精神心理学とポオの小説に見る「影の世界の不気味さ」
- 2022年 6月 4日
- カルチャー
- 合澤 清
書評:『黒猫、モルグ街の殺人事件、他五篇』ポオ作 中野好夫訳(岩波文庫)
気分休めにと思って図書館からE.A.ポオの短編集(中野好夫訳 岩波文庫1978/2014)を借りてきた。ポオを読むのは何十年ぶりであろうか。ひょっとすると中学生か高校生の時以来かもしれない。
この文庫本の最初の短編『黒猫』の粗筋は、何となく記憶に残っていた。とはいえ、記憶の中身は少年期のいい加減で上っ面なものでしかないが。
ひた隠しに隠したいという秘密の欲求が、表白したい、みんなに知らせたい(知られたい)という真逆の欲求と重なり合い、あるいは相互補完的な関係においてあるということをポオ一流の怪奇なストーリーに仕立て上げているのがこの短編である。
この後を引く薄気味悪い感覚は、なんとなく芥川龍之介の世界に類似している。
この短編が取り扱っている精神状態の異常というテーマは、今考えるとかなり精神医学的な内容だと思うのだが、当時はせいぜいその不気味さに魅入られた程度だった。今回読み直しながら、精神医学的にはどう考えられるのだろうか、などと思いつつ、ユング派の精神医学者・河合隼雄が書いた『影の現象学』という本をめくってみる気になった。そしてそこに次のような一文を見つけた。それはイメージについて書かれたものである。
河合によれば、イメージは、意識と無意識の中間領域にある動きだそうだ。そして「夢」がそれにあたるという。意識界は言語表現が可能だが、無意識界は無意識なるが故に不可能である。そこでその中間の「夢」の分析を介して無意識界の動きや在り方を推察できるという。そして次のように述べている。「夢ではなく、外界の知覚に際してもイメージの働きが認められるときがある。例えば、他人に秘した悪事をもっていると、他人が話し合っているのを見るとすぐ自分のことを言っているのではないかと感じたりする。これは無意識な怖れの感情が、そのようなイメージを提供するため、外界の知覚を歪曲させるのである。…」
ここで河合が出している実例は、「なるほど」とうなずけるし、分かりやすい。たしかに人は心の中に二重の(あるいは多重の)人格をもっているように思える。何か重大な決心をして、行動を起こそうとするとき、そういう自分を見つめているもう一人の自分に気がつくことはままあるからだ。それはある意味では「反省的意識」なのかもしれない。
あるいは、忍ぶ恋情が「色に出る」のは、「無意識の意識」ということなのかもしれない。
ここで「イメージとは何か」などとややこしい議論をしても始まらないであろう。しかし、イメージには何がしかの経験が付きまとっているだろうということは言いうる。パリの情景をイメージしたり、富士山の頂上をイメージしたりすることはできるが、宇宙の果てをイメージしろ(夢見れるか)と言われても、そんなことできるわけはない。
イメージは、過去の実体験か、あるいはSF小説や写真などで見た経験によってつくられると考えられる。だから、そういう経験的与件の皆無なものはイメージできない。
しかし経験をこのように広く考えた場合に、経験知が一様に与えられるものではないということもいえる。そこには「程度の差」がある。同じ対象が、その日の気分によって違って受け止められるのはその一例であろう。
哲学っぽく言えば、イメージは表象(Vorstellung)といいかえられることが多い。ヘーゲル先生に言わせれば、表象と概念とは全く別物である。カントは、概念といいながら表象を云々しているにすぎないという(例えば「猫」とは、たんなる表象であり、断じて概念ではない)。表象の世界は、まだ感覚的な領域にまとわりついた経験でしかないのである。
しかし、哲学者ならともかくも、われわれの日常生活を構成しているのは、おおむねこの表象(イメージ)であるといってよいと思う。だから曖昧なままで判ったと思いこんでしまう。そのように早合点して決めこまぬためには、「概念化」すること、つまり思考することが重要になってくるのであろう。
昔、廣松渉先生がよく言われていた。『知っている(bekannt)』ということと、『認識する(erkennen)』ということは全く違うことだ、と。
かなりわき道にそれたので、もう一度本筋にもどしたい。
この『黒猫』の異常心理もどこかでイメージ(表象)に繋がっているのではないのか。自分のやった恐るべき殺人を、壁の中に塗り込めてしまい、もうこれで外部には絶対に判るまい、これが一方の意識(イメージ)にある。だがもう一方の意識では、この完全犯罪を他人に誇りたい(あるいは、他人はすでにそのことを知っているのではないか、そのことを確認したい)、という思いが強くおきてくる。自己意識内部のイメージの分裂と相克。どちらの意識が勝つか、自己「承認」=統一のための熾烈な戦いが想定しうる。
「統合失調症」(精神分裂症)の患者では、この統一がうまくいかないといわれている。
ミシェル・フーコーはあることに関して、「生と死、愛と憎しみを同時に感じるという、めまいのするような矛盾の体験であり、心理的な矛盾感覚」(『精神疾患と心理学』)であると表現しているのだが、これは『黒猫』においてポオが描いている心理に通じていると思う。
ポオは独特の世界の中で、この心理状態を扱っているのであるが、このような自己意識内部の分裂状態を主題とする小説は、ずいぶん以前からあったと思われる。
河合も先の本の中でいくつかの例を示していた。シャミッソーというドイツ人が書いた『ペーター・シュレミール(影を失くした男)』、あるいはスティーヴンソンの有名な『ジーキル博士とハイド氏』、それに確かドストエフスキーにも『二重人格』というものがあったように思う。
ポオのこの傑作短編集の中には、同じ構想に拠ると思える物語がいくつか入っている。『黒猫』『ウィリアム・ウィルソン』『裏切る心臓』『天邪鬼』はバリエーションをつけてはいるが、みな同一のジャンルと見なしてもよいだろう。というよりも、ポオの小説全体が、『モルグ街』や『盗まれた手紙』などの推理探偵物も含めて、心理学領域にその根をもっているように思える。
これには当然ながらポオの不遇な生い立ちなどの生活体験が絡んできている。調べてみると、ポオは1809年にボストンで生まれている。因みに、シャミッソーは1781年、スティーヴンソンは1850年の生まれ。ドストエフスキーは1821年、またシャーロック・ホームズにポオからの影響が濃厚なコナン・ドイルは1859年で、芥川龍之介は1892年である。
両親は旅回りの役者だったが、父親は大酒のみでしかも酒乱、夫婦喧嘩の揚句家を飛び出して行方知れず。ポオにはこの父親の酒乱とアイルランド人特有の幻想性が遺伝体質として受け継がれたと訳者の中野好夫は言う。
その後、母親も急死したため、幼時に商人夫婦にもらわれてイギリスへわたり、そこで基礎教育を受け、17歳でヴァージニア大学に入るが、たちまち、賭博と飲酒におぼれ、多額の負債をこしらえて退学。家出を繰り返したり、軍隊にはいったり、また一時は陸軍士官学校にいたこともあったという(規則破りで放校処分)。そして生活のため書き始めた短篇小説が週刊誌の懸賞に一位で入選し、『南部文芸通信』というところの副主筆になって、1838年から45年ごろまでは、ある程度の安定した文筆生活を送っている(彼の主な作品はほとんどこの期間に書かれている)。しかしその晩年は、極貧の中で女房(少女妻)が病死し、自分自身も乱酒、乱酔、貧窮のうちに倒れ、「神様、この哀れな魂をお助け下さい」という言葉を残して死ぬ。
彼は終生、「マザー・コンプレックス」ではなかったかともいわれる。幼時に亡くした母親を思い慕うその深刻な孤独感がそれを証しているという。
「自己嗜虐―いわばわれとわが本性を冒涜し、―ただ悪のために悪をなそうという―不可解な魂の渇き」(『黒猫』)
このメフィストフェレスばりの科白の意味をどう解すべきか。
これを精神の「逃避」と見なすこともできるかもしれない。その場合、「逃避」は生への一種の安全弁(ガス抜き)の役割をしているのではないだろうか。空想への逃避、病気への逃避、現実への逃避、子供時代への逃避、当然、泥酔も同様であろう。
ユングは『分裂病の心理』で次のように言う。
「大多数の患者は夢から戻る方法を発見しない。彼等は同一の古い話が無時間の現在に何度も繰り返される魔法の庭園の迷路の中で道に迷っている。彼等にとっては、世界の時計の針はずっと止まっている。そこでは時間はなく、一層の発展はない。」
「なぜ精神は病的な不合理を作り上げるのに自分自身を消耗せざるを得ないのか?…病的観念は、患者が正常であった時に心を占めていた一番重要な問題からきているために、患者の関心を完全に支配しているのである。言い換えると、今日狂気の中で理解できない症状の寄せ集めであるものは、かつては正常な人格にとって生き生きとした関心の的だったのだ。」
精神医学者の笠原嘉(『不安の病理』岩波新書)によれば、
「『自分は終始連綿として変わらぬ一人の自分である』というパーソナリティの統一性という事態は、人間である限り始めから与えられている自明の条件と思っているのに、どうもそうではないということを教えてくれる点で、二重人格は教訓的な現象である。」
「自己と非自己との区別があいまいになって、自分の考えが(確かに内容は『自分の』考えなのだが)誰とは判らぬ他者の力によって『考えさせられる』と感じたり、さらには、考えの内容自体も他者によって『頭の中に吹き込まれる』と感じたりする独特の現象…それらの知見はノイローゼのレベルよりパーソナリティの統合度が一段落ちたプシヒョーゼ(精神病)のレベルから得られるものである。」
「常識的には、『自分が自分である』ということは(生まれた時からとはいえないまでも)人生の相当に早い時期に一人でに与えられた不動不変の事実のように思われているが、必ずしもそうではなくて、ひょっとすると人間の心は『自分が自分である』ために不可分の働きを、毎日毎日ことあたらしく、ただし自動的に、繰り返しているのかもしれない。」
「もちろんどんな精神障害も、他の誰とも共有できない『私』という一回限りの存在にかかわる出来事だから、全て実存的といえば実存的である。ほかならぬ私の悩みを私は悩むのである。」
この傑作短編集の中で、実は一番興味を引いたのは『ウィリアム・ウィルソン』であった。同じ時に、同じ学校に入学した瓜二つの人物がいる。名前も同じ「ウィリアム・ウィルソン」(平凡な名前だ)であるばかりか、なんと生年月日まで同じなのだ。学業も、スポーツも、喧嘩でさえも、何事につけてもこの男は「僕」に対抗してくる。
この男ウィルソンは、「僕」が何かをやろうとすると、必ず「僕」のそばに来て、しかも囁くように僕の耳許で保護者顔の忠告をする。
ついに業を煮やした「僕」は、このウィルソンと激しい口論をやる。その挙句学寮を抜け出し…その後、無事イートン校からオクスフォード大学へと進むが、「僕」はそこで、破天荒な「酒池肉林の耽溺」にふける。その上、イカサマ賭博を習い覚え、それに習熟して、ある日、大金持ちの成金貴族を相手にして、そいつをほぼ破滅にまで追い込む。まさにその時、突如としてあのウィルソンがその場に闖入してくる。そして、僕のイカサマを暴露し、その結果、僕はオクスフォードにいたたまれなくなり、パリ、ローマ、ウィーン、ベルリン、モスコウを逃避行してさまようのだが、いたる所であのウィルソンの監視にあう。そしてついに、ナポリでのある夜、ある公爵邸で両ウィルソンは剣をもって対決する。
首尾よく「僕」がウィルソンを仕留めたその結末は…。
『黒猫』と『ウィリアム・ウィルソン』に共通する視点は、精神病患者たる語り手の妄想でありうるという点である。この本の解説の中で、中野好夫はそれをポオの遺伝的体質と、生い立ちという個人的な事情から追いかけているのだが、これらの作品のはらむ「不気味さ」を、その時代性という視点から捉えなおしてみればどうであろうか。
2022年6月3日 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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