戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)(2)
- 2022年 6月 12日
- カルチャー
- 内野光子
戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)
昭和十一年
大利根の曲りて廣く見ゆるところ浚渫船は烟ながしぬ(佐原短歌誌抄)
まばゆくてま向かひがたき入りつ日にしばし目つむりあたたまりけり
昭和十二年
大土堤に登りてゆける子供たち空のさ中に見えて遊べり(寒光)
ラヂオをばかくるべしと言ひ止めよと言ひ妻起ちゆかし心さびしも
傾きて石の祠の小高きに野火はするどく燃え寄りにけり(野焼)
椿咲く忠魂の碑に人寄りて他愛なきこと語り居にけり(さくら)
銅像は桜の上にそびえたり灯ともし頃の公園の空を
わが命つたなきものかこの十年むしばまれつつ生き来りける(病床吟)
附添ひをやめてかへれる妻はいま花札など送りよこしぬ(病院にて)
出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か
萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふ
『宮田仁一作品集』(LD書房 1988年8月)より
母方の伯父宮田仁一は、1901年生まれで、1941年に亡くなっている。会うことはなかったが、母方の叔母やいとこたちから話は聞いていた。とくに、長女だった母からは、二歳年上の長兄仁一は、自慢の兄だったらしい。千葉県佐原で中学校卒業後、父親と同じ銀行員になったが、すぐにやめて、その後の事情は、聞いてはいないが、英語は先生に教えるほどだったと言い、当時は、ヴァイオリンも得意とし、東京には本やレコードを買いに、映画を見にも出かけていたらしい。兵役は、佐倉連隊から近衛歩兵第4連隊に移ったことも、母は誇らしげに話していた。仁一は、いっとき、東京で、サイレント映画の楽士を務めていたこともあったというから、「大正デモクラシー」のさなかに青春時代を送ったのではなかったか。
その片鱗は、いま私の手元にある一枚のハガキにも残されていた。左の宛書(元は鉛筆書きで、後から墨でなぞった形跡が見える、薄れるのを怖れて、母がなぞったのかもしれない)は、母が千葉県女子師範学校本科第二部(高等女学校卒業後の一年制)の卒業後、教師生活を始めたのが伊能小学校だったと聞いているが、消印は読み取れない。おそらく、1922年(大正11年)年前後、東京の仁一から母に届いたハガキである。2006年には成田市に編入された伊能村にあった分教場である。ハガキの裏には、仁一の作詞・作曲と思われる歌詞と楽譜が書かれているが、薄れてしまって、判読が難しい個所もある。
ああ世の中はゆめなれや/□の小草をふみわけて/花の錦を身にまとひ/吾が故郷へきてみれば
誓ひし山はかはらねど/くみし水はかはらねど/君は昔の君ならで/悲しや去りて人の花
「おれは最高音楽と俗歌との間のリズムの妥当性と□□とを研究してゐる」との文面も読める。
宮田仁一は、短歌も俳句も作っていたし、クラッシク音楽にも詳しかった。長女の歌人でもあった河野和子(『橄欖』所属)が、五十年忌にあたる1988年8月、『宮田仁一作品集』(LD書房)として遺されていた短歌と俳句をまとめた。出版当時、もちろん私もいただいていたのだが、歌の背景なども知りたい、きちんとした感想も伝えたいと思いながら、当方の佐倉市への転居、転職などが重なっていたこともあって、その後も失礼を重ねていた。佐原に住んでいた河野和子とは、同じ県内なので、いつでも会えるような気がしていたが、和子さん、カッちゃんは、十数年後に鬼籍の人となってしまったのである。 そして、今、『宮田仁一作品集』を読んいると、果たせなかった夢、妻と三人の子どもを残し、時代をも嘆き、水郷佐原を愛してやまなかったが、闘病の末、41歳で亡くなった伯父の口惜しさが、思われてならなかった。肺結核からの腎臓結核で片腎を失い、父親から経済的支援を受けながら、養鶏を、養蚕を試みるも、家族を養えない闘病生活が続いた。それでも、千葉の大学病院の近くに下宿して療養生活や入退院を繰り返していた暮らしが歌われている。もちろん一冊の歌集も句集も残すことはなかった。個人的な感慨ながら、率直で、やさしい多くの作品には、ときには涙して読み続けた作品集だった。ここに、その一部を記録に留めておきたい。
伯父は、1927年に結婚、佐原に落ち着き、長女和子、長男を授かったが、幼い長男を病気で失った頃からか、俳句や短歌を作り始め、地元の仲間たちと句会を開き、雑誌も発行しており、その一部が作品集に収められている。短歌の方は、購読していた短歌雑誌があったことは歌にも詠まれているが、寄稿していたかどうかはわからない。遺品や遺稿の中から、収集して編集し河野和子の熱い思いも伝わってくる作品群だった。
昭和十三年
(死児の三周年に)
壁に画きし自動車の落書は叱りたれども形見となりぬ
急性腎臓炎とわかりて医者より連れ帰りしは寒き日なり
吾子が通夜は集ふ人らにまかせつつ我は切なき思ひにふける
学校を休みたがる幼子を病と知らず行かしめにけり
(短歌日記)
積みてある薪すでにしみにけり寒き雨いま降りつづきをり
病院へ通ふ下宿にほど近く見ゆる師範学校に妹は学びき
遺りをる右腎も悪きならむと言はれ我汗ばみて緊張しぬ
樹を透きてはつかに見ゆる千葉の海ひかりきらひて春めきにけり
師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり
吾子逝きて吾子が鞦韆幾とせか雨かぜにさらされて立つなり
節分の門辺に吊す柊は祖母がなしつつ杳かなるかな
大雪を犯して活動見に行きし少年のころを思ひ出しけり
俳優の顔ぶれ移り変るのみ映画は少しも進歩してゐず
離りゐる妻を思ひて目覚むればそのままあとは眠れざりけり
一週に一度帰れる父われと会ひ居て子供らは夜更かしをせり
四十分でゆくといふ東京へゆきて見たしと脳裏に浮かぶ
長く病むたつきを噂すならむとひがみ心は妻にありけり
この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり
映画の原作者となりし友ありてその如き職う羨ましと思ふ
アララギと多磨と二つへ歌を出す進歩はせざる歌人の名あはれ
ゆくゆくは妻子が困るならむ銭をかろかろしくも費ふわれなる
金持ちでもあるが如き振舞ひを幼きときよりして来しあはれ
夕庭に白きつつじの暮れ残り子を負ふ妻は戻りにけり
むづかりし子を抱き出でて空の中の白き昼月を見するほかなし
洪水の波のさなかに映りゐるあはれに黒き電柱のかげ
入りつ日は鉄道官舎のかたはらの並み立ちそよぐポプラに射しぬ
飲み忘れし薬のまむと廊に出ぬはたと止みたるこほろぎの声
久しく家をあけしかば短歌雑誌たまり請求書も来てゐぬ
銭なしと妻に言ひしが妻もまた銭もたざれば泪うかべぬ
子を負ひてまゆ売りて来しとふわが妻はみすぼらしくも雄々しとも思ふ
週毎に親より銭をもらひつつ幾年病院へ通ふならむか
海へ行く道 夕立の雨に会ひ県庁前の街路樹にやどりぬ
病気にて銭かかりをれどなほ写真機を買ひレコードを買はむとす
この夜頃目覚めて殊に咳出づる かの病かあらむと思ひて寝られず
水害地のはつかに実る田の端に真白き山羊はつながれてをり
防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ
深靄に駅もポプラもほのかなる中のシグナルはね上りけり
「短歌日記」の二首目は、まさに、妹の私の母を詠んでいる。40分もあれば、東京へ行けるのにと、好きな映画に携わっている旧友を羨ましがり、貧困に直面しながらも、カメラやレコードを買おうとする自分を戒める一面を見せる一方、つぎのような歌も詠む。
冒頭「昭和十二年」の末尾で
出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か
萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふや
「昭和十三年」では、
師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり
この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり
防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ
戦争の暗雲は、身近な人々へも、ひたひたと押し寄せてくる息苦しさをも歌っていた。(つづく)
戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(2)
昭和十四年
この朝のラヂオで言ひし雪降りぬ鶏の住む屋は筵掛けたり
バッハのツーヴァイオリンコンチェルト聞き居る時算術の問題を子に問はれぬ
かくばかり冷めたきものか米とぐと手を濡らしゐぬ妻臥せせしかば
買ひ与ふ事とてはなき幼年雑誌 借り集めつつ読む子となりぬ
夕焼が薄れて暮れゆくこの庭に病を忘れゐるが寂しき
妹が連れ来し子等が立ち騒ぎ魂祭る夜もしみじみとせず
夕空のあきつのむれをながめゐて 野をかへりくる妻にすまなし
いささかの蚕飼ひする身は生糸の相場をいち早く見ぬ
昂りて妻を責めたる夕つべは吾が非を悔いぬいつものごとくに
諍ひは眼にあまりたるか四歳の子われに向ひて挑みかかれり
手紙などはさみあるかと今日妻が送よこせし肌着しらべぬ
病室に陽を恋ふ幾日たちにけり三十九歳の働きざかりを
旅の歌作るによしなし歎かざらむ子規は臥しゐて歌をつくれり
さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし
昭和十五年
妾腹の赤子の記憶よみがへる高校受験準備してをり
十日目毎医者に支払ふ札束を出ししぶりつつ父は出したり
都合良く運ぶがままに弟を恋愛もなきところへやりぬ
女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり
くらぐらに起き出て村の産土神へ参りしといふ入試の朝を(和子、県立佐原高女)
江間に出て消防ポンプを洗ひをる村人達をわれは避けゆく
新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし
昏れてなほ止まぬ細雨に白々と十薬の花散らばり咲けり
枯桑を透きて働く人の見ゆはるかに遠き桑畑にして
宮田仁一は、1941年8月に亡くなるのだが、作品集には、1940年までの作品しかない。ここに挙げたのは、多く妻子を詠んだ歌に偏っているかもしれない。しばしば水害をもたらすと利根川だったが、魚釣りにもしばしば出かけた水郷の風景や庭の草花や農作業にいそしむ人々をも歌っていることも忘れてはならないだろう。また、つぎのような歌も作り続けるが、決して声高な反戦歌ではないが、憂慮する一部の国民の思いを代弁しているかのように思える。
さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし
女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり
新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし
「昭和十五年」の冒頭の二首には、やや説明がいるかもしれない。母と二人の叔母からよく聞かされた話だったのだが、この伯父も、晩年になって、このように歌っていたとなると、なかなかな複雑な人間模様だったことが、いっそう鮮明になったのである。いまは関係者が、みなが故人となられたので、私なりの理解でいうならば、つぎのようなことらしい。
仁一や母の父親は、銀行員で、二人の息子と三人の娘がいたが、その後、妻を亡くした。そして、家を出て、駅前食堂の女将だったところに住み着いしまったが、子供たちの反対もあって再婚することはなかった。息子や娘は、父親を取られたという思いがあったのかもしれない。その女将は、連れ子の娘と店を切り盛りする、いわゆる「やりて」だったらしい。そんなことから「妾」という表現がなされたのだと思う。父親とその女性との間には、一人息子が生まれ、はや、高校受験の年になり、彼は頑張って、仙台二高を経て医師となる。一方、年の離れた仁一や母たち三人姉妹の実弟、私の叔父は、例の女性の連れ子と結婚したことを詠んだのが三首目だったのである。いわば政略結婚とみていたようで、私たち家族が、東京の空襲を逃れて佐原に疎開した折も、母たち三人姉妹は、その女将と連れ子の蔭口をよくたたいていたようだった。その実弟は、実直な信用金庫勤めを全うしている。
仁一は、そんな父親から経済的援助を受けざるを得なかった不甲斐なさにも耐えていたことになる。かくいう、私たち、疎開家族も、その祖父のお陰もあって暮らすことができた部分があったかもしれない。その頃の祖父は、食堂の奥の小さな和室で、冬は炬燵に入って食堂の客や立ち働く人たちを眺めていて、母が私を連れて立ち寄ると、なにがしかのお菓子や御馳走がふるまわれたことも確かであった。
疎開先で、まず世話になったのが、仁一伯父の奥さん、三人の遺児を育てているさなかに、私たち家族が転がり込んだのである。細長い庇の部屋を貸してもらって、七輪で煮炊きをしていたものの、食料も何かと融通してもらい、別の家を借りるまで、厠も風呂も使わせてもらっていた。すでに、仁一伯父が他界していたにもかかわらず、母にすれば、自分の実家という思いもあったかもしれないが、敗戦前後のお互いに苦しいときに厄介になったことになり、いま思えば、きちんとした感謝の言葉も伝える機会を失ってしまったという思いがある。
河野和子は、母親の死後、遺品整理の中で、父親の短歌や俳句関係の資料を見出だし、『宮田仁一作品集』を編むに至ったというが、この作品集の「あとがき」の末尾に、河野和子自身の母親への挽歌が何首も綴られていた。
耐ふる事のみに終りし一生なれど母の死顔花咲くがに
色褪せぬ母との会話冬は冬の夜をぬくめつつ我らを包みき
父の遺稿編みつつ涙やまざりき国も人も貧しかりし杳かなる日よ
父の弾くバイオリンの音が聞こえ来る五十年祭の夏近づきて
河野和子自身は、次の4冊の歌集を出版している。父宮田仁一の歌風とは違って、情熱的で、幻想的な歌も多い。いつかじっくり読みたいと思っている。まだ読み残している『作品集』の宮田仁一の俳句とともに。
『花宴』 短歌研究社 1966年2月
『艶』柏葉書院 1971年2月
『移ろい』 東京四季出版 1990年10月
『ら・ろんど』 東京文芸館 1996年8月
初出:「内野光子のブログ」2022.6.11より許可を得て転載
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