宗教についての断想/宗教と政治・世俗世界
- 2022年 11月 18日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
はじめに
私は無神論者だということもあり、宗教のこと、信仰のことに口出しするのは極力避けてきました。しかし安倍元首相銃殺事件のあと、旧統一教会問題が、自民党の醜悪な実態をさらけ出す大スキャンダルに発展しつつある事態を前にして、否が応でも私なりに考えざるをえなくなりました。中央政治はもとより、地方政治の深部にまでいたるであろう、カルト教団と自民党との癒着が、いかに日本の政治をゆがめてきたのか、どうしてもこの際徹底解明されなければなりません。私が地方の住民運動に関わり始めた1978,9年当時、旧統一教会が地方議会に「スパイ防止法制定」を求める請願運動を大々的に行なっているのを目の当たりにしました。草の根からの、その用意周到な系統的組織的な動きに、当時警戒感を刺激されたことを思い出しました。
旧統一教会スキャンダルが浮き彫りにした問題のひとつが、政治と宗教の関係というものでした。ここではこの問題について政局的な扱いからやや距離を置いて、少し原理的に考えてみようと思います。
この問題を考える手がかりが、キリスト教の新約聖書にあります。マタイ伝22章:15~22節(マルコ伝12章:13~17節)にある、「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」というイエスの言葉で知られる一節です。煩雑に感じられるかもしれませんが、知らない方の方が多いと思われますので、聖書のこの箇所をその背景事情もふくめ説明しておきましょう。
イエスの生きていた時代のパレスティナは、ローマ帝国の属州となっており、ローマ皇帝の名代であるシリア総督に統治されていました。そのためユダヤ人は自らの神殿に納める十分の一税のほか、ローマ帝国へ人頭税や通行税などを納めなければなりませんでした。当然、外部の支配者から科される税金は、パレスティナの人々の怨嗟の的でした。
当時ユダヤ律法に厳格なパリサイ派の人々や親ローマ帝国派のヘロデ党の人々は、ガリラヤ地方で貧しい人々から急速に支持を集めていたイエスに反感を持ち、なにかあれば貶め亡き者にしようとようと虎視眈々とその機会を狙っていました。それで両派の人々は、イエスのもとに人をやって、こう言ったのです。「あなたは真実な方であって、真理に基づいて人々に分け隔てなく神の道を教えている」ことを私たちは知っております。それでお尋ねするのですが、「カエサル(ローマ皇帝)に税金を納めてもいいのでしょうか」と。
この問いかけは巧妙な罠でした。イエスが「よい」といえば、ローマの支配と納税に反感をもっている人々の気持ちを逆なですることになり、イエスから離反することになるかもしれません。また反対に「いな」といえば、ローマの支配への反逆を意味することになり、いずれにせよイエスは窮地に陥ることになると踏んだのです。
イエスは自分を陥れようとしている愚を悟らせるべく、税として納める貨幣を持ってきなさいといい、そして持ってきたその貨幣を見ながら、そこに刻印されているのは誰の肖像かと尋ねる。彼らが「カエサルです」と答えると、イエスは「それではカエサルのものはカエサルへ、神のものは神に返しなさい」と言って、みなを驚嘆させたといいます。
この有名な挿話は、どのように解釈されるべきなのでしょうか。イエスは人々に信仰は信仰として、善良なる市民としては納税義務を果たすがよいと説いたのだと解釈されています。もう少し理屈が立つと、神への信仰と国家への義務は次元が異なり、両方を守ることは矛盾ではない、としたものだという言い方にもなります。つまりイエスの言葉は、ローマ帝国への納税義務という、いかんともしがたい現実にたんにプラグマティックに対応したというものではなかった。神の王国は個々人の心のなかにあるものであり、または信仰を同じくする人々の心の共同体のうちにあるものであり、それは俗世という現実世界とは区別されるものだとする宗教的原理にかかわるものだった、と解釈していいのではないでしょうか。一方は精神的権威の領域であり、他方は現世的権力の領域であると言い換えてもいいでしょう。
素人の勝手な解釈めきますが、イエスの「カエサルのものはカエサル」という説法は、個人の信仰と国家への義務は一個人において両立しうることを説いたものであり、長い年月を経て16世紀の宗教戦争後、政教分離の近代的な国家原則として結実していったものの大本だと思います。しかし政と教を分離する線引きは、今日なおそれほど簡単ではないように思います。
信仰の側からこの問題をみてみましょう。宗教と政治に代表される世俗のこととの分離が行き過ぎれば、一方では信仰の内面的求心力が失われ、世俗のことに同化し日常性に埋没してしまうことになりかねません。宗教から精神的意義が薄れて、習俗的な慣行に堕する危険性があります。その意味で、信仰を信仰たらしめる実存的契機、生の意味の喪失への危機意識は、世俗との緊張関係を不可避とするのです。
他方で、分離が行きすぎれば、信仰はこの世との関りを持たない純粋なる魂の事柄にすぎなくなり、一種の魂の引きこもりに退化してしまいます。信仰者は魂の変革者としての勢い(モメンタム)を喪失して、一種の自己満足に陥ってしまします。いずれの場合にも、政教分離の名のもとに、理想と現実は分断したまま放置されることになります。線引きをしつつも、宗教と世俗との間の緊張関係は保たれていなければなりません。宗教的な理想との緊張関係を失えば、現実はもっと退行して後ろ向きの現実になっていく道理であります。
ドイツの偉大な哲学者ヘーゲルは、若いころの「精神現象学」という著書で、「絶対知」という概念をもって、ある種キリスト教的世界像とパラレルな近代的世界の完成態を提示しています。実体と主体の統一、疎外から解放されて世界と人間とが完全調和にいたる境地、現実と理想との究極的統一を説くのです。一方には実体が、つまり諸個人の前に立ちふさがる旧世界を引きずる対象的世界、他方には主体が、つまり世界を変革して己にふさわしい世界を築こうとする諸個人,この両項が分裂と対立を経て、やがて和解し相互に統一して完成した世界が成立する――ヘーゲルは、伝統的なキリスト教的理念をテンプレートとして、世界の完成にいたるこのような哲学的理念を構築するのです。
これは近代世界における分裂と人間疎外が克服可能であることの偉大なる構想であるとともに、ある意味で危険な要素もはらんでいます。というのも、宗教と世俗との関係は、絶対的世界と相対的世界との関係であり、混同すべきではないからです。ヘーゲルのいう絶対知が、現実と理想の統一を実現した絶対的な正しさをもつものであるかどうかは、世俗的世界では証明不可能なことです―一般的に現代哲学では、宗教的命題は反証不可能なものとして、哲学的には有意味でないと斥けられます。絶対性を掲げる信仰世界を前にしては、信じるか信じないかの二項以外の態度はとりようがないわけです。繰り返しになりますが、当該信仰者にとってのみ信仰対象である神や仏は、欠点や欠落を有しない完全なるもの、絶対的な正義を体現するものです。ところが世俗的世界は、相対的な関係で成り立っており、絶対的正義や絶対的優越性というものは成り立たないのです。それでも絶対者の存在が信仰者の内面的世界や同一信仰を有するコミュニティの内部にとどまっている限りは、問題は起きません。しかし世俗的世界に絶対者の存在を直接的な形で持ち込めば、紛争のもとになります。新興宗教やカルト宗派の問題は、彼等が懐く理想(絶対者)と現実の距離を性急に縮めようとして、行動は急進的になり、市民社会のルールとぶつかることになることです――もちろんこうした問題は、過激な政治運動についてもあてはまります。心の世界から越境して現実世界に心の世界への同化を求めるとき、紛争は激しくなります。その紛争を避けようとすれば、世俗的世界、具体的には市民社会においては俗人として公民とか市民とかの資格において共通のルールを設定し、それに従うしかありません。かくして議論の始まりにあった政教分離の問題に還ってくるわけです。
この問題をもう少し現実に即して考えるために、創価学会とそのもともの教義である王仏冥合(おうぶつみょうごう)を例として考えてみましょう。
創価学会はその最盛期にはかなり強いカルト性を帯びた新興宗教でした。私が上京してきた1967年ころは、その布教折伏の勢いはすざましく、私の入居したアパートは半年のうちに信者だらけになり、朝は南妙法蓮華経の読経でうるさいくらいでした。私も向かいの部屋に住む職人夫婦―とても親切で典型的な善男善女でした―から誘いを受け、聖教新聞をたびたび読まされました。そこに書かれていた記事の多くは、創価学会の信仰共同体としての集団的な力の賛美や、空中浮揚までではないにせよ、信仰によって癌が治ったとか難病から解放されたとかで、ともかく奇跡の物語が紙面に溢れておりました。当時高度経済成長真っ盛り、その一方で公害や住宅不足、交通渋滞、大気汚染などの都市問題は激化の一方をたどり、それこそ人間疎外状況が蔓延しておりました。地方から上京して工場や土木・建築の工事現場、町場の中小零細企業で働く人々にとって、それは決して住み心地のいいものではなく、多くは孤立感や焦燥感を深めるように作用したでしょう。だからこそ信仰のもたらす精神的な癒しや濃密な人間関係をはぐくむ信徒コミュニティは、かけがえのないものと感じられ、多くの人々が入信したのでしょう。
もともとは日蓮正宗という宗門本体ではなく、その信徒団体に過ぎなかった創価学会。それが破門をきっかけに宗門から独立、1990年代に実質的に「創価学会」教を立ち上げることになりました。この宗派の外形的な特徴は、公明党という相対的に独立性の弱い政党を丸抱えにしていることです―これはヨーロッパのキリスト教の名を冠した政党の在り方とは違う点です。そして世俗の政治活動、というか選挙=集票活動に邁進することを、信仰の証のひとつとしているといってよいのです。それはプロテスタンティズムに属するカルヴァン派が、世俗的な職業労働を天職としてこれに禁欲的に勤しむことを、神意にかない救いの道に通じるとして奨励したことに似ていなくもありません。創価学会の地方・地域の会館が、選挙のたびに選対本部としてフル稼働する姿をみても、宗教団体が既成政党に対し推薦や支持表明するという一般的なかかわり方とは随分異なっています。宗教団体が丸ごと丸抱えで特定政党を押すという在り方は、信者の政党支持の自由を侵すのではないかという疑念はずっとついてまわっています。
もともと日蓮正宗は他の仏教諸宗派と異なり、教義上も政治への志向性が強いといえます。国家・社会の在り方を仏法(法華経)によって改造し、この世に寂光浄土を実現すると日蓮は説いています。ただ法華経本門の教えを国家・社会の指導原理とするとする教義=「王仏冥合」(あるいは日蓮正宗の国教化を意味する国立戒壇)も宗派内の信仰体系にとどまっている限り、とりあえず問題はないとはいえるでしょうが、しかし宗教組織に対し政治組織が従属的に一体化しているがゆえに、憲法の政教分離条項に抵触する危険性がつねにつきまといます。近代的な政治原理に照らしてみるときに顕わになるこうした教義上の、かつ実践上の弱点、脆弱性は、創価学会の理念である世界平和や人間の尊厳を守り実現する上で、障害になる可能性は否定できないでしょう。権力に弱みを握られて、大事なところで屈服を強いられることもあるでしょう。さらに旧統一教会がそうであるように、自らの弱点を意識するがゆえに、市民社会からの監視や批判に対する本体の宗教組織の防壁として、政治組織を利用することにつながりかねません。
今回の旧統一教会問題でも、どのような教義であれ、信徒たちの納得と確信のもとで信奉され、実践されるかぎり問題はないとする見解が、少なくない人々から表明されています。しかし例えば、韓国土着の家父長制的伝統の色合いが濃く、中世の初夜権をすら思わせる「合同結婚式」ですが、これは直ちに法令違反にならないにしても、婚姻における個人の自己決定権という近代的原理への明らかな侵犯です。明白な人権侵害に当たる場合は、信徒たちの確信のいかんにかかわらず、当該教義とその実践は批判され、中止を勧告されるべきなのです。市民社会における自由とは、他者の自由と利益を損なわず、己の幸福を追求する自由(J.S.ミル)であるかぎり、宗教的活動と言えどもこの規範を免れるわけにはいかないのです。というか、人間尊重を旨とする宗教宗派であればあるほど、むしろ市民社会の人権規範により敏感に感応すべきであり、みずから率先して俗世をリードしていくべきものと考えます。信仰世界と俗世との近代的法理に基づく区別と、そのうえで両者のいい意味での緊張関係のうちでよき応答関係を築くこと、そのことが、ますます混迷を深める世界の危機的状況にとって喫緊の課題であるのでしょう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12553:221118〕
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