二冊の遺稿集に接して(2)長沼節夫著『ジャーナリストを生きる 伊那谷から韓国・中国そして世界へ』
- 2022年 12月 3日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
長沼節夫(1942-2019)さんの名前を知ったのはいつのことだったのだろう。何がきっかけだったのかが思い出せないでいる。ともかく、今回、遺稿集が出されたと聞いて、求めたのが457頁に及ぶ大冊であった。飯田高校同窓生、京大吉田寮生、ジャーナリストの方々による渾身の遺稿集である。
長沼節夫著作集編纂委員会編 南信州新聞社 2022年7月
長沼さんは、京都大学在学中の「京都大学新聞」の記者時代から、いわばジャーナリストであり、アメリカ留学を経て、ヨーロッパ・中東・アジアなどを歴訪、大学新聞に寄稿を続け、院生時代には京都ベ平連での活動、韓国大統領選取材に始まる金大中との交流、「天皇の軍隊」の執筆などの傍らフリーの記者や予備校講師をしていたが、1972年時事通信社に入社している。経済部、社会部配属の記者として、時にはプライベートの取材を重ね、ポーランドの「連帯」取材、日本の原発取材、「第3回天皇マッカーサー会見録」の発掘などについて執筆、2002年60歳で時事通信社を退社している。在職中には、組合運動を理由に記者職をはずされたため不当配転無効確認訴訟を起こし、賃金差別の東京都労働委員会への救済申し立てなどの活動を続けた。退職後も、「生涯ジャーナリスト」を貫いた。
その長沼さんが、短歌を詠み始めたのである。私の属するポトナム短歌会に入会されたのが、今回の遺稿集の年譜では、2001年、小学校の恩師代田猛男さんの勧めすすめとあった。今年の4月、創刊100周年記念の『ポトナム』の年表によれば、長沼さんは、すでに2000年8月には「五七五七七のミッシング・リンク」を寄稿している。2011年退会するまでに、つぎのようなエッセーを寄せていた。
五七五七七のミッシング・リンク 2000年8月
「大事件」と短歌「9・11テロ」を巡って 2002年4月
漢字短歌の面白さ 2004年8月
イラク派兵と「サマワ詠」 2005年2月
諏訪・岡谷の空気を深呼吸…忘年歌会に参加して
2007年2月*
私の歌枕 日比谷公園 2009年7月*
白秋のパレット 2010年6月*
国際ペンのシンポ「短歌とTANKA」傍聴記 2010年12月*
*は遺稿集にも収録されている
何しろこのあたりの『ポトナム』を最近、近代文学館に寄贈してしまったもので、確かめられない。短歌も同様で、いつから発表して始めたのかも、定かではないが、ブログ「チョーさん通信」では、2006年から2010年まで、「ポトナム詠草」として残されている。遺稿集にも厳選された68首が「源流」と題されて収録されている。
いま手元にある、長沼さんからのはじめての手紙(2001年2月27日)によれば、やはり入会は、2000年小学校時代の恩師代田猛男・直美夫妻の勧めに拠ったとの記載があった。猛男さんは2004年に、直美さんは2022年1月94歳で亡くなられた。若い時、『ポトナム』の全国大会などで代田夫妻にはお目にかかってはいるのだが、晩年は、作品を読むにとどまってしまった。いまから思えば長沼さんの話も伺っておきたかったなどと思う。その長沼さんの手紙には、私が出版したばかりの『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)をお送りした折のお礼と感想が書かれていた。簡易封筒いっぱいの文字、身に余る励ましの言葉が綴られていたので、私も大事にしていたのである。さらに、翌日日付のはがきの追伸もあり、これも裏表に綴られている。和歌の時代からの天皇制の呪縛、歌壇の一笑に付すべき文章などに触れていた。またもう一通は、私の第二歌集『野の記憶』(ながらみ書房 2004年)への礼状であった。この頃、『ジャーナリスト同盟報』をお送りいただいており、手紙と一緒にファイルに収めてあった。さらにメールでは、「メディアウオッチ100」も何度かお送りいただいたことなどを思い出す。
それにしても、お会いしたことはただの一度、2004年以降だと思うが、議員会館での集会で、初対面の挨拶だけをした記憶がある。たぶん、連れ合いが集会の主催者側で、私もあたふたとしていて、ゆっくりお話しすることができなかったのではないか。また別の集会でも、参加者としてお名前がありながら、お目にかかれなかったこともあった。
あらためて、ご冥福をいのるとともに、残された短歌の一部を紹介したい。ブログの短歌詠草300首近い中から、私の気になった、そして共感する短歌は多すぎるのだが・・・その思いに重ねて。とくに注記がない作品は、『ポトナム』詠草である。
ああ短歌なぜ「みそひと」だけなのか思い余りて行をこぼれる【2006年4月】
2005年
・白日にさらせ特高の拷問を「横浜事件」の再審裁判
・ブラジルに明日発つ午後の紀伊国屋で南の空の星座表探す
・提灯屋も下駄屋も炭屋も綿打ち屋も 町内会は屋号で呼び合う
・市長より「ふるさと大使」の委嘱受く我がふるさとは万緑の中
・地下鉄にイスラムの民乗り来れば不安よぎれりその我れを叱る
・自裁せし我が先達の死に顔の凛たるを見て襟を正せり
・取り入れを目前逝きし人の米四十九日の土産に賜ぶる
2006年
・年明けて初出勤に急ぐ道心持ち胸を反らせて行かん
・残生もかくあれかしとこころもち胸張りて行く仕事場への道
・我ら記者に定年などなし「生涯一記者」を自負する我ぞ
・木曽谷に隠れキリシタンの歴史あり首毀たれしマリア地蔵よ
・踏み場全くなきにはあらねども所狭(せ)き家いざ片付けん
2007年
・残留孤児の老人たちにねぎらいの一語だに無き棄却判決
・まやかしの予測はあれど「もしかして」と沖縄密約裁判に並ぶ
・真実に目つぶる判決相次ぎて国の僕(しもべ)か司法危うし
・若者が死ぬるや哀れまして今みずから逝くはなお哀れ
2009年
・記者皆が批判精神失せしより記者会見は空しくも過ぐ
・ごみでしょういや資料だと争いつつ我が家を埋める「切り抜き」の山
・大路往く金大中氏の国葬の列に手を振りて別れを告げる
・投獄や死刑判決拉致監禁乗り越えし人いま身罷りぬ
・去年まで気付かざりしに曼珠沙華窓の向かいの小暗き土手に
2010年
・ああミレナあなたは真夏のダリアです、どこを切っても水のしたたる
(カフカの恋人)
・エッセーもルポもあなたの文章はそのまま短歌になりそうだね、ミレナ
・大丈夫これで治すと励ませる丸山ワクチンに夢をあがなう
・お互いに「否!」とう言葉を戒めるわれらの中の安保体制
・伊那路なる飯田市歴史研究所その静けさに風そっと行く
・化粧箱に入れ仕舞いたる母の骨時々振りて母を思えり
歌集『伊那』2015年版
・ 今日もまた国会前を埋め尽くす人らに交じりて抗議叫びぬ
・ 朝礼のたびに倒れし傍にいて支えてくれし恩師を見送る
(04年代田孟男氏死去)
・ 鶴見さんと「六・一五」に国会で花捧げしは十年前か
(05年7月鶴見俊輔氏 死去)
・ 鶴見さんに仕事課された幸せをかみしめており訃報聞きつつ
・治りません。付き合うのですときっぱりと若き医師から励まされいる
・うず高き資料の山が部屋を埋め我が「平成」は未整理に逝く
・「この夏を忘れないように」と呼びかける女子学生に未来の光
歌集『伊那』2019年版
・治りません。付き合うのですときっぱりと若き医師から励まされいる
・うず高き資料の山が部屋を埋め我が「平成」は未整理に逝く
初出:「内野光子のブログ」2022.11.30より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/11/post-dd97fa.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12602:221203〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。