冬 物語 新宿 2021~2022
- 2022年 4月 4日
- 時代をみる
- ホームレス笠井和明
冬の日の東京都心.,
とあるターミナル駅。そこへ毎朝通うわけではないのだが、時折、その再開発され続けているきらびやかな駅を通る。その、工事中のフェンスの片隅に丁度良いスペースがあり、そこに路上のおじさんが寝ていたり、座って居たり、居なかったり。
朝、通勤時間帯、エスカレーターに乗り、その場を見つめていると、今日は居た。
起きていれば声でもかけてやろうと思って、ずっと見続けていると、いかにも通勤途上のうら若き女性が、そっとそこへ近寄り、のぞき込み、そして何かを置いていった。時間にしてほんの数秒。
エスカレーターを降り、自分もまた、そこをのぞき込んでみると、毛布の上に「メロンパン」が一つ置いてあった。
団体とか教会であれば、勧誘のチラシが置かれているのであるが、それもない。単なる知りあいか、わざわざそのために買って来たのか、たまたまなのか?
喧騒の中、そのおじさんは、そんなことも気付かず、毛布を頭からかぶりぐっすりと眠っていた。
その後、どうなったのか、弥次馬根性で、その地点を気にかけているのであるが、その日以降、その場所に、そのおじさんは居ない。「メロンパン」がその場から出るきっかけになったのか、何がきっかけになるか、分からぬ世界なだけに、そんなことも夢想してしまう。あなたの「メロンパン」がおじさんの命を救いましたと云うと、とても大袈裟になるが、命は救わないとしても、何となく社会の優しさに触れられたのだと思えば、それは、きっと何かになったのであろう。
そう云うさりげない「善意」は、殺伐とした東京が、「コロナ」のせいでますます殺伐、暗澹化している中、何か、形でないものを信じてしまいそうにもなる瞬間である。
まあ、こんなことは良くある。誰も見ていないだけである。
新宿でも夜中、仲間が横になるために集まる場所では、その時間帯のためにわざわざ来たのであろう、枕元にパンやら、手作りのお弁当やら、お菓子やらが置かれていることがある。個人か、グループか、ただ、路上の人々が心配で来たものである。
この冬も、昔の知りあいからの電話で「どこそこ」に「心配な路上の人がいるから見ておいてくれ」と依頼された。「何も持っていなかったからお金を置いていった」とのこと。「幾ら」と聞いたら「一万円」。まあ、それだけ貰えば、そのおじさんはどこか別の場所で暖を
取っているだろうと、実際、行って見たけれども、そこには、まあ、居ない。
この冬も多くのお米、防寒着衣類、毛布を大量に頂いた。お米は2トン程度、防寒着類は1000箱程度(一箱平均10着程度で、およそ一万着)、毛布は800枚前後、マスクは数万単位などなど。と、どこも足の踏み場がないくらいの数量で、整理するのにも多くの時間を費やし、誠に嬉しい悲鳴となった。その大半が個人の方々からである。
旦那さんが亡くなって、息子さんが亡くなって、引越をしなければならないなど色々な事情の中、不要になったものを役に立ててと、同封のメッセージが添えられているものも多い。大切な遺品などを路上の仲間に提供することが供養になるのかならないのか、古着は古着なのであるが、その物語を知ってしまうと、何とも切ないものはある。そして、その思いを衣類をもらう当事者になかなか伝えられず、申し訳なくも思う。
現金の寄付も今期も大きな団体からの寄付はなく、すべて個人や、小規模事務所であるとか、小さな会社であるとか、そんな市井の人々からの浄財であった。
今や、このような無名で無垢な「善意」の人々の力で路上の人々は支えられてもいるのかも知れない。
都心では、路上生活者の数も減って来た。なので、かつてのような人がわんさか集まることも今はない。寝ている場所も分散をし、その集住地域が、地域で問題になることも少なくなった。
こう云う小さな「善意」の集合が積み重さねていけば、何とか(少なくとも飢え死にはせず、凍死もしない)なるような人数ではある。
まあ、ようやくそう云う時点にまで行き着いたのか、今は「コロナ対策」で、どこそこかに住民票を置いてあれば、幾ばくかのお金がもらえ、その時だけは路上には居なくなる。カプセルに入ったり、サウナに入ったり、漫画喫茶に入ったり、と、ターミナル駅等の繁華街は、金さえあれば、暖を取り、隠れる場所もある。
飯も、教会などの炊き出しを回れば、それはそれで何とかなる。防寒着や毛布やホカロンなど防寒用品もあちこちで貰える。風呂もシャワーサービスを利用すれば、どうにかなる。
あとは、煙草銭、酒代、幾許かの娯楽費でもあれば、それはそれで生活は成り立つ。
これらの「善意」は、きっと「対策」にとっては、悪い方(「依存」「路上の固定化」)に結びつくのであろうが、「共助」と云う視点に立てば、同じ立場、階層の人々の間の助け合いでもある。
まあ、色々な手を使い、色んなものを活用しながら生きていくのが底辺の人々の術であり、そこに善悪は存在しない。同情を武器にして世間を騙したとしても、それはそれで「あっぱれ」であり、騙されたとしても、それはそれで笑って許すのが、この世界の暗黙の了解みたいなところがある。
私たちが見る風景は、色々と変わっているようで変わらない。それなりに目立つところで寝ている人々は、そう云う「善意」があるからそこに居るのか、それともそう云う「善意」が引き寄せられるのか、それは本当のところは、よく、分からない。今や「ホームレス問題」「路上生活者問題」を、現場に来ずともステイホームで簡単に「検索」し、「納得」している人々がとても多いのであるが、実のところ、それが、どの時代の、どの地域の「事実」なのかと云うことには目をつぶり、何か分かったような気になり、興味を終えてしまう。まあ、終えてしまっても良いのであるが、その裏で実際の路上生活の人々は、日々の生活を営んでいる。その現実に触れることなく、まるで別の世界を語るかのよう、論じられるのが、ホームレスと云う存在のようである。
そんな中、新型コロナウィルス流行の第5波(デルタ株)が何となく終わり、大騒ぎにして経済を止めてしまった「非常事態宣言」もようやく解除され、「さあ、これから復興だ」的な雰囲気の中、(第6波(オミクロン株)の姿がまだ見えぬ時)またもや冬となった。
冬になって、「コロナ渦」で家賃を払えなくなったり、生活費に困った人々は、役所の「生活困窮者相談窓口」に行きはするが、路上には来ない。つまり、住む場所があり、暮らしがある。
経済が悪くなれば、人々が簡単に失業し、そのまま路上に来るかのような危機感がどこかあったが、そんな型通り、流行りのよう、路上生活にはならないものである。
「堕ちる時はいつも一人」である。一人でもがき苦しみ、死ぬか生きるかを必死で選択し、世間体など気にせず、逃げるように堕ち、行き着いたところが路上。そこには仲間が居た。仲間が居たから生きて来れたのである。
若い人々の場合は、事情は様々であるが、育った家を出、一旗揚げようと思ったり、何となく流れ着いたり、これまた色々な困難があり、思ったように上手くは行かず、けれど都会の片隅では何かと雑仕事もあるので、どうにか生きて来られた。好きで路上生活をやっているのではない。そこしか選択肢がなかったから、その暮らしになっただけである。
今回は、「コロナ渦」と云うことで、「生活困窮者自立支援法」の枠組みがかなり生き、東京都も特別区も社会福祉協議会なども、住民をホームレスにさせないため、住宅費の補助や、生活費の貸付などかなりの対策をとって来た。
これらの対策がうまくいったのか、いかなかったのかは、これからの評価になるだろうが、こと、路上生活者に関しては、この2年増えてはいない。微減であるが、減り続けている基本トレンドには変化はないので、うまくはいっているのであろう。
「生活困窮者」と云う用語はかなり幅広く、中間層のどんな人々にでも当てはまりそうであるが、「路上生活者」とは、そのものずばり、家がなく、路上に住まわざるを得ない人々のことであり、「ホームレス」とは広義に解釈しても、追い立てられているだとか、極端に不安定であるとか、その恐れのある人々である。
「コロナ渦」は、路上生活者を増やしはしていないが、飲食店、サービス業、旅館業とそれに関連する人々が営業自粛などの規制等を受けたことにより経済的に打撃を受け、「生活困窮」となってしまった人々が多く居る(あまりにも対象が広いので「補足」はなかなか難しいが)。と云うのが事実のようで、そこの路上との混乱が色々なところで起きてはいるが、当の「路上生活者」は、そんなことは知ったことではないし、あまり違う階層の仲間が増えるのを好まない傾向もあるので、俺らは俺らで、いつも困っているのだから「コロナ渦」なんぞ関係ないわと云う立場の人々が多く、「コロナ渦」の様々な対策、とりわけ「ネットカフェ難民」と呼ばれている、主に稼働層の若年層向けの対策を利用してしまえと云う人々は、新宿ではあまり居ないようである。そこまでの就労意欲は、もう歳を取ると薄れてしまうものである。
往時と比較すれば、路上生活者は都心において少なくなった(東京の数字の事実は、その主流は河川敷などでの仮小屋で暮らしている人々となる)。新宿などでは千人台が百人台へと桁が一桁減った。こう云うことをあまり認めたくないような人々が一部には居るが、これは概数調査でも実数調査でも実態調査でも巡回相談でも、自立支援センターへの入所属性の変化などからも、客観的な事実である。私たちのこの冬の夜間パトロール活動で把握した新宿の全体数(実数)は平均値で127名。都の概数調査以前から行っている歴史ある調査なので、精度に関してはそれなりの自負はあるが、この調査でも前の年から約40名は減っている。
その原因は色々あるだろうが、どこか別の場所に移動したとか、移民になったとか、そう云うことはない。往時の東京を知らない人々は分からぬだろうが、実感として、どこもかしこも「見事に減っている」のである。少なくなくともそれを前提に、今のホームレス問題と言うもを語らなければならないのであるが、そこもまた世間の見方は混乱しているのか、同じようなことを、同じ規模でやっているから、「逆進性」のようなものが起こり、自立支援センターに路上歴のない若者が多く入所し、結局は両者混合の施設になるとか、大きく宣伝している団体の炊出しに住所がある一般の人々が、出来あいの弁当なら良いやと殺到し、当の路上生活者がしかめ面をするなんてこともある。それはそれで仕方のないことであるが、出来あいの弁当を買って、出して、それを「炊き出し」と言うなんて、何だかお里が知れているような気がするのであるが、そんな、なんか違うよなと云うことが、「コロナ渦」の中、多く見受けられる。
そんなこんなで、今期の冬は路上生活者にかなり限定した取り組みを意識的に行った。他の「コロナ渦」の「生活困窮者」と呼ばれている人々や若者も、もちろん対応はしたが、コロナであろうがなかろうが、路上生活を続けている仲間が、無事にこの冬を越すことに、意識的に集中した。
そもそも、路上生活者への支援は何かと云えば、当座の生活の下支え(過酷な環境下で、その場で死んでしまったら元も粉もないので)と、家がないのだから、フォーマルでもインフォーマルでも住む場所の提供や獲得、そして仕事(雑仕事でも何でも)、年金なり、生活保護なり、定期的収入の獲得なり補填。加えて孤独にならぬような仲間作りである。
「対策」として考えてもそんなに難しい話ではない。そして、それぞれ難や課題はあったとしても、既に東京都の「路上生活者対策体系」としてでき上がっている(石原慎太郎元知事が先日お亡くなりになったが、石原都政の時代にこれらの体系は既に出来上っていたことは、あまり知られていない)。
それをコツコツと、多少の修正を試みながら、どこまでやっていけるのかが、今の課題である。
「対策」があると、そこをを行ったり来たりする仲間の層ももちろん居るし、そんな「対策」など必要ないと嘯く仲間も居る。相対的に「対策」を利用する仲間よりも、後者の仲間の方が今は多い。要は「今のままで良い」とする人々の列である。まあ、それこそ河川敷などで、一定の生活を維持している人々の多くはそう云うのであろうが、新宿など繁華街組も、何となく生活が成り立ってしまっているので、近年はそうなっている。
それはそれで、その人の意思を認めるしかない。昔の狩り込みではないが、無理やりトラックに乗せたり、無理やり収容所に入れたり、無理やり生活保護にさせたりしたとしても、それは「地面」は奇麗になるかも知れないが、それだけではないだろう。人の対策なのだから、人が幸せにならなければと、云うか、頑張ろうと思えるようにしなければならない。そのためにも本人の意思と云うのは、最大限、尊重せねばならない。もし、他に行きたい道があるのであれば、その道を計画し、そして実際に、掃き、作るのが我々の仕事でもある。
そうなると、当座の生活の下支えが軸になる。全体がどうなのかは、結構、地域地域で違うとは思うのであるが、こと、新宿では、そのようである。
冬の間は防寒物資との格闘でもある。前述した通り全国から大量に頂いた毛布、寝袋、防寒着などを捌き、運搬し、配る。回る。この循環の中で冬が終わったと言っても過言ではない。回ると言っても、かつてのよう一ヶ所にずっと居る訳ではなく、皆、それぞれのお気に入りの場所に居たりして、地域分散傾向なので、足が棒になるとはこのことで、スタッフ全員ひいひい言いながら、新宿の街を歩いた。
こうやって歩くと、常連の仲間だけではない新たな出会いもある。こんなところで寝ていたのかと云う驚きもある。ビルの谷間と云うのは面白いもので死角(目立たぬ場所)と云うものがあちこちにある。ガードマンやら警官やらが大目に見てくれる場所もある。
まあ、例年より寒い冬ではあったが、年末年始は新宿区の協力もあり(年末年始の諸対応は新宿区は率先してやって頂き、大変助かった)、それなりの拠点が確保できたこともあり、炊出しも出来、暖かい昔ながらの「労働者飯」を共に食うこともでき、皆で餅をついたり、酒を飲んだり、毛布の中で語り合ったりと、どこか懐かしい、そんな越年が出来た。病気の人も少なかった。皆、無事ではなかったとしても、どうかこうにか年が越せた。
それは、それで感謝しかない。
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どんなに蔑まれても路上にはいつくばり生きている姿は美しい。そんな昭和的な、演歌的なことを言う人は、もはや今は皆無に等しく、時代遅れであるようである。その能力をどう生かすのかなんてことを考える人々も、残念ながらこれまた皆無のようで、救済、救済と上から視線で叫び、そして、制度に流し、フォーマルに、そしてスマートに生きて行くことを推奨するし、それを「自立」だと、言う。
オリンピックがあり、それを機に着飾ってしまった令和の東京の在り方は、とても困ったものである。そして、何でも、忘れようとする。
そこに誰が居たのか、どんな苦労があったのかすら、今の都市は語ってくれない。
行政施策などの対策の歴史も変遷してきた。路上から「自立」までのレールを、生活保護法で対応できない、いわゆる「法外」の部分を揃え続けており、路上生活になってしまって、そこから抜け出したいと言った場合、それが可能なようにはなった。
社会は、その安心のため、ホームレスを「積極的に放置しない」ことを選ばざるを得なかった。その結果、ホームレスの数は減り続け、一部公園、路上、河川敷以外は、目立つところには居らず、都心では時間や曜日によってでしか大きく認識されないようになった。新宿などの都心では「流動」組が主流になった。
こうなると、社会は、それを覆い隠す目的がほぼ達成できたと思い、「放置はしないが、それは本人次第であり、積極的に何かをしない」とのスタンスに変化していく。
そんな中でも、困っている人を見ると、保護だ、福祉事務所だ、と叫んでいる人も多くなった。そう云う人は、実際の生活も分かっていないし、その先も分かってなどいない人々なのであろう。それは、それで正しいかも知れないが、役所に押し付けてしまえば良いと云う、都合の良い叫びであったりもする。
共生と言いながら、誰しも自分の家の玄関の前には居られたくはない。地域の中で暮らす路上の人々が減っているのは、そんな雰囲気があるからか。どこか自分の見えない場所を役所に紹介してもらい、文句は言わないから勝手にお前等暮らしたら良い。そうしてもらいたいと云う「中間層」の叫びであったりもする。
かつて、狩り込みに手を染めた人々は、単なる「善意」や仕事の義務感でやっていたのであろうか?狩り込んだ人が、時を経て、また同じく、同じ公園に居ることもあったであろう。同じ事の繰り返しを、どのよう感じていたのか?それとも、そこから脱出した人が、年を経て感謝のために訪れるなんてことがあったのだろうか?
まあ、何かを信じなければやってはいけないのであるが、江戸の時代ならば、「野非人」を「抱非人」にすることへ、どんな苦労と苦悩があったのだろうか?
江戸から明治、昭和、平成、令和と、この国の時代が変わっても、個性の時代、共生の時代だとか言いながら、その実、差別であるとか、同化圧力や、異端の生きづらさと云うものはあまり変わらない。
下層は下層のままである。
が、それがどうした。だから生き、そして、たたかうのだ。
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「見守り続けること」。これは、何だか簡単なようで、それは、それでとても難しい。その地で生活するとか、就労するとか、定期的に行くであるとか、まず、その地に執着をしなければならないし、実際にその地に行かなければならない。リモートは無理である。そして、
何かがあったときには、語りあい、そして、それなりの対応をしなければならない。いざと云う時のためにも、その地の行政機関とも顔をつないでおかねばならない。その上で、始めて「見守る」ことが出来る。単なる興味本位ではなく、同じ高さの視線で、その人々を見守る。
見知り合いともなれば、それは挨拶であるが、そこは極めて簡単で、「おう!」「やあ!」「元気?」の世界で、「巡回相談」なんていう高尚で立派な仕事のレベルではない。
けれど、それが必要であったりする。
そして、何と言って励ますのか?「福祉が何とかしてくれる」ので「生活保護を申請しなさい」。
否、それでは役所の人と一緒である。
自分の言葉で、あなたはこの社会は生きる価値があると、 生きることはお荷物でも何でもないよと、役人でない私たちは語らなければならないのである。この社会はどうしようもないが、それでも同じ立場の仲間なら大勢いるのだと、語り、励まさなければならないのである。
その言葉が出ない時は、「メロンパン」をそっと置き、無言の励ましをしよう。
それは、きっと、通じるから。
(了)
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