二十世紀世界文学の名作に触れる(43) 『神々は渇く』のアナトール・フランス――精細な史料調査に腐心
- 2022年 10月 13日
- カルチャー
- 『神々は渇く』アナトール・フランス文学横田 喬
「悪は必要だ。もし悪が存在しなければ、善もまた存在しないことになるから」。アナトール・フランスの箴言は、この作家が冷めた人間通だったことを証す。私は彼の代表作『神々は渇く』を精読。その精緻な筆致に感嘆し、作家というより歴史家の仕事では、と時には感じた。むろん、人物には穿った心理描写も付され、優れた文芸作品には間違いないのだが。
『神々は渇く』は彼が六十八歳の時の1912年に著された。著者は覚書の中にこう記す。
――物語全体を通じ、でっち上げたものは一つもない。もろもろの挿話は当時の書き物から採ったものだ。それどころか、実際に語られた言葉をさえ、私はテキストに採用した。
フランス革命もの専門のパリの古書肆に生まれた彼は、精細な史料を通じ、革命とその時代とを底の底まで究め尽くしていた。自ら共和暦を作成し、手帖の40頁にわたって1793年3月1日~95年5月20日の期間の日々の全ての政治的・軍事的・財政的出来事を記し、空模様や耕作状況に季節の模様まで細かくノートしていた、という。
この『神々は渇く』の登場人物は、歴史小説として当然のことながら、ほとんど全てが歴史的人物だ。主人公の画家ガムランも実在の人物である。この主人公の周囲の数人の人物だけが無架空の存在で、他は全て歴史上の人物であるというのは、歴史小説としては異例のことであろう。
例えば、かのロベスピエール(1758~94)。フランス革命期で最も有力な政治家で、代表的な革命家だ。歴史上の悪役的印象が強いが、作者の筆致は趣をいささか異にする。第26章に「すらりとして、青い服を着、髪に粉を振りかけた、まだ若い一人の男」ロベスピエールが登場する。男は街頭で出会った少年に微笑みかけ、優しい声で親切を込め、やりとりした後、一枚の小さな銀貨を手渡す。好ましい印象の人物に描かれ、悪役のそれでは到底ない。
『神々は渇く』は刊行後数週間で十万部も売れたほど読まれたが、反動的作品であるとする非難もまた激しかった。が、著者自身は常に全力を尽くしてそれを否定し、こう反論した。
「確かに、私の主人公ガムランは殆ど化け物のような人物だ。が、人間は徳の名において正義を行使するには余りにも不完全だ。人生の掟は寛容と仁慈だ、と私は示したかったのだ」
十九世紀フランスの社会主義者プルードンはロベスピエールを擁護し、こう述べている。
――忌まわしい悪党どもが自分たちの犯罪を彼になすりつけた。中傷が彼を人でなしと為した。半世紀にわたる呪詛が彼の墓の上に重くのしかかっている。
アナトール・フランスは決して反動家ではない。1884年、かのドレフュス(フランス陸軍参謀本部勤務のユダヤ人大尉)冤罪事件が発生。彼は文豪エミール・ゾラらと共に敢然として正義を擁護する側に立ち、右翼の憤激を買うことも恐れなかった。
そして1905年、日露戦争中の惨劇「血の日曜日」(1月22日)が勃発。「ユマニテ」紙が犠牲者の家族のために義援金を募集すると、彼は率先してその募金に応じている。数日後、五千人の労働者が集まった会合では、こう訴えた。
――ネヴァ河の氷を朱に染めた血から犠牲者の仇を討つ人々が幾百万と出てくるだろう。革命はツァーリズムを滅ぼし尽くすだろう。
彼は後の21年、フランス共産党に加わり、翌年「ソヴェートへの挨拶」を記す。レーニンは後に「アナトール・フランスは前衛的知識人の先頭に立ち、ソヴェート同盟を擁護した最初の人であった」と称えている。
本題に戻ろう。アナトール・フランスは1844年、パリの中心部に近い六区の学生街に生まれた。父は古書店を営み、彼はカトリック系の私立校で中学・高校過程を学ぶ。二十七歳の折の71年、高踏派詩人の雑誌に詩作品を発表する。
81年に長編小説『シルヴェストル・ボナールの罪』<パリ在住の文献学者ボナールはセーヌ河畔の家で暮らす。彼はある貴重な写本の行方を追い、シチリア島まで旅する。オークション会場で目当ての写本を発見~競り落とそうと奮闘。かつて恩を施したことのある婦人から思わぬ贈り物を受け取る(二部構成の内容の第一部概要)>を著し、アカデミー・フランセーズの文学賞を受ける。
以後の足取りを主要な著述に絞って紹介しよう。
90年には同じく長編『舞姫タイス』<舞台は四世紀のエジプト。老修道士パフニュスは隠遁生活の最中、天啓を受け、アレキサンドリア随一の舞姫・娼婦であるタイスをキリスト教の教えに導く>を刊行。94年、同『赤い百合』<十九世紀末のフランス。社交界随一の美女テレーズは父の言うままに結婚するが、夫との間に愛がない。不遇を託つ彼女は情人を持って孤独を癒そうとするが・・・>を著す。
小説以外では、95年に社会評論『エピクロスの園』<「大衆」と題したエッセイの全文。「感情が迸ると衆愚となり、責任感と理性が働けば集合知となる」>を著す。1906年には、この当時の演説や論説を集めた論考『より良き時代の方へ』を刊行する。彼はこう説いた。
――我々の太陽系は動物が苦悩と死とのために生まれる地獄である。
彼は初期には懐疑家だったかも知れない。だが、彼は誤謬を消し去ってくれるものとして科学を信じながらも、科学が万能ではないことを知っていた。なぜなら、「我々は全てを知ることはできないから」。
1921年、ノーベル文学賞を受ける。授賞理由は「格調高い様式、人類への深い共感、優美さ、真なるガリア人気質から成る作風による、文学上の輝かしい功績が認められた」。アナトール・フランスは三年後の24年、八十歳で亡くなった。
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