二十世紀世界文学の名作に触れる(42) アナトール・フランスの『神々は渇く』――フランス革命の真実を探求
- 2022年 10月 8日
- カルチャー
- 『神々は渇く』アナトール・フランス文学横田 喬
フランスの作家アナトール・フランス(1844~1924)は1921年、ノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「格調高い様式、人類への深い共感、優美さ、真なるガリア人気質からなる作風による、文学上の輝かしい功績が認められた」。代表作の一つで、フランス革命の真実を探る『神々は渇く』(大塚幸男:訳、岩波文庫)の内容の概略を、私なりに紹介しよう。
時は1793年。パリの教会の戸口には、「自由、平等、友愛、然らずんば死」という共和国の標語が記されていた。状況は深刻で、共和国の軍隊は各地で包囲され、攻囲され、全県のうち三分の二には外敵が侵入するか、革命に反対~蜂起するところとなっている。パリはオーストリア軍の砲火の下にあって、金もなく、パンもなかった。
画家のガムランは一文無しだったが、能動的な市民活動家として登録されていた。王権を打倒し、古い世界を覆した陣営の一員という自覚の下、彼は敵を容赦しなかった。勝利か然らずんば死あるのみで、その熱烈さと晴朗さとはそこに由来していた。
ガムランは愛国の熱情を込め、逞しい筆致で絵を描いたが、悲しいかな、それでは飯が食えなかった。時代は芸術家にとって悪かった。それは国民公会のせいではなかっただろう。共和国に対して連合して陰謀を企てている欧州各国を前にして、決意を固めた国民公会は自らに対して不実を働き残忍に走ることをも辞さず、恐怖政治を日程にのぼせていた。フランスの芸術はもはや外国に販路を持たず、愛国的な画家たちは飢えに苦しんでいた。
倅の家に同居するガムランの母親は、鼠色がかった褐色の捏粉で出来た厚ぼったい丸パンを息子に見せ、こうこぼした。「なんてことだろう! 馬鹿に高くなり、おまけに純粋な小麦粉で出来ているどころではないんだから。市場には卵も、野菜も、チーズもない。」
ガムランは眉をひそめながら言った。「買占め人や相場師どものせいです。奴らは人民を飢えさせ、外国の敵どもと結託して市民に共和国を憎悪させ、自由を破壊しようとしてる!」。彼はこう言葉を継いだ。「人民の食糧を投機の材料にしたり、反乱を扇動したりする者は、ギロチンにかけねばならない。我々の一時の苦しみがなんでしょう! 革命は未来の幾世紀のために人類の幸福を築くでしょう。」
人の良い婦人の心は明るくなった。コップを飲み干し、その生涯の思い出話を続けた。
――お前は愛情深い優しい生まれつきの子だった。お前は不幸な人々に対し、憐みが深かった。お前は誰かが苦しんでいるのを見ると、涙を流さずにはいられなかったのだね。
ガムランは二十歳の頃には重々しい魅力ある顔をしていた。二十代後半の今では暗い眼と蒼白い頬とが悲しくも激烈な魂を表していた。
版画商ジャン・ブレーズの独り娘エロディはガムランに愛されていることを知っていた。彼が暗い様子で彼女を見つめると、小馬鹿にしたような膨れっ面をして、黒い眼を大きく見開いて彼を見つめた。愛されていることを知り、それを不快には思っていない証だった。
父のブレーズは冷ややかで、彼が持参した「自由」「革命」「博愛」「法律」といった革命を模ったトランプ札の受け取りを拒む。「そんなものは国民公会へ持って行くがいい。よく頭に入れておくがいい。もう誰一人、革命には関心を持っていないってことを」と言った。
ガムランはオノレ街で男女の群衆が通りを埋め、「共和国、万歳!」と歓呼するのを目にする。額に柏の葉の冠を戴く黄ばんだ顔色の男が、市民たちに担がれて、ゆっくり進んで行く。ガムランは大群衆の声に合わせて、叫んだ。「マラー万歳!」。彼はマラーを崇拝し、熱愛していた。病んで、潰瘍に蝕まれていながら、共和国のために尽くしていた男を。万人に開放されていた見すぼらしい家で、マラーは彼ガムランを迎え、熱心に問答を交わしている。
これまでにない最も暑い七月の朝。狭いエルサレム街では、百人ばかりの市民たちがパン屋の店先に長い行列をつくっていた。国民公会が最高価格条例を公布するや否や、穀物も小麦粉も姿を消してしまっている。パリの住民は食物を手に入れようと想うなら、夜明け前に起きなければならなかった。人々は押し合いへし合いし、苛立ち、空しく喚き立てた。
マラーは人気やペンの力により、恐るべき権力者だった。民衆の偶像ロベスピエールは、清廉潔白で、猜疑心が強く、到底近づける男ではなかった。非常なやり手で、マラーと交際があったロシュモール夫人はガムラン母子の暮らし向きを心配。画家の就職口を考え、数名の空きがある革命裁判所の陪審員に斡旋。九月半ば、ガムランは新しい職務に就く。
裁判所は四部に分かれ、各部に15人の陪審員が配置されていた。牢獄には囚人が溢れ、訴追官は日に十八時間も仕事をしていた。軍隊の敗北に、地方の暴動に、陰謀や策動~裏切りに、国民公会は恐怖政治を以て対抗していた。神々は渇いていたのである。
目利きの知識人は、こう観測した。<革命裁判所がその裁判所を制定した体制の破滅をもたらすだろう。革命裁判所は余りにも多くの人々の生命を脅かしているから。余りにも低劣な正義感と平板な平等意識とが支配している。これが万人に嫌悪を催させることになる。>
ガムランは14人の同僚と陪審員席に居る。同僚の大半は知り合いで、質朴で誠実な愛国者たち、科学者や芸術家に職人だった。パリの民衆の見本ともいうべき人々で、仕事着や平服を着て控えている。ガムランはみんなの落ち着きが羨ましかった。胸はどきどきし、耳はぶんぶん鳴り、目は霞んで身の回りの一切の物が蒼白く見えたので。
いつも審理が進行し、審問は中断。陪審員たちは審議室で討議を重ねる。意見はほぼ同数で二分された。一方は、煮え切れない者や議論家たち。他方は、議論が苦手で、心情で判断する者たち。後者はいつも断罪を下す連中で、善良な純粋な連中だった。彼らの態度はガムランに強い印象を与え、ガムランも彼らに同感を覚えていた。
ガムランは続けざまに裁かねばならなかった。人民を飢えさせるために穀物を廃棄した廉で告発された旧貴族、内乱助長の目的で舞い戻った三人の亡命者、歓楽街の二人の娼婦、十四人のブルターニュの陰謀者・・・。犯罪は証拠が挙がっており、法律は明確である。ガムランは終始、死刑を主張した。こうして、全ての被告が断頭台へと送られた。
囚人で溢れている牢獄を空けねばならず、裁判をしなければならなかった。訴追官たちは疲労のためへとへとになり、陪審員たちはみんな徳や恐怖によって凶暴になっていた。彼らは神秘的な獣と化し、ふんだんに死刑囚を産み出すのであった。高慢な態度のマリー・アントワネットは93年10月16日、ギロチンで処刑された。恐怖政治に怯えた将軍たちは敵軍を打ち破るほかないことに気付き、今や外敵の侵入は食い止められたかのようだった。
ガムランはコミューヌ総会議の一員に無競争で選出される。立候補者はもはやなく、貧富を問わず公職に就くのを免れようとしていた。七十万のパリ住民のうち、まだ共和主義的精神を持っている者は僅か三~四千人だけでもいようか。
ガムランの顔は暗かった。<何たることだろう! 昔日の国家、化け物のような王政国家は、毎年、四十万人を投獄し、一万五千人を絞刑に処し、三千人を車責の刑に処して、その支配を確保していたのに、共和国はその安全と権力のために僅か数百人の人間を犠牲に供することすら未だに躊躇しているとは! 血の中に身を投じ、そして祖国を救おう・・・>
弁護士デュボスコは革命裁判所に召喚され、連邦主義者として共和国の統一に反対する陰謀を企てた廉で死刑の宣告を受けた。彼は牢仲間たちに別れを告げながらも、いつもの気軽な陽気さを失わず、こう言った。「さようなら、僕は一足先に虚無の中へ参ります。」
ガムランは革命裁判所の長い審問の間、目を閉じ、考えに耽った。<正体を暴露されていく憎むべき叛逆者どもはいつになったら、姿を潜めるであろうか? そして「清廉潔白の人」の炯眼は、いつになったら追及をやめるであろうか?・・・>
1794年7月27日(テルミドール:フランス革命暦の熱月9日)、ブルジョワ党一派などによる反革命的クーデターが勃発。ロベスピエール一派は逮捕~翌日直ちに処刑される。ガムランもその口の一員だった。二輪荷馬車で引き回される姿に、パリ市街の女たちは「吸血鬼!死ね!」と嘲罵を浴びせる。つい最近まで、ブルジョワ党一派などを口汚く罵っていた同じ女たちだ。ガムランは血まみれのギロチンが革命広場に高々と聳えるのを目にした。
因みに、表題の『神々は渇く』について。『神々は干上がっている。もっと潤いが欲しい』意。恐怖政治を批判攻撃~処刑された当時の新聞人の言辞から採ったもの、と言われる。
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