コロナ禍のなか、チベットの教え子たちと
- 2022年 9月 17日
- 評論・紹介・意見
- チベット阿部治平
――八ヶ岳山麓から(394)――
この夏、かつて留学を援助したチベット人の元学生が一人、二人とカラマツ林の中の我が家を訪ねてくれた。いつもだと家族ぐるみで来るのもいるのだが、今は新型コロナ感染が終息しない中だから仕方がない。
いずれも20年くらい前にわたしが中国青海省の大学の外国語学部で日本語を教えた学生である。留学後日本で就職したものも、帰国して教職に就き再留学したものもいる。
元学生らのその後の話を聞いて、わたしは笑ったりおどろいたりしたが、そのなかから印象深かったものをここに紹介したい。
わたしは「トン」がいまもあるか聞きたかった。
私がかの地にいたころ、伝統的なチベット人社会では、殺人・傷害などの刑事事件も、金銭トラブル・男女間のもつれ・馬のしっぽ切り(侮辱行為)などの民事事件も、すべて「トン」という民事賠償で解決していた。
もめごとといえば、冬虫夏草の採取地や放牧地をめぐる集落間の境界争いがその典型であり、死傷者を出すことも珍しくはなかった。集団抗争では双方が加害者であり被害者になることがあったが、そういうときは双方が損賠賠償をした。
「トン」では、現金はもちろんだが、羊やヤク(高寒環境に適した毛の長い大型の牛)、馬などの家畜、衣類、金銀、さらにはチベット大蔵経のような仏典も賠償にあてられた。
青海省司法当局はこの慣習法と、1970年代末に施行されたばかりの現行刑法の相克に悩んでいた。集団抗争に現行刑法を適用しようすると、特定の個人を加害者と特定しなくてはならない。そうすると、「あいつばかりがやったんじゃない」という不満が生まれた。また慣習をある程度認め、「トン」と懲役を重ねると刑が重すぎるという不満が生まれた。これが昂じると抗争した双方の集落が役所に押しかけたりした。
牧民出身の学生が「『トン』?……あることはあります。しかし、集落間の争いは減って交通事故が増えています。いずれも基本的に現行刑法で処罰されます」といった。そして「あることはある」という例を話した。
――60年前、1958年の春節(旧暦正月)が近づいた頃、黄河最上流部の草原で、行方不明になっていたA氏の遺体が発見された。狼に食いちらされていたものの腐敗していなかったので鉄砲で撃たれ荷物を奪われたことがわかった。1958年前後は、チベット人地域各地は叛乱と鎮圧で混乱し、強盗・略奪はどこにでもあった。
時は過ぎて60年後の2018年のある日、ユガニンのB氏は村長からチョガルゴンパから人が来たと告げられた。その人は60年前に殺されたA氏の娘婿のC氏であった。C氏はB氏に、義父Aを殺したのはお前の父親だと告げた。
B氏はすこしも驚かず、60年前の父親の犯罪を率直に認めた。というのは、B氏の父親は95歳で死ぬ直前、自分は銃でA氏を殺し、馬と食料を奪ったとうちあけ、「もしこのことでA氏側のものが尋ねてきたら、必ず罪を認めてほしい」と再三懇願していたからである。
C氏はB氏に「トン」20万元(1元15円として300万円)を要求した。個人では到底支払うことはできない額である。そこで「スワ」という集落のもめごと調停人が進み出て、その要求額を17万元と馬2頭の「トン」 にまけさせた。さらにB氏の集落全体でこの「トン」を負担するようにした。
「カネを出すのを嫌がる人はいなかったかのかね?」
「いません。それぞれの経済状態に応じて出しました。馬を盗めば『トン』を共に負担し、人が死ぬと共に喪に服するという諺どおり、集落全体が『共に』負担しました」
むかしは、放牧地の境界争いが勃発すると、集落の長が檄を飛ばし、牧民はみな武装して出陣し流血の争いになった。ところが彼らが学生の時代には、すでに動員を嫌がる人が生まれていた。
80年代に入って人民公社の解散に引き続き、家畜と集落の放牧地が家族ごとに分割され、牧野の共同管理がなくなったために、トラブルが生まれても「当人同士で始末してくれ」と考えるようになったのである。
だが、ところによっては、こんな風に慣習の力が法を超えて、まだ「トン」が生きていたのである。
クラスメイトのその後の極めつきは、ダンジンの消息だった。
「ダンジンを覚えていますか。先生、絶対びっくりしますよ」と再留学組の一人が言った。
わたしはダンジンを思い出せなかった。「じゃあ」といって一人がLINEで中国にいるダンジンを呼び出した。
スマートフォンに現れたにこやかな顔をみて、わたしもようやく彼を思い出した。彼は、「先生ひさしぶりです。先生のおかげサマで、僕は日本語教師の仕事に就くことができました」といった。
ダンジンは貧しい牧民の出身だった。「白酒(焼酎)」を飲んでは酔っ払った。街頭で喧嘩をやるのはしばしばだった。学生寮は1,2階が男子、3,4階が女子になっていたが、彼は窓伝いに3階まで這い上がり、「開けろ」と女子寮の窓を叩いた。一口で言うと不良学生だった。
授業に出てこないので、心配して迎えに行ったこともある。声をかけても、棚ベッドに丸くなって眠ったふりをしていた。いま思えば卒業後の前途を悲観してふてくされていたのだろう。
大学の外国語学部は、彼の貧困への同情もあり低成績の困惑もあって、卒業証書は与えるが学士号は与えないという措置を取った。4年間在学したものを卒業させないわけにはいかないという妙な理屈だった。
ところが彼は、数年後一念発起して日本の関西の私学に留学し学位を修得した。帰国後、故郷近くの大学にうまく就職できて、いま日本語の教師だという。わたしは驚きと同時に、「君、大丈夫かね?勤まるかね?」という言葉が出そうになるのをようやくこらえた。
彼が「外国語教育の学会のためにドイツに行った時、列車の中で先生の友達に会いましたよ。お互い先生の話をしました」といったので、わたしは仰天した。
というのは数年前、高校教員時代の同僚夫妻から、「ドイツへ旅行したとき、列車のなかに日本人らしい人が一人でいるので、こちらへ来ませんかと誘ったら、チベット人の若手学者で、あなたの元学生だった」という話を聞いたことがあったからだ。
これを聞いたときは、チベット人学者がだれだかわからなかった。それがダンジンだったとは。しかも学会に出席するまでになっていたとは。
わたしも思い出話をした。
1990年代の初め、モンゴル人の友人とともに、チベット人地域の中のモンゴル人の民族島とでもいうべき地域をめざしたことがあった。行ってみると、通じるはずのモンゴル語がまったく通じなかった。わたしたちは高地障害もあって道端にへたりこんだ。
そのとき幸いにも「どこから来たか。アメリカ人か」とモンゴル語で声をかけてくれた人がいた。あとで、この集落の言語はみなチベット語に変り、この人ともう一人だけがチベット語とモンゴル語のバイリンガルだとわかった。
モンゴル人の友人は彼の問いに「モンゴルと日本だ」と答えた。
「へえ、日本人をはじめてみた。日本はどこにあるか。フホホトのこっちか向こうか」
「フホホトよりずっと東の方ですよ」
「遠いところだね。馬で来たのか、ラクダかね。何日くらいかかった?」
「日本からは北京まで飛行機できました。それからは汽車やバスやトラック」
「飛行機?あの空を飛ぶやつだね。じゃあ、金持だな。羊やヤクをたくさん持っているんだろう。3000頭か、いや5000頭か?」
「自分の飛行機じゃありません。バスのように客が一緒に乗るんですよ」
この人は「日本人は東のモンゴルだ」といって2晩もただで泊めてくれた。朝晩ジンギスカンの画像に向かって、チベット語のお経をあげていた。
元学生らは、わたしの話に笑った。
テレビがあるから、いまはもう馬やラクダで日本から来るなどというひとはいない、出稼ぎだって道路工事から建築や町のレストランの服務員に変わったという。
「ぼくの兄貴は建設労働者をやめて中古タイヤの販売をやっていますよ」と言ったのもいた。
だが、当時は学生らの知識もそうたいしたものではなかった。彼らが卒業してから、わたしは黄海沿岸の大学に移ったのだが、そこへ数人が留学の相談に来た。そのとき黄海を見て、この海はツォ・ゴンポ(青海湖、ココノール)より大きいかと聞いたのがいたくらいだった。
ところが彼らは日本へ留学すると、数年で宗教学や人類学、工学、農学などの学位を取り、あるものは帰国して大学の教師になり、何人かは日本で就職し研究者や技術者になった。
彼らとともに中国の焼酎を飲み、特別注文の羊肉を食いながら、わたしは教師冥利に尽きると思った。
(2022・09・05)
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