膀胱がん闘病記(序)
- 2022年 5月 28日
- 評論・紹介・意見
- 澤野登
「血尿が出た!?」確認までの経過
4月7日、排尿時血尿を確認する。便器の底には茶色の尿が見えるが、テッシューで
赤い血と確認する。1か月半前から排尿時にむず痒い痛みを自覚していたが、老化現
象と勝手に解釈したり、前立せん肥大手術の嫌な話を聞かされていたので無視を決め
込む。日一日一日とむず痒さも痛みに変わり、医院へ駆け込む直前には排尿時、尿道
がヒリヒリ痛む。近所の20年来の係りつけ医へ飛んで行き尿検査を行う。出血間違
いなし。泌尿器科受診を勧告される。
専門病院探し――入院まで
4月11日、市民病院泌尿器科を受診。その日のうちにエコー検査.内視鏡検査を行
い膀胱癌であることを告げられる。癌は6cmの大きさと告げられる。直前土日連休
と重なり、情報収集に困りこの市民病院の外来までたどり着くのに一苦労しました。
この病院を選んだ訳は、①検査だけでなく手術の可能性を考えたこと、②膀胱がん年
間手術件数が130件前後、③東京医科歯科大系であること、④家族のバックアップ
が必要であること等を勘案しました。連れ合いは頑健ではありません。
入院日は5月6日、オペ(オペレーション)は5月9日に決定。受診からオペ迄の
期間が長すぎると思いませんか?人気があり立て込んでいる?そうです、コロナのせ
いで感染予防優先のしわ寄せが原因でした。入院までに、血液検査.心電図検査.CT検
査.MRI検査.PCR検査等色々。
「取られて堪るか!」
先生言うには、「転移はしていません。詳しいことは手術してみないと解りません。
筋層に迄浸潤していた場合は、膀胱全摘出になります!」
※膀胱内部表面を粘膜上皮と言い、その下の筋肉層を筋層と言っている。筋層も浅筋
層,深筋層に分けている。浸純度によりTa(癌は粘膜表面に留まり粘膜下浸潤なし)、
T1~T4(T1は粘膜下層迄浸潤、手術で除去しても膀胱癌の場合は再発可能性大。ただ
し転移はしない。T2からは筋層に浸潤し、T4では近接臓器に浸潤。筋層浸潤からは転
移の可能性を考え、膀胱全摘出を行うのが常識になっている。筋層には血管が来てい
ますからネ。)「今回の手術では全摘は行いません。開腹手術ではありません。癌の取
れるところは取ります。病理検査をやります。」(ホーツ!)
一縷の望み託して、温存療法を調べまくる。①大阪医大方式②東京医科歯科大方式
③筑波大方式。こんなところでした。自費治療も考慮に入れて。担当医に温存療法を
希望していることを伝える。担当医には,むなしい悪あがきに映ったみたいです。
私には夢がある!(キング牧師ほどではないが...)
①私が居なくなっても、地域での哲学書読書会の定着②社会批評研への貢献③れい
わ新選組への支援活動④これらの三位一体展開での反戦平和世界の実現。
入院、手術まで。リゾートホスピタル6F窓側
5月6日入院。コロナ禍下の手術であることをヒシヒシと感じさせられる。
家族の面会も禁止!勿論お見舞いなどは問題外。ベッドでもマスク着用。
「ここはリゾートマンション改め、リゾートホスピタルか?!」。昭和30年前後までの記
憶に残る病院や結核療養所の雰囲気は、戦前の陸軍病院もこんな感じだったのでは?と
いう雰囲気。昭和40年代から雰囲気が変わり出しましたが、矢張り医者は全知全能の神
様。知り合いの外国人から驚いたと聞かされました。診療所でもらった薬名を聞こうと
したら無視を決め込まれました。全共闘の無給インターン制度廃止闘争、有給研修医制
度への移行の頃から、病院の雰囲気が急速に変わり始めたのでは?病室は明るい、大部
屋なのに4ベッドまで、ベッドはパラマウントの電動、個人用冷蔵庫付き、大きいロッ
カー、各部屋共用温水便座.温水洗面台付き。医者は威張らないしインフォームドコンセ
ントがしっかりしている。看護師もよく相談に乗ってくれる。薬剤師さんも質問には丁
寧に答えてくれる。今回は全身麻酔でしたが、麻酔担当医師も懇切丁寧に説明してくれ
る。次から次に医療関係者がベッドに押しかけて来て、「貴方は何の係ですか?」と聞く
のも面倒になる状況でした。病棟6F窓側でもあり展望も良かったです。ここはリゾート
ホスピタルだ!半世紀も経てば、病院も何と様変わり。
手術前後
[死について]
9日の手術まで2日の猶予期間がありベッドで考えてみました。手術前日の8日の前
日には、排尿時下腹部に激痛と尿道に焼け火箸しに近いもの突き込まれる様な痛みを
伴う頻尿状態になり、24Hで28回トイレに行く羽目になりましたが、その間を縫っ
ての思考です。
「ソクラテスの弁明」(プラトン著)の中で、死刑判決を受け入れ死に行こうとする
ソクラテスに対して、弟子や友人.同志が嘆き悲しみます。もっともソクラテス本人
の弁かどうかは?あくまでプラトンの又聞き書きです。「死がどういうものか知らない
のになぜ悲しむのだ!」(プラトンの言)。確かに!確かに!死んで生き返った人はい
ない、しかるに死を知ってはいない。知っているのは自分の死ではなく、他人の死で
しかない。意味を持っのは生理学的死ではなく、自分にとっての関係ある人の死の社
会的意味なのだ。関係性の中での死の意味。
※余談です。18才の時、獄死した三木清に憧れ、哲学徒を目指していましたが「ソ
クラテスの弁明」と聞いただけで、弁解するような哲学者の本など読む気がしない!
と、一刀両断、読みませんでした。何という単細胞.視野狭窄。弁を持って明らかに
するという意味を理解できない田舎から出てきた無教養の若者。もっとも最近の哲学
書読書会で良い大人から、「ソクラテスの弁明」の要旨を、訳知り顔をに「無知の知」
にあるとWikipedia的に語られるとガッカリします。「アテナイ都市政治を舞台にした
路線論争.思想闘争.党派闘争が見えてこないのかナアー」と。この発言者の能天気
さは何なのだと。
カント認識論から死をとらえてみました。「現象としての死は認識できても、死自体
は認識できない」。近代的市民自我で武装した個人にとっての、各人各様の死の把握.認
識は存在する。しかし、共通認識としての死、普遍的死の認識などは不可能である。
共同体の崩壊.分裂と理解しました。カントは事実を述べているだけ。事実の前で真
面目に苦悶している姿が見えてきます。生真面目な人ですネ。分析手法の緻密さ厳格
さには感心させられます。見習おう。
①私にとっての私の死②私にとっての他人の死③他人にとっての私の死。
私は自分の死を、青年期からリアルに考えてきました。新左翼でしたから権力闘争.
党派闘争.党内闘争で日常的に死を突き付けられてきました。自分の死とは自分の存
在がこの世からなくなること、あの世のことは解らない、だとするならば反対概念の
生について考えました。凡庸な人間であることは理解していました。プラトンのイデ
ア世界論を声高に主張できる能力など私にはない。死後に思想を残す能力などない、
だとするならば一生懸命に生きて結果としての死を受け入れるだけだ。ほとんどの庶
民はそうして生きて来たではないか?!とにかく「努力し全力で生きることなら、私
にもできる」でした。生きる意味は時間の長さではなく、生きた質で評価すべきであ
る。癌との戦いと延命措置も、そのような視点で考えています。
「方法序説」(デカルト著)の「コーギトー.エルゴ―.ズム。――我思う、故に我あ
り」から始まる、中世神学世界の共通認識の分裂、と近代的都市市民自我の始まり。
読み込むと、思想世界.形而上世界のダイナミズムな流れが面白いほど見えてきまし
た。
※余談です。デカルトの「方法序説」も上ずら読みをすると、歯切れが悪いですネ。
本音は隠されています。口が滑ると火あぶりですから...。文章の行間を読み込むのに
疲れます。カントですが、20才頃解説本を読み、観念論者か!現実と苦闘しない哲学
者は嫌いだ!でチョン。単細胞の私!原典も読まずにですよ!反省しています。
※「ある著作を読むときに、その著作が書かれた時代の言葉を丹念に探りながら、
著者の言おうとしていることを理解しようとします。これは、普通の読書の仕方です。しかし、著者は、自分の言いたいことを全て文章で表現し得ているわけではありません。自分が本当に言いたいことを何とか理解してほしいと、それを行間に込めているのですけれど、読者の能力が低いと、それが理解できないのです。しかし、賢い読者は、この兆候的に示されている著者の意図を察して、本当に言いたいことを理解するのです。これが徴候的読解です。ただし、これは徴候的読解の初歩的段階で、ここまでなら、ある程度の頭脳を持った人間ならできるわけでし。徴候的読解のもっと高い段階では、著者が文章にも書いていないし、行間にも込めていないことを、読者が読み取るという行為が成り立ちうるわけです。文章にも書いていないし、行間にも込めていないことを、読者が著者に代わって著者自身の本当の意図として理解してしまう、ということです。」[マルクスを再読する]p48(的場昭弘著 五月書房刊)
[痛みについて]
痛みの感覚は個人差がある。入院時、ケアワーカーさんから言われた事、「痛みは我
慢するな、痛い時は言ってください」。私もおりこうさんぶって言いました。「昔の日
本ならいざ知らず、今の時代『男なら我慢しろ』は美徳でもなんでもない。医療的に
は百害あって一利なし」。(看護師さんは,良くできました、いい子いい子と頭を撫で
てはくれませんでしたがネ)
痛みの個人体験史。以前、尿路結石をやりました。深夜に痛み出し、救急車で運ば
れました。どんどん痛みが強くなり、うめき声も出せなくなり、最後には嘔吐が始ま
りました。救急隊員の方が言っていましたが、痛みが強いと嘔吐すると。
全身麻酔での手術から目覚め、麻酔が切れて痛み出したので、鎮痛剤を座薬で投与
してもらい、その次は点滴で鎮痛剤を投与してもらい、その次は錠剤の投与を受けま
した。手術翌日の朝、一時的に痛みが取れなくなり七転八倒うめき声も出せなくなり、
やはりは嘔吐が始まりました。手術から2日後,導尿カテーテルを抜きました。鎮痛
剤を切らさず飲み続けていましたが、痛みが襲ってきた時があり1時間半七転八倒し
ました。嘔吐はありませんでしたが、うめき声も一時出せなくなりました。
痛みは主観的ではあったとしても、客観的基準が無くては困ります。同室者の痛み
下でのうめき声を聞きながら考えました。1人は2月に膀胱全摘済み、今回は抗ガン剤
療法のため入院。抗ガン剤療法については、吐き気.悪心.身体のダルサ等は聞いて
いましたが痛みで苦しむとは!もう1人は、前立せん肥大と膀胱癌表層1㎝大の手術
者でした。麻酔から覚めての痛み反応を隣で聞いていると、痛みを盛んに訴えていま
した。看護師の問いかけへの返答はすぐしていました。声は出せるのです。
戦病死者の話で、うめき声を出している中はまだ良い。声を出さなくなったら長く
はもたない。
痛みの医学的基準は知りません。私の考えだした客観基準です。①痛みを認識し、
訴えられる②痛みを認識し、うめき声を出し、問いかけに答えられる③痛みを認識
し、痛みを我慢するため、問いかけに即答できない④痛みを訴えかけなくなり、グッ
タリしている。
「踏まれた痛みは、踏んでいる人には解らない!?」。主観の客観化が無ければ、個
の認識の共有化は不可能となり、共同認識不成立社会では、共同体は内部崩壊する。
※認識論の視点から、アリストテレスの12のカテゴリーを考える。カントは、アリ
ストテレス批判として4大カテゴリーを考え出す。現代社会に於ける認識のためのカ
テゴリーを再考したいです。
闘病記(序)ですが、疲れたので一旦報告を打ち切り、次回に回します。
次回も(序)の続きです。
今のところ、考えている内容は以下の内容です。
導尿カテーテル(SM趣味は無いんですが!)
失禁しました! おむつパンツへの屈辱感なし??
立ちションの爽快感―思い出すパキスタン友人の座りション便
足が勝手にピクピクする?勝つ手に吸気シャツクリが出る?電気メスと神経!
チンコの先からヒルが飛び出した!?
病院食.留置所弁当.東京拘置所弁.我が家の飯B級グルメ
退院、医師から引導を渡される
人それぞれ、願わくはピンピンコロリ!
2022.5.25 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion12073:220528〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。