政治家の「非業の死」を政治利用するな ー 安倍晋三の国葬に反対する
- 2022年 7月 17日
- 評論・紹介・意見
- 安倍政権澤藤統一郎
(2022年7月16日)
事件の衝撃から8日経った。メディアも政治家も落ち着きを取り戻しつつある。問題の整理もできつつあるのではないか。本日の毎日新聞夕刊に、まだやや腰が引けた感はあるものの、金平茂紀がこう述べている。
「作家の高村薫氏が毎日新聞朝刊(10日)で「(宗教団体への恨みという一部報道を受けとめれば、今回の事件は)非常に特殊な事例と言えるのではないか。安倍氏が銃撃されたことを受け、この事件を『民主主義への挑戦』や『民主主義の崩壊』ととらえる人もいるが、私は違うと思う」と述べていた鋭さに驚嘆した。
死者の追悼と、真実の報道は峻別しなければならない。まして、政治家の「非業の死」を政治利用する行為は、死者を本当の意味で悼むこととは隔たりがある。このことをテレビは今、しかと肝に銘じるべき時である。」
当然といえば当然のことだが、「死者の追悼と、真実の報道は峻別しなければならない」。「銃撃に倒れた安倍晋三の追悼と、安倍晋三が統一教会とズブズブの関係にあって多くの不幸を作り出したという真実の報道とは峻別しなければならない」のだ。 そして、「政治家の『非業の死』を政治利用する行為」をけっして許してはならない。これが、問題の整理である。
日本共産党の志位委員長談話が本日の赤旗トップを飾っている。
「安倍元首相礼賛の『国葬』の実施に反対する」という表題。内容は、かっちりとした立派なものだ。要旨は以下のとおり。
昨日、岸田文雄首相は、参院選遊説中に銃撃を受け亡くなった安倍晋三元首相について、今秋に「国葬」を行うと発表した。
日本共産党は、安倍元首相が無法な銃撃で殺害されたことに対して、深い哀悼の気持ちをのべ、暴挙への厳しい糾弾を表明してきた。政治的立場を異にしていても、ともに国政に携わってきたものとして、亡くなった方に対しては礼儀をつくすのがわが党の立場である。
それは安倍元首相に対する政治的評価、政治的批判とは全く別の問題である。日本共産党は、安倍元首相の在任時に、その内政・外交政策の全般、その政治姿勢に対して、厳しい批判的立場を貫いてきたし、その立場は今でも変わらない。
国民のなかでも、安倍元首相の政治的立場や政治姿勢に対する評価は、大きく分かれていることは明らかだと考える。
しかも、安倍元首相の内政・外交政策の問題点は、過去の問題ではなく、岸田政権がその基本点を継承することを言明しているもとで、今日の日本政治の問題点そのものでもある。
岸田首相が言明したように、安倍元首相を、内政でも外交でも全面的に礼賛する立場での「国葬」を行うことは、国民のなかで評価が大きく分かれている安倍氏の政治的立場や政治姿勢を、国家として全面的に公認し、国家として安倍氏の政治を賛美・礼賛することになる。
またこうした形で「国葬」を行うことが、安倍元首相に対する弔意を、個々の国民に対して、事実上強制することにつながることが、強く懸念される。弔意というのは、誰に対するものであっても、弔意を示すかどうかも含めて、すべて内心の自由にかかわる問題であり、国家が弔意を求めたり、弔意を事実上強制したりすることは、あってはならないことである。
れいわ新選組代表の山本太郎も、「これまでの政策的失敗を口に出すことも憚れる空気を作り出し、神格化されるような国葬を行うこと自体がおかしい」と、「安倍氏国葬に反対」を表明した。参院議員辻元清美も。
公明が「(賛否について)コメントせず」と報道されていることに注目せざるをを得ない。記者団に「この件について、党としてコメントしない」と答えたという。けっして、積極賛成ではないのだ。
また、安倍とは親交が深かったという維新の松井一郎。記者団に「反対ではないが、賛成する人ばかりではない」と述べた。「『反安倍』はたくさんいる。批判が遺族に向かないことを祈っている」とも強調したという。なかなかに意味深ではないか。
こういう問題が起きたときに、何を言うかで、その人物が計られる。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.7.16より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=19520
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〔opinion12191:220717〕
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