マルクスとガロア ― 《対称性崩し》をめぐる共通性 ― Both Marx and Galois engage on Breaking of Symmetry
- 2022年 6月 1日
- スタディルーム
- マルクスとガロア内田 弘
[問いと解との橋がけ] 資本主義では、日常生活の経済行為の経験から、一方に商品が存在し、その対極に貨幣が存在し、商品は貨幣で購入し、貨幣は商品の販売で入手することができることは熟知されている。しかし、《数多ある商品と貨幣との関係》が《如何にして(wie)、何故に(warum)、何によって(wodurch)》生まれるのか、[1] その答えは、いっこうに不分明である。それらの謎を解くのが価値形態論・商品物神性論・交換過程論の課題である。
[個別的な商品関係の不統一性] 商品aが商品bに等置される価値形態「商品a=商品b」は、その逆の「商品b=商品a」にも置換できる。むろん、この二つの価値形態は異なる価値形態である。「商品a=商品b」では、主語は商品aであり、述語は商品bである。商品aは自己の価値を商品bの使用価値で表現する。逆に、価値形態「商品b=商品a」では、主語としての商品bが自己の価値を述語としての商品aの使用価値が表現する。
[巡回可能な対称性としての商品関係] このように、商品aと商品bは、主語と述語の位置を相互に入れ替えられる。いいかえれば、商品aと商品bの両者は、主語および述語としての自己規定を、巡回して入れ替えられるという「対称性」をもつ。すなわち、《Wa=Wb》→《Wb=Wa》。この置換可能な対称性をもつことで、商品aと商品bは同格である。このことは他のすべての商品についても妥当する。したがって、商品世界は個別的連鎖としては「巡回可能な対称性の世界」である。
[一般的等価形態生成は必然的] 商品世界全体に商品の種類がn種類だけ存在すると、各々の商品には、それ自身を除く(n-1)の商品種類が等価形態あるから、各々の商品の価値形態は(n-1)種類の価値形態がある。n種類の商品が存在する商品世界全体では、n・(n-1)の数の価値形態が存在する。しかし、各々の商品の価値形態の等価形態が統一性のない積み木細工の寄せ集めであるように、商品世界全体のn(n-1)の数の価値形態もまた、各々が別の種類の価値形態であり、ばらばらな統一性のない価値形態の束である。このままでは、商品世界は統一性のない世界であり、商品種類の数だけの価値形態が、統一性のないまま個別的に存在する世界である。
この論理次元では、すべての商品は無差別であるから同格である。したがって、すべての商品種類の或る部分から徐々に一般的等価形態へ参入する論理的可能性はまったく存在しない。すべての商品は、各々が一般的等価形態になる可能性でまったく同格である。したがって、一般的等価形態の生成は「同時決定」である。その生成可能性をしめす式は、(1/n)・n=1であり、一般的等価形態の生成可能性は「1」である。それゆえ、一般的等価形態の生成は必然的である。つまり、必ず生成する。
[商品関係から抽象される価値の統一性] ところが、或る商品が他の商品と等置される関係を根拠づけるのは、まさに商品の等値行為によって抽象される価値である。その点について『資本論』は、「諸商品の交換関係を明白に特徴づけるものは、まさに諸商品の使用価値の捨象(Abstruktion)である」[i]と指摘する。その商品の「使用価値の捨象」の裏面で進行するのは、その商品の「価値の抽象」である。「使用価値の捨象」と「価値の抽象」は、Abstruktionの二面にほかならない。
こうして、すべての商品は、等しいとみなして他の商品に等値する行為[Gleihung=方程式の措定]で抽象された価値が使用価値を媒態に連鎖する可能性をもつ。その価値連鎖可能態を実現することで、商品世界は価値で連鎖する統一性をもつようになる。即自的にはバラバラな個々の商品は、対自的な価値関係では連鎖し統一性をもつようになる。この統一性が如何なる帰結をもたらすのかを最初に解明するのが、『資本論』の冒頭の二つの節での予備的考察に続く、実質的に『資本論』の始元である第3節の価値形態論、続く第4節の商品物神性論・第2章の交換過程論である。
[等式(Gleichheit)と方程式(Gleichung)の区別] 『資本論』は、その冒頭近くのつぎの引用文にあるように、或る商品と他の商品との交換関係を「方程式」として規定している。方程式は未知数を内包する等式である。
「われわれは、さらに二つの商品、たとえば小麦と鉄の例をとってみる。それらの交換関係が如何なるものであろうとも、その関係はつねに、或る与えられた分量の小麦がどれだけかの分量の鉄に等置される、一つの方程式(eine Gleichung)、たとえば、1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 によって、表示されるものである。この方程式は何を意味するか?同じ大きさをもつ或る共通者が、二つの相異なる物のうちに、すなわち1クォーターの小麦のうちにも、aツェントナーの鉄のうちにも、実存するということを意味する。だから、両者は絶対的に前者でも後者でもない或る第三者(ein Dritte)に等しい。だから両者はいずれも、それぞれが交換価値であるかぎりでは、この第三者に還元されうるものでなければならない」(S.51:ボールド体表示は引用者)。
この引用文では、二つの異なる一定量の使用価値(小麦・鉄)は等置されることによって、その両者は「同じ大きさをもつ或る共通者」・「或る第三者」に根拠づけられるとみる。この理由をもって、価値形態のこの本源的形態を提示する。
[価値形態:『要綱』から『資本論』へ] 実は、相異なる二つの使用価値が等置される形態でもって単純な価値形態を提示するのは、『経済学批判要綱』「貨幣に関する章」(MEGA, IV/1-1, S.74)が最初である。そこの例は、単純な価値形態は「1エレの棉花と1マースの油」である。相異なる使用価値「棉花と油」を等置できるのは、両者が「或る第三者」で通約可能性であるからである。その点で、上の『資本論』の例「小麦=鉄」と同型であり、その原型である。
[方程式の解=第三者・価値] 『資本論』第1部第1章第1節からの、上の引用文にあるように、『資本論』は、単純な商品交換関係を「等式(Gleichheit)」でなくて、「方程式(Gleichung)」と規定する。方程式は当然、未知数を含む。ここでの未知数を「或る第三者(ein Dritte)」という。この第三者は「抽象的人間労働」を実体とする「価値」である。商品の交換関係は、相異なる「具体的有用労働」が措定する使用価値の商品の交換比率で示される。交換価値の使用価値タームによる表示の背後には、その使用価値を現象形態とする「第三者=価値」が実存する。使用価値による交換価値の表示は、価値の現象形態である。
したがって、相異なる使用価値の一定比率で表現される商品の交換価値=交換関係を成立させる根拠は「価値」であり、その価値が相異なる使用価値の比率に現象している。それが交換価値である。
[等値行為が価値方程式を生みだす] それでは、その価値は如何にして生成するのであろうか。商品所有者の相異なる使用価値を等置する行為(Gleichung)こそが、「異質な使用価値を捨象し、価値を抽象する行為」であり、「価値」を未知数とする「方程式(Gleichung)」を生み出す行為である。
商品の交換関係としての「商品・小麦=商品・鉄」は、相異なる使用価値をもつ商品所有者が、この両方の商品が、使用価値の交換比率である交換価値で等しいとみなす、主観的な等値行為「gleihen→Gleihung」によって生まれた関係、すなわち、「価値方程式(Wertgleichung)」である。その等質・等量なものを『資本論』は「価値」という。商品所有者のそのすぐれて主観的な等値行為が、その「価値方程式:小麦=鉄」を生みだす根拠である。
[「主観→客観化」か「客観→主観化」か] 商品所有者は、自分が所有(私有)する財に一定の価値が内在すると主観的に考えて、等価の他の商品に等置する。しかし社会的には、その主観的な等置行為によって、その財は一定の価値をもつ財、すなわち商品に転化する。財の所有者がその財を価値ある商品として「等置する行為(Gleichung)」が、価値を解とする「方程式(Gleichung)」を成立させる。主観的な等置行為によって財に価値が転化するのに、財の所有者にとっては逆に、自分の財に価値が本源的に内在するからこそ、他の財に商品として等置できるとみえる。
価値は、財に本源的に自立して内在するのか。それとも、価値が財に内在する思念すること(meinen)が、価値が生成する根拠なのか。「主観→客観(化)」か。「客観→主観(化)」か。ここでも、「価値の客観的実在→価値の認識」というよいに「客観的実在から主観的認識へすすむ」のか、それとも、「価値の主観的思念→価値の生成」というように「主観的思念が価値を生成させる」のか。
しかし商品関係が社会的客観性である以上、財の所有者は、財の商品への転化の主観的担い手にすぎない。したがって、財の社会的な関係態としての商品の関係は、財の担い手であるその所有者に、財の商品への転化の担い手としての役割を規定している。
方程式とは、一見相異なる存在とみえるものを同じ物と見なして等置する行為、その行為でうまれた等置関係・同等関係を意味する。したがって、一見異なるものの間の関係と見える商品関係は、或る存在が一定の値をとることによって成立する「価値方程式」なのである。その値が未知数の解である。[2]
[《価値方程式を解く》とは?] 商品関係とは、或る商品(Wa)と他の商品(Wb)との関係である。両者は使用価値aと使用価値bで異なりながら、価値で同質・同量であるという共約性で結ばれる。すなわち、商品a=商品b。これは対称性(Symmetrie,symmetry)をなす関係である。
商品関係で表示される価値方程式を解く作業は、相異なる使用価値(a,b)の関係として現象する商品関係から「価値を典型的に体現する形態」を展開する作業である。その展開作業は、或る商品と他の商品との対称性を崩して(breaking symmetry between some commodity and another)、その対称性として現象する商品関係の背後に存在する「価値を典型的に表現する形態」を展開する作業となる。さらに、商品a=商品bという対称性をもつ方程式を解くという作業は、その対称性を崩して「価値を典型的に体現する形態」が、多様な種類の使用価値を媒態にして、いかなる運動形態をとるのかを追跡することである。
[対称操作による対称性崩し] 単純な商品は、相異なる「使用価値」と、その使用価値をもつ財を等値する行為によって生成した「価値」との統一形態である。したがって、単純な商品は他の商品に転化した財との関係に存在する。商品は商品関係に存在する財である。商品は使用価値と価値との統一形態として他の商品と関係づけられている。両者は、相異なる使用価値は価値で結合する対称性をなす。
この単純な商品関係の対称性を崩して、商品とは異なる形態を導き出す。これが価値形態=商品物神性=交換過程を媒介にして生成する貨幣である。単純な商品関係の対称性が崩されて生成するのが貨幣である。その対称性を崩す手法が「対称操作(symmetry operation)」である。反転(inverse)対称操作(Φ(ふぁい))と回転(rotational)対称操作(Ψ(ぷさい))の二つの対称操作がその対称操作を担う。
Φの次にΨを行う操作は、Ψ(Φ)というように順逆に表記される。この2種類の対称操作の積であるΨ(Φ)は並進(translational)対称操作という。
第一形態はΦである。第二形態は第一形態の累積=徹底であるから、同じ対称操作Φである。
第三形態はそのΦの結果である第二形態に回転対称操作Ψを行った結果である。
第4形態は第三形態と理論的規定で違いは無い。第四形態は、第三形態がそれが生成した各々の現実的歴史的環境に適合した形態である。『資本論』は第4形態に金貨幣を置いているけれども、それは西欧近代の歴史的慣習が金であることによる。けっして鉄の必然性によるとは判断してはいない。マルクスは金貨幣ファンダメンタリスではない。
[ガウス・ガロア・マルクス] 使用価値の実在態が位置づけられる「実空間」に対して、価値は「虚空間」に存在する。数学でいえば、実軸と虚軸で区分される「ガウス空間」に存在する。
新たなものの創造は、既存の存在の対称性を崩して、実現する。創造は非対称化操作としての対称操作による。「反転対称操作と回転対称操作」は、商品の対称性を崩す対称操作である。ガロアは「方程式の解の対称性を崩す操作」から群論を導き出した。この19世紀30年前後の既存の数学の次元を超える、いわば「メタ数学」に対応するように、『資本論』は既存の経済学を超える「メタ経済学」である。マルクスのいう「経済学批判」とは「メタ経済学」のことをいう。ガロアの群論の創造に対応するように、マルクスは価値方程式を内包する商品関係の対称性を崩して、貨幣を導き出す。この貨幣の導出は、『資本論』が「要素と集合との重層的な累積が《対称操作の群》をなすこと」に相当する。
[『資本論』体系展開と資本主義の自己消滅] その追跡過程が『資本論』を構成する。『資本論』の価値方程式は、一回解けばそれで解決とはならない。『資本論』冒頭の価値方程式に内在していた「価値そのもの」が自己展開をトコトンまで実現し、ついには自己消滅する究極まで、価値の解の追求は持続する。それまでは、解の追求は収束しない。
[マルクスとゲーデル] 或る価値方程式の解はそれで収束することなく、つぎの方程式を構成し、その解をもとめる。このような「問いと解の重層的連鎖」が『資本論』の体系展開である。その究極に、価値そのものの自己消滅の傾向を析出させ、したがって、商品形態を「集合かつ要素」とする富の世界=資本主義の自己消滅可能性を提示する。
因みに、この自己消滅可能性に、「ゲーデル不完全性定理」のいうジレンマ、いいかえれば、体系自体の前提を消去できない不完全性から自由な『資本論』の論理がある。ゲーデルのいう自己再帰性内部への自己閉鎖から自由な、『資本論』体系の独自性がある。マルクスはゲーデルと非常に近いところで考えていたけれども、彼とは分岐する論理で近代資本主義を考えていた。
[価値方程式としての商品関係] したがって、商品の交換関係が成立するということは、その関係に或る未知数=価値が含まれる方程式が成立することである。その意味で、価値関係は代数関係でもある。より詳しくいいかえれば、相異なる使用価値をもつ商品の交換関係とは、その関係を根拠づける価値が解である方程式のことである。商品関係が基本関係である資本主義の解明は、価値を解とする運動方程式の解法の研究である。このように、『資本論』の経済学批判が冒頭から数学を援用していることが注目される。その意味で、『資本論』は単なる経済学ではない。
[対称性の崩し] さらに、すでに商品aと商品bの関係でみたように、商品関係は、各々が同格であるからこそ相互に置換可能な対称性をなす。したがって、商品の価値の解明は、商品関係の堂々巡りとなる置換可能な対称性を超えるために、対称性を崩す=破る操作(breaking of symmetry)となる。『資本論』の理論的な冒頭である価値形態の重層的な展開がまさに対称性を崩す操作である。この操作は、2次方程式以上の方程式の解法と同型である(この点については、加藤文元『アロア―天才数学者の生涯―』角川ソフィア文庫、2020年を参照のこと)。
[「方程式」を「等式」と誤訳する翻訳の流布] ところで、その「方程式」従来の日本語への翻訳で正確に訳されてきたであろうか。実はそうではない。これが実情である。以下に、これまでの当該語Gleihungの日本語訳の実例を列挙する。
[1] 長谷部文雄訳「方程式」1957年、青木文庫116頁。
[2] 向坂逸郎訳「方程式」1969年、岩波文庫、71頁。
[3] 岡崎次郎訳「等式」1972年、国民文庫、75頁。
[4] 平井規之訳「等式」1982年、新日本出版社、63頁。
[5] 中山元訳「等式」2011年、日経BP社、30頁。
このように、最初の長谷部訳(1957年)と続く向坂訳(1969年)がGleihungを正確に「方程式」と訳しているのに、それ以後の訳は皆、「等式」と誤訳している。《最初の二つが正訳で、その後は誤訳である》という、最初の誤りを訂正するという通常とは逆の順序となっている。訳語「等式」に対応するドイツ語はGleichheitである。なるほど、方程式は等式の一つではある。しかし、方程式は未知数を含む独自の等式であって、未知数を含まない、単なる等式ではない。Gleichungは「方程式」のことであるであるのに「等式」と訳す。すると、価値を「未知数」とする肝心な意味が失せる。
[価値=『資本論』体系展開の動因] 『資本論』冒頭の方程式の未知数の解=価値は、『資本論』の主語である商品を規定する本源的範疇である。単なる使用価値である財が商品に転化するのは、その使用価値を媒態とする価値が商品に内在するからである。しかも価値は、使用価値を媒態にして『資本論』を体系として重層的に展開する論理的動因である。その意味で、単語「方程式」は『資本論』体系の核心をなす概念である。Gleichungの訳語はどうでもよい瑣事であるということには、決してならない。
[誤訳語「等式」で『資本論』が理解できるか] 「方程式」という『資本論』の基軸概念を正確に理解し、正確な日本語「方程式」に訳すこと、これは訳者の基本任務である。長谷部訳・向坂訳以外は、その当然の任務を遂行していない。その「等式」という誤訳は、「価値方程式」が『資本論』の体系的展開の出発点であるという正確な『資本論』理解の障害になっている。その誤訳をテキストとして読む『資本論』研究は、『資本論』の肝心の主題とは何かを正確に理解できないで、それ以外の領域を彷徨っていないだろうか。あるいは、『資本論』は間違っていると判断して、別の体系を構築しても、それは誤訳=誤解にもとづく体系であり、その誤解によって脆弱な体系になっていないか、と疑われる。
[長谷部訳・向坂訳「方程式」をなぜ外すのか] 本稿筆者にどうしても分からないのは、長谷部訳の「方程式」という正確な訳が如何なる理由で「等式」という誤訳に切り替えられたのか、その根拠である。まさかとは思うけれども、《『資本論』は数学書ではない》と考えての「方程式」の「等式」への変更ではないだろう。しかし、困ったことに「等式」も数学用語である。
さらに、またまさか、とは思うけれども、『資本論』の先行訳である長谷部訳・向坂訳「方程式」をまったく参照しないで、「等式」と訳したのだろうか。「等式」と訳した根拠は、本稿筆者には皆目分からない。
実は、拙著『資本論のシンメトリー』(社会評論社、2015年)では、この「方程式」という用語を直接に用いて、この訳語問題を「間接的に」指摘しておいた(同書の26頁、30頁、40頁、44頁、184頁、243頁の6個所を参照)。しかし、その間接性が妨げになってであろう、この訳語問題は、管見の限り、『資本論』研究者の間で問題にならなかった。
[『資本論』研究の前提] これまでの『資本論』研究は、『資本論』冒頭におけるキータームGleichungの「方程式」という意味を正確に把握して行われてきたのだろうか。『資本論』第1部初版刊行100周年=2017年が過ぎても、なおこのような地道で堅牢な探求は持続させなければならない。真理はそれに賛同する人間の数では決定できない。この命題は、カントやマルクスの「天文学史パラダイム」が提示する真理である。地上からの直接的な経験では、天動説が正しく見える。そう見えるからといって、それがあらゆる場合に妥当する普遍性をもつわけではない。狭い経験に固執しては、真理に到達できない。「方程式」を「等式」と訳す誤訳に気づかないで、『資本論』が理解できるわけがない。
[1] Das Kapital, Erster Band, Dietz Verlag Berlin, 1962, S.107.
[2] ここでいう「価値方程式」とは、置塩信雄が規定する「価値方程式」ではなく、その定式の基礎である価値そのものが生成する根拠を未知数とする方程式をいう。
[i] Das Kapital, Erster Band, Dietz Verlag, 1962, S.52.以下では、『資本論』からの引用頁数は、引用文の末尾に頁数だけを記す。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12011:220601〕
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