の2月21日のロシア国民向けのビデオ演説)。たしかに米国主導のNATOの東方拡大は、ロシアに安全保障上の不安(「ロシアに対する軍事的脅威」)を感じさせ、ウクライナ侵攻の口実を与えてしまった。その意味で、米国の対ロ外交・安全保障政策の重大な失敗と誤りである、と言わねばならない。
(2)しかし、ロシアのウクライナ侵略の主要な動機=理由は、プーチンの「ロシア帝国の復活」という野望にある。彼は2月21日の演説のなかで、“ウクライナはロシアの譲渡できない不可分の一部である”と公言して、軍事侵攻に踏み切ることを正当化する。さらに、“ウクライナは2014年政変以降、欧米のかいらい政権の植民地に落ちている”と認定して現政権の転覆をめざす狙いを隠さない。そして、“NATOのさらなる拡大を防ぎ、1997年以前の状態に戻す”と宣言する。ここには、大国として復活したロシアを無視し貶めてきたポスト冷戦の国際秩序を覆そうという意思が表明されている。プーチンはこの企てを、国際法をふくむ既存のルールの暴力的な破壊という方法で試みたのである。
(3)私たちは何よりも先ず、ロシアのウクライナ侵攻を弾劾しなければならない。今回の侵攻がプーチンの「ロシア帝国の復活」の野望に起因していることを明確にした上で、その誘因となったNATOの東方拡大をきびしく批判する必要がある。ウクライナ戦争を起こした最大の責任と罪がプーチンにあることを曖昧にすることは、許されない。
※「ロシア軍によるウクライナへの攻撃は正当化する余地のない蛮行であり、……これ以外にも考えるべき点が多々あるとはいえ、それらはすべてこの最重要の点を確認した上で、その後に考えるべきことだという順序関係は明確にしておかなくてはならない」(塩川伸明「ウクライナの戦争をめぐって」、22年3月13日)
Ⅱ ウクライナ市民が武器をとって抵抗することについて
ウクライナの市民はいま、激しい爆撃にさらされながら、さまざまの方法と形態でロシアの軍事侵略に抵抗している。
(1)ロシアの軍事侵攻に対するウクライナの市民の抵抗は、異なる方法と形態をとって行われている。①政府軍(国防軍)とともに武器を取ってたたかう。②非武装で抵抗する/素手で戦車に立ち向かい、抗議や説得の行動を行う。③逃げる/避難民として国内外に逃避する(ただし、18~60歳の男性の出国の自由は奪われている)。
(2)ウクライナの市民は、きわめて難しい選択を迫られた。シェリアジェンコの「武器を持つことを拒否し」て抵抗する道と「イリア」たちの「武器を取る」道のいずれを選ぶかという難しい決断である(小倉利丸が紹介しているマイク・ルートヴィヒ、Truthout「戦争はウクライナの左翼に暴力についての難しい決断を迫っている」)。しかし、ひじょうに重要なことは、「暴力の役割に関する異なる見解が、両活動家に、互いに敵対するのではなく、むしろ補完し合うような積極的闘争を行わせている」ことである。
(3)ウクライナの市民に対して“武器を取るべきではない”と説教する資格は、私たち(日本の市民)にはない。武器を取ってたたかわないと言うときの主語は、あくまでも「私は」であるべきだ。あるいは、私たち日本の市民は、もし仮に軍事侵略を受けた場合でも、武器を取らず非武装の抵抗の道を選ぶと言うべきである。
(4)私は、武器を取って抵抗しているウクライナの市民を支持するが、同時に次のことを主張したい。市民が武器を取って政府軍とともにたたかうことには、一定の効果があるとしても、ひじょうに大きなリスクがともなう、と。
ウクライナの軍事的な抗戦は、多大の犠牲(ロシアの兵士を含む)と被害を出しながら、ロシア軍による短時間でのキエフ占領とかいらい政権の樹立というプーチンの当初の目論見を挫折させた。また、軍事侵攻という暴挙がいかに高くつくか、つまり、どれだけ高いコストを支払うことになるか(戦費=財政的負担と人的な被害の急増、経済制裁による経済と生活の破局)を教えることになった。このことは、ロシア国内での反戦と厭戦の気分の拡大を促進している。
しかし、市民が武器をとってたたかうこと(領土防衛隊への参加)は、政府軍の指揮下での戦闘にならざるをえない。政府軍は米欧の武器支援に依存して戦っているから、米国とロシアという大国=覇権国間の戦争に加わることになる。このままでは、生物・化学兵器や戦術核兵器の使用の危険性をはらむ大量殺人兵器のエスカレーションに発展しかねない。
また、政府軍にはアゾフなど極右の部隊が組み込まれているだけでなく、米国の民間軍事会社の傭兵部隊(「アカデミア」など)が加わっている。だが、これらと一線を画することは難しい。
(5)軍事力によってロシア軍を撃破して撤兵を実現しようとすれば、市民の犠牲はかぎりなく大きくなる。簡単なことではないが、できるかぎり早く交渉によって停戦を実現し、ロシア軍を撤兵させることが望まれる。占領地域においても市民による非武装の抗議と不服従の抵抗運動が広がっている。この行動が、ロシア国内の反戦・反プーチンの運動の高まりと連携してロシア軍を撤兵させる最大の力になるだろう。
※ウクライナの抗戦に関して、ゼレンスキー政権が市民を戦争に駆り出し、多くの人びとを戦争に巻き込んで生命の危険にさらしている、という批判がある。こうした見解は、ロシアの侵攻に対して軍事的な抵抗を行わず、早期に降伏して占領やかいらい政権の成立を許すが、非協力・不服従の抵抗を続けるべきだ、と主張しているのだろうか。こうした道は、たしかにありうる選択肢である。しかし、軍事的な抵抗を行うか、抗戦せず降伏して抵抗を続けるかの選択は、ウクライナの市民が決めることである。
Ⅲ NATOの東方拡大について
1 NATOの東方拡大をしないという「約束」はあったのか
NATOの東方拡大は、以下のような経過で行われた。
1990年 米国のベイカー国務長官がゴルバチョフに「ドイツ再統一を認める代わりにNATOが東方に1インチも拡大しない」と伝えたが、ブッシュ大統領が認めず文書化されなかった
1991年 ソ連邦解体、ワルシャワ条約機構が解体、ウクライナが独立
1994年 ロシア、NATOの「平和のためのパートナー(PfP)」プログラムに参加1997年 ロシア、NATOとの間で「相互関係協力セキュリティ基本文書」に調印
1999年 ポーランド、チェコ、ハンガリーがNATOに加盟
2004年 バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、スロベニア、スロバキア、ブルガリア、ルーマニアの7カ国がNATOに加盟
2008年 NATO、ブカレスト会議でウクライナとジョージア(グルジア)の加盟を将来的に認める。ロシアがウクライナ加盟に強く反発
2009年 クロアチア、アルバニアがNATOに加盟
2014年 ウクライナで政変(親欧米派政権が成立)、ロシアがクリミア半島を併合
2017年 モンテネグロがNATOに加盟
2019年 ウクライナ憲法改正、NATO加盟をめざすことを盛り込む
2020年 北マケドニアがNATOに加盟、加盟国は30カ国に
プーチンは、米国が冷戦終焉時(1990年)に「NATOを東方に1インチも拡大しない」と約束しながら、その約束を破ってきたと非難し、このことを軍事侵攻の理由にしている。ところが、こうした約束があったか否かについては、見解が分かれている。
東郷和彦は、この約束が口頭であれ行われたという見解を述べている。「1990年2月のドイツ統一交渉で、米独の枢要な交渉者は、ドイツ統一をソ連が是認するなら、1インチもNATOを拡大しないと、口頭ではありますが、約束しました」(東郷和彦「プーチンの野望」、畔蒜泰助との対談、『文芸春秋』22年4月号)。
下斗米伸夫も、「冷戦末期の90年2月、当時のベーカー米国務長官とゴルバチョフ大統領の間で、ドイツ統一をソ連が許容する代わりにNATOが東方に1インチも拡大することはしないという合意がされた。しかし合意を文章化する前にソ連が崩壊した」と述べている(インタビュー:下斗米伸夫「ウクライナ緊迫、ロシア研究の第一人者が『軍事侵攻は起こり得る』と考える理由」、DIAMOND online22年2月8日)。「94年のブダペスト合意では、……その時もNATOのウクライナへの東方拡大の話は出ていなかった。だがクリントン大統領は96年秋再選を狙うなかで、米国内の100万人いるポーランド系の人たちを取り込もうとして、ジョージ・ケナンなど外交官やロシア問題専門家の意見を無視してNATO拡大を推進した」(同)。
これに対して、そのような明確な約束はなかったという見解も出されている。小田 健は、「(ドイツ再統一を交渉した)2+4のプロセスでは、ミハイル・ゴルバチョフもソ連のほかの政府関係者も東ドイツ以外へのNATOの拡大の問題を提起したことはない。したがって、ソ連の誰1人としてNATOがワルシャワ条約機構諸国に拡大しないという約束を得ていない」という米国のマーク・クレイマーの言を引いている(『現代ロシアの深層』2010年、日本経済新聞社)。
袴田茂樹も、N・グリンスキー(エリツィン政権時のルツコイ元副大統領の報道官)の論文にもとづいて、NATO不拡大の約束はなかったと断じている。「《NATO拡大に関し、『欧米はゴルバチョフに拡大しないと約束した』というのも神話だ。ゴルバチョフ自身が2014年10月16日に『当時はNATO拡大の問題そのものが提起されなかった。それは私が責任をもって確言できる』とRussia Beyond the Headlines(露の英語メディア)で述べている。……。》」(「NATO不拡大の約束はなかった――プーチンの神話について」、日本国際フォーラム、22年1月31日)。
細谷雄一はメアリー・サロッティの研究に依拠して、1990年2月に米国のベイカー国務長官がゴルバチョフに対してNATOの東方拡大をしないという発言をしたが、ブッシュ大統領が認めなかったために「約束」にならなかったと述べている。「実際にベイカーがそのように発言した史料が残っており閲覧可能ですが、その後モスクワからワシントンに戻ってブッシュ大統領に報告をした際に、ブッシュ大統領はそのようなベイカーの提案は到底アメリカ政府としては認められないということで却下します。ですので、これは約束ではない」(「NATOの東方不拡大の『約束』はなかった――最新の外交史研究の成果から」、22年3月2日)。
さらに、「1997年にクリントン大統領とエリツィン大統領がNATO東方拡大についての米ロ首脳会談をした際に、ロシア政府側から『1990年のベイカー発言』について問題提起があったようです。それに対してクリントン大統領は、1990年の『約束』とはあくまでもドイツ統一に関連した内容で、中東欧諸国についてではないと論じ、それをエリツィンも了解しています。これで、米ソ両国とも、1990年に米ソ間でNATO東方不拡大についての『約束』があったわけではないことを、確認したことになります」と論じている。
3 米国が進めたNATOの東方拡大は、重大な誤りであった。
NATOを東方に拡大しないという「約束」が(文書による)明確で公式のかたちでは存在しなかったとしても、しかし、米国主導のNATOの東方拡大(旧ソ連圏諸国の加盟)がヨーロッパの平和にとって正しい政策であったか否かは、別の問題である。
米国は、冷戦後のロシアが経済危機と混乱に陥り弱体化したことに乗じて、ロシアを侮り、その安全保障上の懸念や要求に真剣に向き合わなかった。つまり、ロシアを含む包括的な安全保障体制を構築して軍縮と核兵器の配備撤去を進める道を取らなかったのである。
たしかに、ソ連による抑圧や侵攻を経験した旧ソ連圏諸国の側からの強い加盟要請があったことも、NATOの東方拡大の1つの要因であった。ポーランドとバルト3国は戦前(1939年、1940年)、ハンガリーやチェコは戦後(1956年、1968年)にソ連の軍事侵攻を受けた歴史的な被害体験を持っている。また、ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)やプーチン政権による大虐殺を伴うチェチェン侵攻(第2次、1999年)は、ロシアの軍事侵攻の危険性への不安を抱かせる材料となっていた。
しかし、プーチンも、2002年には「NATO加盟の可能性を排除しない」と発言していた。また、2008年には、「NATOはソ連に対抗するために創設された軍事同盟だが、その当のソ連がかなり前に崩壊し存在していないと指摘、欧州に新たな目に見えないベルリンの壁を作る必要はないと述べた。さらに『もしこれらの国が今日NATOに加盟すれば、明日にはそこに攻撃的ミサイル・システムが配置され、我々に重大な脅威を与えるだろう』と懸念を示した」(小田、前掲)。ロシア側のこうした態度や懸念を受けとめ、ロシアを排除しない形の安全保障体制を築くチャンスがあったと言える。例えばOSCE(欧州安全保障協力機構、NATO30カ国にロシアやウクライナを含む57カ国が加入)の機能を強化する、フィンランドやスウェーデンとウクライナが連携して中立地帯を形成するといったことである。
だが、米国は「東西冷戦の勝者」として自らの力を過信する驕り高ぶった対応をとった。例えば、ジョージ・ケナンは、1999年に始まる「東方拡大はロシアを挑発する危険な選択だとして、これを強く批判した……。それ以外にも、何人かのアメリカのリアリスト系政治学者や外交官たちが同様の見地を無視していたが、クリントン政権によって無視された」(塩川、前掲)。
「ロシアの側からするなら、自国がそのように[脅威と]見なされるということ自体が『西からの脅威』と孤立という感覚をもたらした。……NATOとロシアのミラー・イメージが亢進することで『脅威』が自己成就する予言となっていった」(塩川『歴史の中のロシア革命とソ連』2019年、有志舎)。
プーチンを激怒させNATO拡大の阻止に向かわせたのは、2008年のブカレスト会議でNATOがウクライナとジョージア(グルジア)の加盟を認めたことだと言われている。これについては、「NATO加盟はウクライナの国を分裂させる可能性のある問題であり、ウクライナの混乱を加速させる決定をすべきではないとの声がNATO内にはあ」った(小田、前掲)。だが、クリントン政権はこうした反対を押し切って、ウクライナの将来的な加盟の決定に持ち込んだ。
NATOの東方拡大は、ロシアを孤立させて軍事的な緊張関係を強めたという点で、米国の外交・安全保障政策の重大な失敗と誤りであった。ところが、これに反発したプーチンが2014年にクリミアに軍事侵攻して併合を強行したことによって、NATO拡大へのプーチンの批判の正当性は一瞬のうちに失われた。クリミア併合は、ウクライナとの緊張関係を一挙に高めただけでなく、G8体制からのロシアの除外、米国によるロシアへの制裁を引き起こした。
そして、NATO拡大を防ぐという名目で行った今回のウクライナ侵攻は、皮肉にもフィンランドなどでのNATO加盟の世論の高まりと軍備増強をもたらしている。
4 ウクライナはNATOに加盟せず、フィンランドやスウェーデンと連携して中立地帯 を形成することが、望ましい。
ウクライナのNATO加盟問題について、下斗米伸夫は今回の侵攻前に次のように提唱している。「一番、現実的で望ましいと思うのは、ウクライナのNATO加盟については20年間のモラトリアム期間を置くことだ」。「フィンランドやスウェーデンと併せて中立地帯を作るといった知恵を働かせる余地がある」(前掲)。
塩川伸明も、ロシアの侵攻がNATO加盟論を一気に高めて「ウクライナをNATO側に決定的に追いやってしまった」が、それでもNATOに加盟せず「中立化」するのが望ましいと述べている。「「独立時[1991年]のウクライナは『中立』を掲げており、NATOにも入らず、ロシア中心の独立国家共同体集団安全保障体制(CSTO)にも入らないというのが基本方針だった」。「『中立化』はロシア側の要求であり、それを受け入れるのはウクライナの大きな譲歩ということになるが、振り返っていうなら、独立後長いこと『中立』が基本方針だったのだから、2019年憲法改正以前に戻るのだと言って言えなくもない」(前掲、「ウクライナの戦争をめぐって」)。
侵攻を受けているウクライナのなかでも、与党の「国民のしもべ」は3月8日に声明を出し、NATOが「ウクライナを最低15年は受け入れる用意がないことは明白だ」として、NATOへの加盟を当面棚上げし、ロシアを含む周辺国と新たな安全保障の取り決めを結ぶという構想を明らかにしている(朝日新聞3月10日)。また、ゼレンスキー大統領も、NATOがウクライナを受け入れる用意がないことを認めると発言している。
5 プーチンは「ロシア帝国復活」の野望に突き動かされて侵攻に踏み切った。
プーチンが無謀な軍事侵攻に踏み切った最大の動機=理由は、「ロシア帝国の復活」の野望である。それは、どのようなものなのか。
プーチンは、第一に、ウクライナはロシアの譲渡できない不可分の一部である、と固く信じている。つまり、独立国としてのウクライナの存立を認めていないのである。
「ウクライナは……私たち自身の歴史、文化、精神的空間の、譲渡できない不可分の一部なのです。……。太古の昔から、歴史的にロシアの地であった場所の南西部に住む人々は、自らをロシア人と呼び、正教会のキリスト教徒と呼んできました。17世紀にこの地の一部がロシア国家に復帰する以前も、その後もそうでした」(22年2月21日の演説)。また、2021年7月12日に発表された論文のなかで「ウクライナの真の主権はロシアとのパートナーシップがあってこそ保持できる」と主張している(NHK21年7月13日)。
現代のウクライナは、レーニンたちが民族自決権の理論にもとづいてロシアから無理矢理に分離して人工的に作られたものにすぎない、というのがプーチンの歴史認識である。「現代のウクライナはすべてロシア、より正確にはボルシェビキ、共産主義ロシアによって作られたものである……。このプロセスは実質的に、1917年の革命の直後に始まり、レーニンとその仲間は、歴史的にロシアの土地であるものを分離し、切断するという、ロシアにとって極めて過酷な方法でそれを行いました」。「スターリンは、……それ以前はポーランド、ルーマニア、ハンガリーに属していたいくつかの土地をウクライナに編入し……1954年にフルシチョフはクリミアを、何らかの理由でロシアから取り、ウクライナに与えました。事実上、こうして現代ウクライナの領土が形成された」。「ロシアとその国民の歴史的運命に関して言えば、レーニンの国の開発の原則は……間違いよりもひどいものだった」((22年2月21日の演説)。
第2に、プーチンは、2014年政変(「マイダン革命」)以降のウクライナ政権は欧米のかいらい政権である、と捉えている。「ウクライナの人々は、……自分たちの国が、政治的・経済的な保護国どころか、傀儡政権による植民地に落ちていることに気づいているのでしょうか」。「過激な民族主義者たちは、正当化された国民の不満を利用して、マイダン抗議デモに乗じましたが、2014年のクーデターへとエスカレートしていきました」(同)。
2014年の政変(親欧米派政権の成立)に米国などの支援があったことは間違いない。しかし、その後の政権が選挙という民主的な手続きによって選ばれた政権であり、多数の国民の同意にもとづいて成立していることは明らかである。ウクライナの政権をかいらい政権と呼んで、その政権を外からの軍事力によって倒す、そして親ロシアのかいらい政権に置き換えるといった暴挙が許されるはずがない。
「ロシア帝国の復活」の野望は、大国として復活したロシアにそれにふさわしい地位を与えないポスト冷戦の国際秩序を覆す試みとして現われた。プーチンは、米国が「冷戦の勝者」として振舞う国際秩序を極めて暴力的な手段で破壊しようとしたが、既存のそれに代わる国際秩序の構想を提示しているわけではない。
「ロシアが悲惨なまでに落ち込んでいた時に作られていた『冷戦後の欧州の安全保障秩序』を変えなくてはいけない。必要ならば、軍事力を使ってでも『尊敬される大国』としてのロシアの主張を貫徹させねばならない。そういう覚悟が生まれてきたのではないか」(東郷、前掲)。
Ⅳ ウクライナ東部2州の問題について
1 東部2州の武力紛争と「ミンスク合意」の不履行
ロシアのウクライナ侵攻の直接のきっかけとなったのは、東部のドンバス地方の2州で2014年以来続いてきたウクライナ政府軍とロシアの支援する分離独立派との武力衝突である。プーチンは今回、分離独立派の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」(すでに2014年にウクライナからの独立を宣言していた)の主権を承認し、その要請にもとづく「平和維持活動」の名目で軍事侵攻に踏み出した。
この紛争は、2014年のロシアによるクリミア併合と同時に始まったが、その詳しい経過についてはとてもフォローしきれない(さしあたり、佐藤親賢『プーチンとG8の終焉』、2016年、岩波新書が、参考になる)。
しかし、8年近くに及ぶこの紛争では、戦闘員と民間人併せて1万6千人以上の死者、150万人近くの難民が生まれていると報告されている(HRWのレポート22年2月23日)。また、この紛争では、政府軍に属する極右組織アゾフが残虐な行為を働いたり、政府軍が21年10月にドローンを使った攻撃を仕掛けたことが指摘されている。
そして、ゼレンスキー政権がこの紛争解決のための合意「ミンスク合意2」を履行しなかったことが重大な過ちだったと批判されている。「ミンスク合意2」(2015年2月)は、ドイツとフランスが仲介してロシア、ウクライナの4首脳が合意したもので、全面停戦、すべての外国部隊と雇い兵のウクライナ領土からの撤退、親ロシア派の支配地域に「特別な地位」を与える恒久法の成立などを定めた。この合意に反対する民族主義勢力に突きあげられて、ウクライナの政権、とくにゼレンスキー政権は合意の反故に動いた。
ゼレンスキー政権がミンスク合意にある東部の親ロシア派の支配地域に幅広い自治権を与える法律の制定を履行しなかったことは、大きな誤りであった。ただし、ロシアが分離独立派の武装組織への支援を続けたことも、ウクライナの政権を合意の反故に走らせた要因となった。
2 「少数民族」としての残留ロシア人の自治と分離独立
ロシア人が多く住んでいるドンバス地方の紛争の根っこにあるのは、歴史的には「ソ連が解体してロシア以外の共和国にいわば『取り残された』残留ロシア人問題」(中井和夫「民族問題の過去と現在」、『岩波講座 世界歴史27 ポスト冷戦から21世紀へ』、2000年)である。
そうしたロシア人は2500万人、とくにウクライナには1000万もいる。彼ら/彼女らは、ロシア帝国の時代から周辺民族地域に移住し、帝国とソ連の農工業の発展を担ってきた。だが、ソ連が崩壊してもロシアに帰還することはできず、「ロシア以外の共和国の住民として、また各共和国内での『少数民族』として暮らしていくほかはな」かった(同)。
冷戦の終焉とソ連邦の解体によって大国の地位から転落したロシア内では、「不当に貶められたと感じる『傷ついたナショナリズム』」が台頭し、「帝国の復活」が主張されるようになった。それは、具体的には「ウクライナのドンバス地方のロシア人が多く住んでいる地域の『回収』、ロシアの外に住むロシア人の保護を要求する運動」(同)となって現われる。プーチンのクリミア併合、ドンバス地方での分離独立派への支援は、こうした流れの上に行われたものであろう。
「少数民族」であるロシア人が多く住む地域において、分離独立による領土割譲(国境線の引き直し)をめぐる武力紛争にまで至ることをどのように抑制するか、そのためにロシア人に高度の自治権をどのように保障するのか。この問題は実に厄介な問題であり、簡単な解決策が見つかるような問題ではない。しかし、ロシアによる軍事侵攻が起こってしまった現在でも、知恵を働かせて解決策を見いだす試みが求められている。
(2022年3月27日記、PP研WEB3月29日に掲載)
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〔opinion11907:220331〕
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