オットー・クレンペラー : 「芸術と政治」問題に立ちあった人 (5・終)
- 2022年 10月 20日
- スタディルーム
- オットー・クレンペラー野沢敏治
はじめに クレンペラーとの出会い (1)
1 ナチス文化政策との闘い
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2 「文化ボルシェヴィズム」、その音楽的中身 (2)
A オペラ上演
同時代の作品
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古典作品 (3)
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B コンサートについて (4)
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終りに代えて (5)
補論 1、2、3
終りに代えて
最後に、これまでの本論に関連してクレンペラーの指揮の特徴を5つあげておきます。
オリジナル楽器の使用について
クレンペラーは全体的にみると、演奏楽器の現代化に対して批判的です。バロック音楽の現代的演奏と歴史的演奏の是非について当時から議論があり、彼はバッハをオリジナルの楽器を使って演奏することに賛成します。響きの弱いチェンバロの代りに響きの強いピアノを使ったり、ブロックフレーテの代りにフルートを、そしてガンバの代りにチェロを用いると、スコアの均衡が損なわれるからです。また適正な響きをえるにはオーケストラは最小に編成されねばなりません。例えば、『ブランデンブルグ協奏曲』第6番は各声部合せて7人で室内楽のように演奏されるべきなのです(1942年12月13日の『ニューヨーク・タイムズ』掲載の文章「バッハ演奏に際しての立場――解釈の問題についての一人の指揮者の考察」、『指揮者の本懐』所収)。このオーケストレーションの問題についてはクレンペラー自身、失敗の経験がありました。1932年12月にバッハの『ロ短調ミサ』を指揮した時に、彼は大きなアマチュア合唱団と管を2倍にした(――4管編成か!ブルックナーの交響曲でも3管編成なのに)ベルリン・フィルを使ったのですが、不満足な結果に終わりました。その曲の多声部性は、少数の器楽奏者と優秀な歌手だけでこそ純粋に表現できるからです。彼は後年の1967年、ロンドンでその純粋表現を実験することになります(参照、1967年の同曲演奏時のプログラム冊子より)。
戦後になって、クリストファー・ホグウッドが音楽学の成果を生かしてモーツアルトの交響曲全集を出しましたが、それは交響曲の領域にセレナーデをふくませるなど実に衝撃的で新鮮でした。ナチュラル・トランペットの音の澄んで伸びやかだったこと!ヴィブラートなしの弦楽器奏法!この古楽器奏法がベートーヴェンやその後のロマン派にまで及びます。その一方でこういうこともありました。リヒテルは現代ピアノでベートーヴェンの初期のソナタを演奏する時に、それはハイドンやモーツアルトの影響下にありながらも、ベートーヴェンの野心的で実験的な頭にはきっとこのような音がしていたのだろうと思われるほどに、大きくてダイナミックな演奏をしていました。こういう歴史的奏法もあるのです。
今日でもなお、歴史的演奏をめぐって議論が絶えません。
スター気どりはない
クレンペラーだからでもありましょう。彼の指揮にはこれ見よがしの所作がありません。常に楽譜に神経を集中させて曲に直入するのです。それと対照的にカラヤンは、ぼくが知っているのは戦後のことですが、写真映りを気にし、聴衆に注目されることが好きでした。ちゃんとした実力があり、時には聴衆の好みに逆らってまで作曲家自身が指定したテンポを押し通す頑固さもあったのに。そして流線型のスポーツカーがすっと走り去るかのような演奏。マーラーの指揮も若い時にはわざとらしさがありましたが、円熟してからは素朴にあるがままとなったようです。マーラーはいつもさっと出てきて指揮をし、聴衆の喝采をやめさせる改革までしました(参照、ナターリエ前掲書)。よく知られているように、フルトヴェングラーにもスター気どりはなかったようです。その変わった拍子の取り方はとても颯爽としたものでありません。そのことは写真を見ても分かります。手の震えるような動きが始まったと思ったら、オーケストラが寸文の狂いもなく鳴りだすのです。演奏が終わると全楽員を立たせたり、首席奏者に握手を求めこともなかったと伝えられています(参照、エリーザベト前掲書)。
今日の指揮者とまったく正反対です。
暗譜は目的ではない
クレンペラーは暗譜による指揮を重視しません。演奏の目的は言うまでもなく、暗譜することでなく音楽することにあります。トスカニーニが暗譜で指揮することは有名でしたが、それは彼が強度の近視であったというそれなりの理由があったからです。聴衆は指揮者が暗譜して指揮する時には、その姿を見物するのであって、必ずしも音楽を聴くのでありません。演奏家のなかには暗譜した方が曲をよく感じて自由に演奏できると考える人もいますが、クレンペラーはそれは虚栄心のなせる業だと言い放ちました。自由な演奏は楽譜を見てもできるのだから、暗譜することに力を入れるのでなく、「作品の内なる本質を知る」ことの方が大事だと言うのです(1964年『ささやかな回想』への寄稿、『指揮者の本懐』所収)。暗譜は偉大な指揮者や演奏家にも大変な努力を強い、舞台に出る前に忘れるのでないかと不安にもさせるのです。
ただ、フルトヴェングラーの次の考えにはうなずけます。彼は論説「暗譜指揮について」(1926年、『音と言葉』所収)のなかで暗譜による指揮を条件つきで認めました。ベートーヴェンのような劇的な音楽は指揮者に音楽の経過への完全な一体化を求めるから、暗譜で指揮することは自明のことである。他方、バッハのような叙事詩的な音楽は客観的に報告する面があるから、暗譜は無条件ではない、と。
テンポについて
クレンペラーのテンポはインテンポでしたが、誰もがそう感じるように絶妙でした。テンポはメトロノームによって指示されますが、その数値で客観的に決められるものでなく、他の要素、拍子やクレッシェンドやデクレッシェンド、アッチェレランド等も考えねば正しいテンポをとれないようです。彼はマーラのテンポの場合も「これ以外にありえないと思われるもの」であり、「すべてがかくあらねばならなかった」、「これ以上でも、これ以下でもありえない」ものであったと証言しています(参照、『クレンペラーとの対話』)。そのマーラーはナターリエに対してベートーヴェンの第6交響曲のテンポとベートーヴェンの感情表現との関係について、そして指揮者自身の自然から受ける感情の有無との関係について説明することがありました。テンポを考える参考になります。
作曲もする指揮者
クレンペラーはマーラーの『第3交響曲』の練習の後で、マーラーから「あなたは作曲しますね。そうでしょう?」と声をかけられたことがありました、彼は自分のものなど作曲とは認めていなかったので否定すると、「いやいや」「作曲をしてますよ。見かけでわかるんです!」と言われたという(「マーラー小回顧録」(1960年)、『指揮者の本懐』より)。見かけで分かるとはどういうことだろうと思いますが、この話は『対話』版では次のように微妙に違っています。「きみは作曲をするかね」「いやいや、君が作曲をやることはわたしにはわかるよ」。
実はクレンペラーは指揮者になる前から、そして指揮者として活躍する最晩年に至るまで作曲し続けているのです。作曲もする指揮者、それはマーラーに先例があり、同年代ではワルターやフルトヴェングラーもそうでした。だが一般に指揮者の作品は創造的なものと評価されないようです。評論家は指揮をしていたら、自分も偉大な作曲家のように交響曲や弦楽四重奏曲を作ってみたいと誘惑されるのだろうと、その価値を低く評価しています。
クルト・リースがそれらに対して指揮者の作曲をフルトヴェングラーに即して弁護することがありました(参照、『フルトヴェングラー』)。これは一考に値すると思われます。もう一つ評価すべきことがあります。それは曲は瞬間瞬間にできるのでなく、全体にわたって楽想を適正に配置するのですから、その作曲経験があれば演奏する時にも曲の構造を認識させ、再現芸術を創造的なものにすると言えるのでないでしょうか。
以上で私のクレンペラーとの対話を終えます。
補論
1 音楽による抵抗の他の3つの例
クレンペラーのナチスへの抵抗は頓挫しましたが、彼以外の抵抗の例をあげておきます。音楽が政治に妥協することからも多くの教訓を得られますがーー意外に大事な視点――、ここでは抵抗者を取りあげます。フルトヴェングラーとカザルス、ワルターです。それぞれに対照的でした。
フルトヴェングラーーー芸術は政治と無関係
フルトヴェングラーは芸術は芸術であって政治と無関係だという態度をとり、芸術の政治化を強いるナチスと対立します。彼はナチスに圧迫された多くの音楽家を職業的にも精神的にも助けていました。けれども彼は音楽演奏の政治的結果に対する意識に乏しかったと言えます。彼は第3帝国の発足式にワグナーの『ニュルンベルグの名歌手』を指揮しますから、ナチスに組しているとみなされても仕方ないことでした。また彼は第2回慈善演奏会において臨席したヒットラーの前でドイツ式あいさつを求められますが、彼はそんなことは演奏と関係ないことと断り、指揮棒をもったままただお辞儀するだけにすませました。しかし、その写真が真相を伝えないままに内外の新聞に公開されてしまい、彼はナチスの指揮者という烙印を押されてしまいます(参照、クルト・リース前掲書)。さらにこの純粋音楽家は1933年にナチが排除した非アーリア系の音楽家を招いて演奏会を開くことを計画しました。 彼は音楽によってあらゆるものの溝を埋めて人と人を結びつけようとしたのですが、招待した人たちに断られてしまいます。彼らはそんなことでユダヤ人音楽家がドイツで自由に活動していると政治的に宣伝されることを恐れたからでした(参照、ベルタガイスマー前掲書)。こういうフルトヴェングラーに反対する方が正しかったのです。
ナチスの支配下という現実にあって音楽を政治と切り離すことは誤りです。それでもリースも付記していたように、ヒットラーの独裁のもとにあっても内面の自由は邪魔されないことの「真実性」はあると言えるでしょう。フルトヴェングラーをめぐるこの種の「音楽と政治」の問題性は今日に至るまで議論は止みません。私たちの国ではないことです。
パブロ・カザルスーーチェロをもって全体主義に対抗する
カザルスはフルトヴェングラーと対照的でした(――以下、参照、J.M.コレドール著、佐藤良雄訳『カザルスとの対話』)。彼はチェロの演奏方法を革新し、バッハの無伴奏組曲の学譜を発見した人であり、世界中の人々が彼の演奏を聴きたがっていました。だが彼はヒットラーのナチス・ドイツやムッソリーニのファシズム・イタリアには演奏に行かないと宣言します。それらの奴隷の国ではフルトヴェングラー的な音楽の自由などないという理由で。彼は自分の武器であるチェロと指揮棒をもって(!)全体主義に抵抗したのです。
カザルスにとって芸術は気晴らしの娯楽でなく「その本来の人間的意義を保持すべき」ものでした。彼は芸術的中立性を理由に政治を拒否して象牙の塔にこもることは、人間性の堕落であるとみなします。そして、アメリカに亡命して聴衆から拍手とチケットの収入をえるよりも、ヨーロッパを全体主義から解放するためにヨーロッパに留まって同胞を勇気づけることが自分の道義的義務と考える人でした。その彼は第2次大戦後も祖国スペインに自由と民主主義が戻らないかぎりどこの国からの演奏依頼にも応じられないと宣言するのです。それではということで、世界中から、日本からも、彼を慕う音楽家が彼の元に集まってプラード音楽祭をもつのでした。
ワルターーー音楽の道徳的作用
「ワルターはモラリストだ。だが私は断じて違う。」これはクレンペラーが1961年のBBCテレビの放映の中で語った言葉です。それはワルターの芸風との違い(――ワルターは演奏に当たってフォルテよりもピアノや歌うことを重視し、モーツァルトなどは誰も認めるようにそっと包み込むような演奏をしていました)を意識したなかでの発言ですが、そのモラリストの意味をワルターの回想録『主題と変奏』の中から探っておこうと思います。アンチ・モラルにはクレンペラー自身がそうであったような恋愛癖の意味もありますが、それよりもワルターの音楽観に即してモラルの意味を考えてみようと思います。そうすることで、音楽は何を表現するか、あるいは表現できるかを考える参考になるでしょう。
ワルターは音楽の社会実践的な意義や道徳的な効果を認める人でした。彼は音楽が政治的にたけた者に対してもその魂を高揚させ、人間から最良のものを呼び起こした経験を語っています。ワルターの偉いところはその音楽の道徳的作用を、ナチスから迫害された酷い状況の中でも、けっして忘れなかったことです。彼にとって音楽は人類を同胞とする超民族的な言語でした。ドイツのシュトレーゼマンは1925年の英仏独伊ベルギー間のロカルノ条約締結から1929年の死の時までヨーロッパの政治的統一を求めて活動した政治家です。彼は民族和解を望む世界市民的な考えをもち、1926年にはノーベル平和賞を受賞します。ワルターはそういう政治状況の時にパリでのモーツァルト連続公演に招待され、そこでの芸術活動がヨーロッパの政治的協調に貢献すると考えたのです。彼は汎ヨーロッパ運動に文化的に参加したのです。ナチスがこの諸民族の文化共同体を敵視しました。1929年、シュトレーゼマンは亡くなり、世界は恐慌と失業の時代へと急転換し、ナチスがその不幸につけこみます。
ワルターはナチス下のドイツにぎりぎりまで留まって――ナチの迫害に対して楽観的すぎるほどーー芸術を守ろうとしました。彼は「音楽の道徳的な力」という講演の中で、調性音楽の立場からベルクらの無調音楽を批判します。それも単に様式上のことや個人的な審美感からでなく、上述の現実政治との関わりのなかで批判したのです。彼にとって調性音楽はその中に不協和音を含むことはあっても最後は協和音で終わることが示すように、人間間の協和を許さない現実に対して精神的に抵抗する人でした。たとえフーベルマンのように芸術への帰依と人類の同胞としての義務を調和させることはできなかったとしても、と断って。結局、彼の試みはドイツでは徒労に終りましたが。
「ワルターはモラリストだ」という意味は表面的に理解されてはなりません。それはワルターが個人道徳的に品行方正だということでなく、音楽は人に公共への関心をもたせると受けとめるべきなのです。こうしてみると、クレンペラーの前衛音楽活動とワルターの無調音楽批判は反ナチスという一点で、その音楽観に違いはあっても、つながるのです
2 社会主義への関心と社会主義リアリズムへの反発
クレンペラーはナチスに対してだけでなく、ソ連社会主義の文化政策とも事を構えることになります。
クレンペラーは前述したように、1918年にドイツ革命がおきた時に多少とも社会主義者となったと回顧していました。1918年11月、ドイツのバイエルンに共和国が成立して宮廷は消滅しました。クレンペラーは皇帝の退位を歓迎します。それに代わってクルト・アイスナーの労・農・兵レーテ政権が成立し、こんどは政府の大臣が国の文化政策を担当することになり、翌年9月に当時もっとも民主的なワイマール憲法が成立します。クレンペラーはここである程度社会主義者になったのです。でも彼の社会主義に対する姿勢は変化します。その社会主義の内容ははっきりしませんが、最初は新生ロシアが新しい社会秩序の建設に向かうことを好意的に感じていました。音楽面ではロシアは水準の高いオペラやオーケストラを育成していきます。彼はそのロシアに1924年から36年までの間に演奏旅行をしますが、聴衆の熱心さに好感を抱き、ロシアに移住することまで考えたようです。でもそのロシア熱も次第に冷めていきます。ロシアで住宅を確保することの難しさを知り、食品売り場での長い行列を見て、考え直したらしいのです(参照、エーファ前掲書)。
党=国家による文化介入
それにロシアの文化政策が演奏の障害になります。西洋のオペラや交響曲はブルジョア的で退廃しているとみなされ、マーラーの第4交響曲の終楽章のように天国や聖ペテロを歌うことは許されないことでした。ワルターもロシアで同曲を演奏した時に同じ反応を受けていました。宗教はアヘンだと説くそのイデオロギー宣伝が人々に自分の耳をもたせなかったのです。ロシアではやがて社会主義リアリズムという様式が芸術の価値判断の基準とされていきます。
また、ワルターは革命政権が反革命を恐れるあまり秘密警察を組織することに気が滅入るのでした。ドイツではナチスの反ユダヤ政策のもとで人々はユダヤ人に近づくことに不安を感じ、誰か聞き耳をたてて密告するのでないかと周囲を警戒するようになるのですが、この社会心理は革命ロシアのものでもありました。アンドレ・ジードが『ソヴェト紀行』で社会主義国ロシアで人々の個性の発展や多様性が失われることに懸念を示したのは1936年です。それでもジードは社会主義に絶望することなく、その将来に希望をもとうとしたのですが、カザルスはもっと強く、革命による新秩序の建設が非人間的な手段をとっているとみてロシアと縁を切るのでした。
社会主義リアリズムは何であったのか。今はもう昔語りになり、繰り返すのは退屈ですが、やはり記録しておきます。1936年1月、『プラウダ』に「音楽のかわりに荒唐無稽」というタイトルの論文が出ました。それは共産党中央委員会の指示によってショスタコヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を批判するものでした。――「調子はずれの、わけのわからぬ流れ」、「メロディの断片はとどろきやきしり、かなきり声の中に沈んでいく」、「歌は叫び声によっておきかえられて満たされている」、主人公のカテリーナの情熱は神経過敏でその痙攣的な音楽をジャズから借りている、この音楽は「平明で誰にもわかる音楽語をもつ交響的音響となんの共通性のない」もの、わざとあべこべに作られている。この「音楽的荒唐無稽の密林」「メイエルホリド式」の「極左的芸術」は音楽そのものを否定しており、真の芸術と異なる小ブル的革新しかない。これはソヴェト生活の健全さを描く「社会主義リアリズム」でない、それは反人民的形式主義の音楽、「堕落した音楽」だ。
たしかにその歌劇の音楽は楽音でなく騒音が一杯であり、筋も複雑です。だが問題は真の芸術を決める主体が芸術の上に位置する共産党であったり、その基準が政治的な社会主義リアリズムという様式であった(――それがリアルかどうかはまったく別問題!)ことです。それに、平明な音楽とは何でしょうか。それはフルトヴェングラーがベートーヴェンの音楽に見つけた単純さとは違います。またヴァイルらが求めた分かりやすさとも違います。また形式主義が批判されますが、そこには形式を音楽の力動とか形成と捉える音楽的感性もありません。
クレンペラーはモスクワの演劇事情を知って、メイエルホリドやスタニスラフスキーの前衛的な演出が芝居がかったものでなく、後者については「心の演劇」であったと感想を述べることがありました(参照、1927年4月25日「リムスキー・コルサコフのオペラ『ツァーの花嫁』の上演」、『指揮者の本懐』所収)。前者のメイエルホリドはスターリンによって残酷に粛清されてしまいます。こうしてクレンペラーは現実の社会主義に対して疑惑を抱くようになり、後にはスターリニズムが荒れ狂ったロシアに行かなくてよかったと回顧することになります。
第2次大戦後も社会主義リアリズムがクレンペラーの前に立ちはだかりました。1947年の冬、彼はアメリカ亡命中にソ連の衛星国ハンガリーでブダペスト歌劇場の監督になります。その3年目に彼は政治の介入に我慢できなくなりました。彼はシェーンベルクの曲を振ろうとしましたが、文化大臣からそれは社会主義リアリズムに基づかず、人々に理解されないから駄目だと言われます。ここでもおよそ文化の分からない文化大臣のでしゃばり。それで彼はハンガリーを去るのです(参照、『クレンペラーとの対話』)。
ソ連では戦後も社会主義リアリズムが芸術家に要請されました。1948年、ソ同盟共産党中央員会はムラデリのオペラ『偉大な友情』の公開試演に参加した後、ジダーノフがその作品は失敗であったと『ソヴェト音楽』第1号に掲載したのです。――オペラの舞台は北カフカズの多民族構成の中でソヴェト権力が生まれ、階級闘争と友好関係の確立がなされる時のことなのに、諸民族の生活や風俗は描かれず、音楽は民族性と縁のないもの、コザックは登場するが、その歌や音楽はまったく表示されない、レズギンカが演じられても広く知られたその旋律の影もない、独創性を追うあまり自分のレズギンカ音楽を分かりにくく作っただけ。そしてここでもショスタコヴィチ批判と同じことが繰りかえされます。――記憶に残るメロディ無し、聴衆に理解されがたい音楽、調子はずれの喧噪な即興曲。それから音楽が登場人物の気分や出来事に相応せず、悲歌的な瞬間に突然太鼓が鳴り響く、英雄的な出来事の時に柔らかで悲歌的な音になる(――それはヴァイルやブレヒトの異化効果の2番煎じであったのでしょうか。いずれにしても批判者にはそんなことすら思い浮かばなかったでしょう)。
さて、以上は社会主義リアリズムからの批判ですが、以下の音楽家組織への介入はあまり知られていません。ジダーノフはソヴェト作曲家同盟とその組織委員会による音楽行政を槍玉にあげました。専門家やエリートが批判されるのです。作曲家同盟の芸術問題委員会は指導的な作曲家と批評家の密閉されたサークルであって、そこでは以下の少数グループ、ショスタコヴィチやプロコフイエフ、ミヤコフスキー、ハチャトゥリアン、ポポフ、カバレフスキー等による寡頭政治がおこなわれており、作曲家と聴衆との接触も弱体化していて、創造的な討論や批判・反批判を元にした「民主主義」(いわゆる党内民主主義)はないと言うのです。
ではジダーノフはどういう音楽をモデルにするのか。それはチャイコフスキーやロシア国民楽派――グリンカ、リムスキー・コルサコフ、ムソルグスキー等――の古典的遺産でした。それが高い思想性をもち、民衆的旋律の歌曲や合唱と結びついていると言うのです。それに対して、古典や民族性を拒否するエリートは個人主義的で観念的な体験につかえ、人民への奉仕を拒否して通人相手に作曲する学問的作曲家であると決めつけられます。
こうしてジダーノフは音楽の天才性は大衆に分かりやすく大衆に受け入れられるところにあるとみて、音楽家は民衆を責めるのでなく、民衆を受け入れられない自分を自己批判せよと迫ったのです。そしてその自己改造は作曲家の自発性には期待できないから、党の介入が必要だと論じたのです。
同盟や委員会にはジダーノフによって指摘された問題はあり、内部でもそれなりの反省をしましたが、その解決はやはり音楽家自身の自発性を尊重すべきであったのです。聴衆や批評家とのやり取りをもっと信頼すべきだったのです。……戦後の日本でも音楽を健全音楽と退廃音楽に分けることがあり、その残響は消えていません。
3 アメリカでの自由の限界と商業主義の暴力
1933年、クレンペラーは自由を求めてドイツを離れ、アメリカに亡命しました。アメリカは政治的には比較的自由でしたが、それには限界があったのです。クレンペラーは1940年にアメリカ市民権を得ますが、ある期間ごとにアメリカに帰らないとパスポートは発行されませんでした。戦後にマッカーシズムが荒れ狂った時には、彼はブダペスト歌劇場の指揮者となっていましたから、それが当局から共産主義に共鳴していると疑われ、パスポートはなかなか発行されませんでした。
アメリカには芸術にとって別の堕落が控えていました。この方がある意味で深刻です。クレンペラーはアメリカ的商業主義とも闘わねばねばならなかったのです。アメリカは経済的に繁栄しており、その経済力をもってヨーロッパから著名な演奏家が集められて助成されます。トスカニーニやシュナーベル、ワルター等がそうであり、クレンペラーもそこに加えられます。演奏団体は技術的には最高の訓練を受けており、アンサンブルの精緻さは際立っていました。だがその一方で、文化的な感性で劣る面がありました。クレンペラーはそれを目の当たりにします。ある人がロサンジェルスの巨大競技場で指揮したのですが、拡声器を調整する技師が曲のクレッシェンドや高揚する箇所にくると、耳が痛くなるほどボリュームを上げ、反対に静かなところになると、極端にピアニッシモにしてしまいます。当の技師はそれがアメリカ的効果を生むと言ったのです(参照、1936年10月21日の新聞『ヴィーナー・ターク』の記事「アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲をどう体験したか」、『指揮者の本懐』所収)。こんなに極端でなくてもレコード録音はどこでも編集されており、それは指揮者と作成者・技師の良心に、最終的には聴衆の文化的な耳に拠るしかないのです。
クレンペラー自身が経験したことをあげましょう。彼は同じロサンジェルスでチャイコフスキーの第6交響曲を演奏する時に、マネジャーから演奏を第3楽章の景気のいいマーチで終え、暗い終楽章は省くように頼まれました。いやはや、何とも!もちろんクレンペラーは断ります(参照、『クレンペラーとの対話』)。もう一つだけ例をあげます。クレンペラーは1941年にニューヨーク市立管弦楽団の演奏を頼まれますが、辞退しました。その理由は、支配人がワグナーの『ジークフリート牧歌』をオリジナルの13の管弦楽器でなく、フルの弦楽器群で演奏してほしいと固執したからです。フルで演奏すると、音は豊かに響きますが、ワグナーが意図したように各楽器が室内楽的に親しく交わるものでなくなります(参照、1941年1月28日の新聞『ニューヨーク・タイムズ』音楽担当編集者にあてた手紙)。
こうしてクレンペラーはそれからも音楽性を守るために周囲とぶつかっていくのでした。
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