二十世紀文学の名作に触れる(39) 『ビラヴド』のトニ・モリスン――「カラー主義」と「他者化」のからくりを鋭く糾弾
- 2022年 9月 13日
- カルチャー
- 『ビラヴド』トニ・モリスン文学横田 喬
社会の分断やヘイト運動が世界中で問題化して久しい。人々は何故「よそ者」を作り出し、排除や差別をしてしまうのか。アフリカ系米国人初のノーベル文学賞作家トニ・モリスンは、そんな「他者化」のからくりを考察。講演や著述を通じ、ウィリアム・フォークナーやヘミングウェイら白人有名作家の「カラー主義」の在り方について、鋭い分析を行っている。
彼女は今から六年前の2016年春、ハーヴァード大学で「帰属(人種)の文学」と題して六回の連続講演を行った。オバマ大統領は二期目の最後の年を迎え、「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命も大事)」というスローガンを掲げた活動が盛んになり、黒人への「警察暴力」が全米的な話題として社会の前面に押し出されていた。翌17年の著作『「他者」の起源』(集英社新書、荒このみ:訳)は、この講演から誕生した。
社会の分断やヘイト運動が世界中で問題化している。人の心は何故「よそ者」を作り出し、排除や差別をしてしまうのか。モリスンはフォークナーやヘミングウェイなど過去の有名白人作家たちが作品に隠蔽した秘かな人種差別を暴き、欺瞞を突きつつ、自著の解説と作品の仕掛けを大胆に明かす。私は第四章(「ブラックネス」の形状)の記述に胸を衝かれた。
――第二次世界大戦の終結直後の1946年、制服姿の黒人復員軍人アイザック・ウッダード軍曹(27歳)がサウス・カロライナ州で奇禍に遭う。ノース・カロライナ州の家族の許へ帰る途中の出来事で、些細な事からバスの運転手と口論となり、運転手が警察を呼んだ。主任警官リンウッド・シャルは治安紊乱罪で軍曹を逮捕。留置場で棍棒で殴り、あろうことか両目を抉ってしまう。この後の顛末も実に痛ましい。
――翌日、彼は有罪判決を受け、50㌦の罰金刑に処される。家族から捜索願が出され、三週間後、サウス・カロライナ州内の病院で失明状態で発見される。目が見えなくなったが、彼は七十三歳になる92年まで生き延びた。一方、シャル主任警官は訴追されたが、無罪放免になり、全員白人の陪審員から熱狂的な拍手喝采で迎えられた。
次いで、モリスンは「二十世紀に米国で発生したリンチ殺人事件のうち、ごく少数の例を挙げておこう」とし、氷山の一角である十二件の実例をこう摘記する。
――エド・ジョンソン:06年、テネシー州で処刑停止令が発令後、刑務所に押し入った白人暴徒らによりリンチ(死)▽ローラとL・D・ネルソン:11年、母と息子。殺人で告訴された後、監房から誘拐され、オクラホマ州内の鉄橋から吊るされる。▽J・クライアス、E・ジャクスン、A・マクギー:20年、三人のサーカス団員。証拠なしにレイプで告訴され、ミネソタ州でリンチ。殺人犯にお咎めなし。▽レイモンド・ガン:31年、レイプと殺人で告訴され、ミズーリ州で暴徒によりガソリンで焼死。(以下略)
本題に戻ろう。トニ・モリスンは1931年、アメリカ中西部の北東にあるオハイオ州ロレインの労働者階級の家に生まれた。本名はクロエ・アンソニー・クロフォード。トニは大学当時に自身が付けた名で、モリスンは58~64年に夫だった男性の姓。黒人文化を重んじた両親や鉄鋼の町ロレインの黒人社会は、作家モリスンを育てる豊かな土壌となった。
49年にワシントンD.C.のハワード大学文学部に入学。在学当時に名前をクロエからミドルネームを短縮したトニに改める。53年にハワード大を卒業し、英文学の学士号を取得。ニューヨークのコーネル大学大学院に進学する。
55年にコーネル大の大学院で英文学の修士号を取得。卒業後、南テキサス大学で英文学の講師となる。58年、ジャマイカ人の建築家ハロルド・モリスンと結婚。二児をもうけるが、64年に離婚。ニューヨークの出版社ランダムハウスの教科書部門で編集者となる。67年、同社本社に移り、アフリカ系米国人の著名人物や作家による出版物の編集を手掛ける。
70年にデビュー長編『青い眼がほしい』を発表。<「誰よりも青い眼にして下さい」と黒人の少女ピコーラは祈った。そうしたら、みんなが私を愛してくれるかも知れないから。自らの価値に気付かず、無邪気に憧れを抱くだけの少女に悲劇が起きる。> 白人が定めた価値観を痛烈に問い質す内容は、批評的成功を収める記念碑的作品と賞揚された。
71年、ランダムハウス社に勤めながら、ニューヨーク州立大準教授を務める。73年、第二長編『スーラ』を発表。<ボトム(どん底)と呼ばれる丘の上で育った黒人の少女、奔放なスーラと大人しいネル。二人は固い友情で結ばれていたが、時が経ち、ネルの結婚式を迎えると、なぜかスーラは町を立ち去ってしまう。> この作品は全米図書賞候補作となった。
77年に第三長編『ソロモンの歌』を発表し、全米批評家協会賞・アメリカ芸術院賞を受ける。<ミシガンの黒人中流家庭で甘やかされて育った三十二歳の男ミルクマン。祖父の故郷ヴァージニアの片田舎へ旅し、ソロモンの童歌をたまたま聴き、その黒人奴隷が曾祖父であることに気付く。家族への思いやりこそ男の責任と悟り、思慮ある男に成長していく。>
81年、第四長編『タール・ベイビー』発表。<カリブ海に浮かぶ雨林が生い茂る小島。白人の庇護の下に育った娘と、黒人に囲まれて成長した青年が出会う。異なるが故に二人は惹かれ合い、激しい恋に落ちる。> 著者の写真が『ニューズ・ウィーク』誌の表紙を飾る。
83年にランダムハウス社を退社。翌年、ニューヨーク州立大学教授となる。87年、第五長編『ビラヴド』発表、ベストセラーとなる。各界より絶賛を浴びるが、全米図書賞及び全米批評家協会賞の選考にかからなかったことから、多くの作家から抗議の声が上がった。翌年、『ビラヴド』はピュリッツァー賞を受ける。
『ビラヴド』訳者・吉田廸子氏の「あとがき」によると、同書の中核となっている「セサの悲劇」は1856年に起きたマーガレット・ガーナ―という名の逃亡奴隷の子殺し事件から想を得ている、という。セサを取り巻く人々の経験も、詳細に調べた史実を土台にして創造された。その中核となったのは、奴隷だった人々が遺した多くの自伝や記録である。
89年、プリンストン大学教授となり、創作科で指導を始める。92年に第六長編『ジャズ』並びに評論『白さと想像力――アメリカ文学の黒人像』を発表。翌年、アフリカ出身のアメリカ人女性として初めてのノーベル賞(文学賞)を受ける。授賞理由は「先見的な力と詩的な重要性によって特徴付けられた小説で、アメリカの現実の重要な側面に生気を与えた」。
98年に第七長編『パラダイス』を、2003年に第八長編『ラヴ』を発表。06年、プリンストン大学から引退。『ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』が『ビラヴド』を過去25年に刊行された「最も偉大なアメリカ小説」に選出。08年、第九長編『マーシィ』発表。
モリスンは19年、八十八歳で亡くなった。
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